序章:メシアの大天使
忘れられた都市が、雨に目覚める夜。
静寂の中に潜む声なき叫び、追う影と逃げる影が交差する。
それはただの追跡ではない。過去と罪、信仰と虚無、そして名もなき契約が絡み合う運命の交差点。
すべてが動き出す——終わりを告げる始まりと共に。
「もう一度聞こう。今の気分は?」
◇◆◇◆◇◆
プロローグ — 時間は尽きかけている
今日は、ただの雨じゃない。嵐だ。
それは忘れられた大聖堂の砕けたステンドグラスを流れ落ち、路地裏を腐ったエメラルド色に染めていく。
この街は眠らない——だが、生きてもいない。
構造そのものが壊死した死体のように、無理やり動き続けている。腐食したコンクリートがその肉、夜の神なき空を貫く塔がその骨。
緑の光がガス灯と囁く彫像の眼から震え出し、信仰が疫病と化した路地に、解読不能な影を投げかける。
道の隙間からは熱い蒸気が噴き出す。それは、死にきれぬ過去が吐き出す熱病の吐息。
ゴシック建築の屋上で、二つの人影が駆ける——ガーゴイルの間をすり抜ける残像のように。
一人は追い、一人は逃げる。
どちらも影。
どちらも罪。
彼らはビルの隙間を跳び越える。まるで深淵を地面だとでも思っているかのように。
風は血を冷やすが、足を止めさせはしない。
一人が電線を滑り降りる。壊れた楽器の弦のように張られたそれは、空中で緑の火花を散らす。
下では、生きた大通りが身をよじらせている——セピア色のヘッドライトに照らされた無骨な車たちが、まるで機械仕掛けの腸を這う虫のように走っている。
逃げる者はその間を飛び越え、荒々しく着地し、転がり、立ち上がる。
迷う暇などない。
追う者はすぐ背後に。予兆のように無慈悲に。
遠くで犬の遠吠えが響く。
だが、それは泣いている子供の声にも聞こえた。
彫像たちが見つめる。
街が呼吸する。
そして、雨——呪われ、神聖なるそれが、降り始める。
肌に触れたとき、ふと気づく。
最初からずっと、あの雨は——
中にいた。
大通りはクラクションと金属の唸り声で沈黙を貪り食う。まるで助けを求めて叫んでいるかのように。
一台の車が逆走して交差点を突っ切る——車体が震え、ヘッドライトが濡れたアスファルトに光を吐き出す。
その閃光の中で、神の気まぐれのような一瞬で、世界が減速する。
追う者が闇の中から現れる。
ライトがその身体を舐め、完璧に整ったスーツの輪郭をあらわにする。それは、まるで「宣告」のように揃えられている。
背中には、不可解な紋章が踊っている——理解しようとする者の目を裂く、血のような言語の文字。
ワイン色のネクタイが、追跡の風に揺れる。
その中心に刻まれているのは——
黒い蝶。その翼には「4」の数字が、警告のように刻印されている。
だが、息を止めさせるのは、その仮面だ。
黒い。艶やか。生きている。
まるで寄生虫。あるいは、口に出せない秘密。
両側、耳のあたりに赤く脈打つ円——眠れる獣の目。
表面は、液状の肉と呪われたガラスでできており、口元には組み合わされた二つの手の浮き彫りがある。まるでその言葉が、ある「契約」によって封じられているかのように。
目の奥には、白く光る鍵穴の形——語ることより、隠すための光。
その腕には黒いインクのような亀裂が走り、螺旋が無限に回っている。
首には見えない縄の痕。
掌には中空の円。
手の甲には、再び「4」の数字。
その肌は——黄色みを帯びたアジア系の色だが、内側から死に尽くしたように蒼白い。
そして、光は逃げる者をも照らす。
白。ほとんど聖なるもの。
だが、汚れている。
色褪せた大きなマフラーが、その身体を包み込む。まるで世界最後の抱擁のように。
裾の裂けた時代錯誤のコートが、街の汚れた風になびき、降伏の旗のように揺れる。
その下は、ほぼ裸。
湿ったボクサーパンツ一枚が、鍛え抜かれた太腿に張り付いている。
裸足で走り、足は街を裂き、血と沈黙を残していく。
顔は白くて光沢のある仮面で覆われている。それはすべてを映し出すが、本人だけは映さない。
額の中央には、首を垂れた鳩の頭——その目は、後頭部まで続く包帯で覆われている。
