20. いないなら放てばいいのさ①
辺境伯家の長男・ジークヴェルトが場の注目を集めている隙に、ディアナとラキルスは、ランバート侯爵令嬢をここから逃がそうとしていた。
「この後、ここに魔獣が現れるから、今すぐ全力でここから離れてね」
「えっ…はあ!?魔獣!?」
「し―――――っ!」
ぎょっとして声を張り上げかけたランバート侯爵令嬢の口を、ディアナが慌てて塞ぎ、ラキルスは静かに制止する。
「ランバート侯爵令嬢の身の安全のためですので、冷静にお願いします」
「説明は今度するから、今は自分の安全を最優先にしてね。私たちがちゃんと対処するから、魔獣のことは心配しないで大丈夫だからね!」
安心してもらうために言ったディアナに対し、ランバート侯爵令嬢は、思わずといった様子でディアナの腕をがしっと掴み、必死の形相で言い縋った。
「ディアナは残るつもりなの!?危ないわよ一緒に行きましょう!?」
「えっ…」
ランバート侯爵令嬢は、ディアナが普通のご令嬢ではないことは認識しているが、実は一人で王都を守れるくらい戦えるなんてことまでは知らなかったので、純粋にディアナを心配をしていた。
それは、友人として当たり前のことなのかもしれないが、辺境では魔獣との戦いなんて日常の光景であり、同じ感覚の人しか周囲にいない環境下で育ったディアナには、あまり経験のないことだった。
魔獣に立ち向かうディアナを心配してくれる人なんて、ラキルスしかいないと思っていたのに―――――
「ディアナのことは私にお任せください。決して側から離れませんし、何より義兄上がいらっしゃいますから、何も心配いりませんよ」
にっこりと微笑み、ラキルスはランバート侯爵令嬢を宥めた。
ラキルスは、正しく説明することよりも、ランバート侯爵令嬢に安心してもらい速やかに避難する気になってもらうことを優先し、言葉を出来るだけ削ぎ落していた。
魔獣がこちらに向かっていることは事実なのだ。直接魔獣に襲われる可能性は低くても、この場がパニックに陥ろうものなら身に危険が及ぶ可能性はある。これ以上ランバート侯爵令嬢を巻き込まないためにも、一刻も早くここから避難してもらう必要があったのだ。
まだ不安そうな様子を見せながらも、自分が足手まといにしかならないことを察したランバート侯爵令嬢は、後ろ髪をひかれるように度々振り返りながら、護衛に連れられていく。
「終わったらすぐに連絡してね?絶対よ?」
「うん!またあとでね」
頷いたランバート侯爵令嬢は、覚悟を決めたように前を向くと、その後は振り返ることなくこの場を後にした。
ランバート侯爵令嬢の後ろ姿を見送りながら、ディアナは静かに口を開いた。
「ねえラキ」
「うん」
「心配してくれてたね」
「うん」
ディアナは噛み締めるように少し唇を結んだ後、じんわりと頬を緩ませながら続きを口にした。
「―――――嬉しい、ね」
ラキルスには、ディアナの嬉しさが手に取るように伝わってきていた。そして、ディアナがそういう気持ちを真っ先に共有したいのはラキルスなのだということも伝わって来るから、ラキルスだってつられて嬉しくなってしまうのかもしれない。
「うん。そうだね。…いい友達だな」
「えへへ。うん!」
人間が頑張ろうと思う活力なんて、ほんの些細なことだったりするものだ。
ありがとう、とか。がんばって、とか。ディアナはそんな一言でめちゃめちゃ頑張れたりする。
「よーっし!がんばるぞ―――――!」
「うん。まあ義兄上に任せておけば大丈夫だろうから、とりあえずは様子見で」
近づいてくるジークヴェルトに場所を譲るかのように、ディアナとラキルスは、神子の側から少し距離を取る。
ジークヴェルトは凶器を振るうつもりがないことを示すためか、ハンマーを置き去りにしたまま神子の前に立つと、のっそりと口を開いた。
「で、侯爵令息と神子が結婚すると、何で魔獣が襲ってこなくなるんだ?」
「―――――は………?」
いつの間にやら目の前に立っていたデカくてゴツい男性の存在に驚いたのか、ジークヴェルトの発した言葉の意味が分からなかったのか、神子は呆けたようにジークヴェルトを見上げた。
「あんたらの神がそう言ったんだろ?どういう理屈なんだ?」
「え?いえ、あの、国が安寧に……」
「だから、国の危機ってのは紛争でも天災でもなく魔獣が襲ってくることなんだから、魔獣が襲って来なくならねえと危機を回避したことにならねーだろうが」
ジークヴェルトはガンガン言葉を重ねているが、理攻めで言い負かそうなんてことは全く考えておらず、その発言の根拠がさっぱり理解できないから説明を求めているだけである。
尚、ディアナは「やっぱり神様はいるんじゃ…」みたいな変な擁護をしてしまいそうなため、おくちチャック中である。辺境伯家サイドの空気をしっかり読んだ次第である。
「え、あの、そういうことじゃ…」
「違うのか?違うならどう違うんだ?御託はいい。脳筋にも分かるように分かりやすい言葉で端的に説明しろ。どう国は救われるって?」
「ですから、結婚という結びつきによって…」
「人間の結婚なんか、魔獣には何の影響も与えねーだろうが。だから魔獣が襲ってこなくなる根拠を説明しろっつってんだよ」
ジークヴェルトが聞きたいのは「どうしたら魔獣が襲ってこなくなるか」なのであって、それ以外の部分の説明はいらないのだ。その部分に触れずに説明しようとしたって永遠に引き戻されるだけであり、ディアナほど気の長くないジークヴェルトは、そのうちブチ切れるだけである。
「武力の時代は終わったって言うくらいだから、あんたらの神は、武力以外の力で魔獣を鎮めてくれるんだろ?」
本当にそんな力があるのなら、何で未だに魔獣の力は衰えないんだろうな?と、神子にしか聞こえないくらいの小さい声で呟き、ジークヴェルトは瞳から温度を消した。
「あ、の………」
「ああ、もう説明はいい。もうそこまで迫って来ている」
ゆっくりと後方を振り仰いだジークヴェルトの視線の先から、人々のざわめきや小さな悲鳴がじわじわと迫って来ていた。
「なんだ!?動物!?」
「うわっなんだあれ血じゃないのか…?」
「えっもしかして魔獣……?」
そして一際大きな声が、人々を一気に恐怖に陥れた。
「きゃ―――っ!!魔獣よ―――――!!」
途端に儀式の場はパニックに陥る。
逃げようとする人々の怒号や錯乱した声が響き渡り、恐怖のあまり動けなくなる者や、はぐれた我が子を必死に探す者など、絵に描いたような阿鼻叫喚図が繰り広げられている。
そんな中、人々が凄い勢いで左右にざあっと道を開けたかと思うと、その真ん中から、口許にべったりと血を付けた一匹の獣が走り出て来た。
「ひっ………」
神子は恐怖のあまり、ガタガタ震えながらその場に尻餅をつき、呆然と魔獣に目を向ける。
大きさは成犬程度ではあるが、爪も牙も鋭くとがっており、また纏う空気も禍々しい。
キツネっぽい見た目をしており決して異形というわけではないが、「これは間違いなく魔獣だ」と、この場の全員が即座に理解していた。




