12. 名前が罠
「表情に出そうなときは、扇子をすっと顔の前に広げて隠すの」
「ほほう。なるほど。じゃあ笑いを抑えきれなくて肩が震えちゃうときとかはどうするんですか?」
「気合いで耐えるのよ」
「ええ…?そこは根性論なんですか?何かアイテムないんですか?」
「ないわ。ないのよ。わたくしも欲しいわ。わたくし笑い上戸なのよ?」
明け方になって眠気に襲われたラキルスは、昼近くになっても爆睡している。
ディアナはと言えば、辺境で夜行性の魔獣と対峙することもあるため、徹夜も慣れたものであり、仮眠程度で復活していた。
ひとりヒマそうなディアナを見かけた義母である公爵夫人がお茶に誘ってくれ、二人で中庭で話をすることになったので、ディアナは早々に腹芸を学んできていないことを白状することにした。
こういうことは引き延ばしたところで良いことは何もない。さくっと晒しておくに限るのだ。
素直に足りない部分の教えを乞うディアナを、公爵夫人は好ましく思ってくれたようで、丁寧に対処法を伝授してくれる。
腹芸の基本はアルカイックスマイルというヤツで、ラキルスのように常に微笑むスタイルだそうだが、我慢できない表情があるなら、その表情を常日頃晒しまくっておくのも、手としてはアリだそうだ。
例えば、苦手なものに遭遇したとき、どうしても眉が寄ってしまうんだったら、別に苦手じゃないもののときも敢えて眉を寄せておくようにして、カモフラージュせよということだ。
そこでディアナはハッとする。
「待ってお義母さま。ということは、常日頃 震えておけば、笑っちゃったときも誤魔化せるってことでは!?」
「理屈としてはそういうことになるけど、常日頃 震えるって、色んな意味で、なかなか難解だと思うわ?」
冷静に見解を述べる義母に、ディアナは嬉々として畳みかける。
「わたしは免疫があるのでダメですが、お義母さまだけならイケますよ!今しがたご令息を震えさせた実績のあるアイテムがあるんで、それを思い出して震えるっていう手が―――――」
「ディーアーナー?」
ディアナが秘蔵の辺境アイテムを提案しようとしたところで、やっと起きてきたらしいラキルスが話を遮ってきた。
「あれご令息。よく眠れたようで何より」
「お陰様で。それより、あんなもの見せたら母の寿命が縮まるからやめてくれ」
「えー……」
「心底残念そうな顔しても駄目だから」
「え―――………」
「ダメなものはダメ」
呆れたような顔をしつつ、ラキルスの声は少し楽しそうだ。
「あら、いつの間にそんなに仲良くなったの?」
二人の会話を聞いていた公爵夫人が不思議そうに問いかけてくるが、その目はとても優しい。若夫婦の仲が、良い方向に向かい始めたことを喜んでくれているのだと伝わってくる。
「辺境では、背中を預ける人間に対して疑心を抱かないように、良いことも悪いことも包み隠さず示すことで、信頼関係を築いていくんだそうですよ。なので私も、まずは信頼してもらえるようにならないといけないので」
ラキルスからしたら、今までの自分の中の常識を覆すようなことだろう。
でもラキルスは、それすらも楽しみに思ってくれているんだろうなという、晴れ晴れとした笑顔を見せてくれている。
ほら、脳筋テッパンのプロセスは、意外とマルチに通用する。
心の拳であっても、本気で殴り合えば、最後は笑い合えるものなのだ。
手加減容赦せず全力でタコ殴っておいた甲斐があったってもんである。(※あくまで心の拳のハナシである)
「ところでディアナ、さきほどから私のことを『ご令息』と呼んでいるが、夫婦として、その呼び方はどうなんだろう」
「あれ?あ、そうだよね。えーと、ラキ…―――――ラキ………」
ラキルスの名前を呼びかけたディアナが突如固まり、絶望の表情を浮かべる。
「―――え、ラキリス?ラキルス?ラキレス?
全部違和感ないんだけど、正解はどれ…?くっ…こんなところに罠が…っ」
まさか妻が夫の名前をうろ覚えだったとは、さすがにラキルスも想定できやしなかったのだろう。驚きというよりも呆気に取られているようで、ラキルスの口からはツッコミの言葉ひとつ出てこない。
「だ、旦那さま!うん、そうそう、結婚したんだもんね!旦那さまでいいんだ!」
取り乱して滝のように汗を流しているディアナが、起死回生の一手を見出したかのように、明るい笑顔を見せながら顔を上げた。
「………まあ…間違いではないけど…」
「ええ、そう!そうよ!私のことは『妻』でも『嫁』でも、なんなら『あれ』でもいいんで!」
ラキルスはショックを受けているようには見えないが、納得はいかないんだろう。そういうオーラをヒシヒシと感じる。
こう見えてディアナ自身、『さすがにこれはないな』と実は申し訳なく思っているので、言い訳の余地もなく、視線を逸らすことしかできない。
「私は個を尊重したいから名前で呼ぶよ。ね、ディアナ?」
「ぐっ…」
ラキルスのチクリと一刺しは、見事ディアナにクリティカルヒットした。
罪悪感にまみれているディアナの心を、チクリどころかざっくざく突き刺した。
「ラキ…ラキ……だ、旦那さま……」
三音目に自信がないだけで、他の部分はちゃんと分かっている。
当てずっぽうで呼んでみるのも手ではあるかもしれないが、ディアナとて名前を間違えて呼ぶことがどれだけ失礼にあたるかは分かっているので、外れたときのことを思うと、やっぱり適当に呼ぶことはできなかった。
ディアナ、完敗である。
「母上、良い名前をありがとうございます。おかげで妻に一矢報いることができました」
「素直だし愛嬌があって、わたくしは気に入ったわ。仲良くね?」
「もちろんです」
遠慮を捨て去り、何事も物ともしなさそうなディアナが、心苦しそうに小さくなっている姿に、ラキルスの中のモヤモヤは、もうすっかり晴れていた。
ラキルスは内心、『ああ見えて可愛い一面もあるんだな』とか思っていたのだが、それは敢えて顔には出さなかった。
<作者の独り言>
「ラキルス」は、もちろん作者がつけた名前なのですが、
作者は、後半に突入するまで名前を間違えることがありました。
なので、ディアナを通してこの混乱をお伝えしたかったといいましょうか…
皆様もどうぞ心置きなくお間違えください。作者冥利につきます。