茶色の髪は濡れて乱れ、水と絶望を滴らせている。
肌は、白い。チョークのように。
生きていてはならぬものの、白さだ。
二人は一瞬、視線を交わす。
渋滞の真ん中で、時間が凍りつく。
時が喉を詰まらせる。
ライトが消える。
闇が、すべてを再び飲み込んだ。
街が叫ぶ。タイヤが悲鳴を上げ、サイレンが泣き叫び、空は緑色の雷を吐き出す。まるで地獄の胃袋そのものが嘔吐しているかのように。
二つの影は止まらない。混沌を確かな足場として、ビルの間を踊り続ける。
突如、逃げる者が足を止めた。身体がバキバキと音を立てる。
振り返る。
その瞬間、筋肉と意志の爆発と共に、彼は歩道に停められた車の下に指を滑り込ませた。
金属が軋み、悲鳴を上げる。だが、彼は気にしない。
常識という名のすべての法則を裏切るような力で、その車を空中へと放り投げる——金属と死のミサイルとして、追う者に向かって回転しながら飛んでいく。
衝突すれば、壊滅的な被害は免れない。
人々が叫び、カメラが砕け、時間が息を呑む。
だが、追う者は走らない。
ためらわない。
ただ、両手を広げるだけ。
車は空中で減速する。まるで見えない糸に引っかかったかのように。金属は軋み、ねじれ、彼の掌にある「虚無」に吸い込まれていくかのようだ。
車体は沈み始める。黒いインクに飲み込まれるように。光が消え、叫びも消える。
——だが、最後の一瞬で止まる。
冷酷な優しさで、彼は車を地面に下ろす。まるで父親が子を寝かしつけるように。ボンネットは無傷。人々は無事。
そして、再び走り出す。
さっきより速く。
まるで、その行為が気に入ったかのように。
逃げる者は前へと駆け出す。ガラスの壁を蹴り破り、垂直のビルを駆け上がる。まるで重力がうたた寝しているかのように。
一歩一歩、窓ガラスが粉々に砕け、空中に舞い上がる。それは、穢れた雪のように踊る。追う者もそれに続き、同じ壁を駆け上がる。その足跡は対称的な破壊——詩的な戦争の軌跡となる。
そして突然、逃げる者は横へと跳び、空中で回転しながら、掌に歪んだ骨の棘を形成する。肉は血を流すことなく割れた。それは、何千回も繰り返された儀式のように自然な動きだった。
彼はそれを投げつける——
弾丸のように、棘が空気を裂く。
超音速で。
——だが。
追う者は、ただ腕を伸ばすだけだった。
棘は命中する。
しかし、それは濡れた紙に染み込むインクのように、ただ吸い込まれていった。
肌は裂けない。
飲み込むだけだった。
彼は首を回し、指を鳴らす。
そして、走る足を止めることなく、鋭い軽蔑の声で言い放つ。
「マジかよ。骨の棘?お前の空っぽな脳には、それしかアイデアがないのか?」
——その声は、魂に突き刺さる。
それは、嘲笑ではなかった。
審判だった。
逃げる者は……それでも、微笑んだ。
すでにすべてを失った者の笑みだった。
二人は走り続ける。
ケーブルを飛び越え、梁を滑り、
まるで影のように、窓を突き破る。
下の世界はまだ知らない。
怪物たちに見られていることを。
——そして。
逃げる者は、摩天楼の頂。
朽ちた倉庫の天井を突き破って落ちる。
濡れた床に滑り、膝をつく。
もう、逃げない。
腕を軽く上げ、
しゃがれた笑い声を漏らす。
月光に照らされる白い仮面が、不気味に光った。
追う者は、生きた嵐のように現れる。
一秒の猶予もなく突進し、
その身体を掴み上げる。
——衝撃音。
鉄を砕くような音が、倉庫全体に響いた。
だが。
逃げる者は……抵抗しない。
ただ、首を傾けて。
短く、笑う。
「——これが、俺の望んでいたことだ。」
沈黙が、場を支配する。
だがその沈黙は、
安らぎをもたらさない。
残されたのは、ただ——問い。
雨の重みと静けさに軋む倉庫。
追う者はその体を掴み、
金属の箱の山に叩きつけた。
——ガシャ。
重く、鈍い音。
床が沈む。
まるで重力が、彼のためだけに倍増したかのように。
白い襟元を掴む。
すすと血に染まった布。
緑の光が、二人の輪郭を幽霊のように照らす。
「お前らは、誰に仕えてる?
何を企んでやがる?
……答えろ。」
その声は、鐘の奥底から響くような低音。
重く、厳しい。
逃げる者は——笑う。
小さく始まり、
徐々に大きくなる。
仮面の奥で、目が揺れる。
踊るように。
「遅かったな、お前。
今日は……知らぬ者が時を失う日だ。」
拳が締まる。
だが、逃げる者は痛みに反応しない。
そのまま、狂気へと沈んでいく。
追う者は、必死に理性を保とうとする。
「何言ってんだ、意味わかんねぇ」
——唾を飛ばすように吐き捨てる。
「だがな、そんな手は通用しねぇ。
俺たちは、お前らみたいな異常者を——
ずっと監視してきた。」
逃げる者は、ゆっくりと笑みを浮かべる。
まるで……
台本を知っていたかのように。
「そんなに監視してるのに……
なんでまだ、“我らの指導者”が誰かも知らねぇんだ?」
——沈黙。
追う者の動きが、止まる。
……長い。
長すぎる沈黙。
逃げる者は、笑い出す。
だがその笑いは、歪んでいた。
調和を拒む音。
名のない狂気。
「自由こそが、すべての始まりだ。“偉大なる救世主”が…… 俺たちを、救う。」
——轟音。
倉庫が、悲鳴のように、崩れ始めた。
——爆発音。
コンクリートと鋼鉄が破片となって、壁が吹き飛ぶ。
その向こうに広がるのは——蛍光色に染まる、生きた都市。
緑に病んだホログラム広告が脈打つ。
薬、カルト、公開処刑。
まばたきのない目が、巨大スクリーンから見下ろしてくる。
尖塔。ケーブル。ガーゴイル。
下では、蟻のような群衆が、彷徨っている。
追う者は、その混沌を見つめる。
それは命の鼓動——文明の下水を流れる脈動だった。
「自分たちが何かを支配してるとでも思ってるのか。
だがな——お前らも、この連中と同じ。
……ただの、駒だ。」
だが。
何かが、変わった。
ひとり、倒れる。
そして——十人。
さらに——百人。
——人々の身体が、歪み始める。
一瞬で、老い。
萎れ、乾き、崩れ落ちる。
他の者たちは——ただ、蒸発した。
まるで、“時”そのものが、彼らを通り抜けたかのように。
追う者の目が、見開かれる。
「……なっ……!」
矢のように、倉庫から飛び出す。
壁を、アンテナを、屋根を駆け下りる。
疾風のごとく。
誰かを——助けようとする。
だが、遅い。
彼の腕の中で、ひとりの子供が——老婆になる。
彼女は微笑む。
そして、崩れる。
灰が、彼の手にまとわりつく。
熱い。
だが、生きていない。
次々と、人が崩れていく。
子供。
若者。
老人。
誰一人——残されない。
無音の終焉。
沈黙の大虐殺。
——その時だった。
屋上から、あの音が響く。
四つの音。
レ・ミ・シ・ラ。
Dマイナー。
空を切り裂くような旋律。
詩的な刃のように。
そして、彼は——落ちた。
黒き仮面の男が、その姿を見つめる。
スローモーション。
矢のように。
まっすぐに。
身体が震える。
痙攣する。
息を吐く。
——そして、止まる。
静寂。
雨が降り続ける中、追う者は——灰の中に跪く。
街は、今や、囁きと煙だけ。
だが。
突如、地平線の向こうから——轟音。
閃光。
崩れ落ちる、何か。
黒き仮面の男は、顔を上げる。
その瞳は、鍵穴の奥に閉ざされている。
彼は、呟く。
それは、絶望の底からにじみ出た、祈りのような警告だった。
「——壁が……崩れていく……!!」
◇◆◇◆◇◆
著者のノート
本作を命のある物語に昇華するため、心血を注いでいます。
ここまで読んでくださった皆様へ——千の感謝を。
こうして、すべてを消し、すべてを露わにする雨の下で、
忘れられた都市は再び囁き始めた――
決して聞かれるべきではなかった秘密を。
水たまりに残された足跡は、ただの現在のものではない。
それは忘れられた選択、静かに結ばれた契約、
そして見てはならなかったものから逸らされた視線を背負っている。
壊れた現実の狭間を歩む者に、救いなど存在しない。
残るのは――ただ、こだま。
長く腐った信仰のこだま。
名もなき約束のこだま。
それでも代償を求める声。
影と運命が交差するこの場所に、勝者などいない。
あるのは、歩み続ける者だけ。
なぜなら、真の終焉はまだこちらを見つめているからだ。
静かに――だが、確実に。