10. トラウマ作戦
真朱の表現力なので大したことはありませんが、
魔獣に関する具体的な表現がございます。
苦手な方はご自衛くださいませ。
深夜。
ラキルスは何かを感じて目を覚ました。
室内は薄暗く、目が利かない。
人の気配は感じないのだが、何か違和感がある。
「……?」
ラキルスは軽く体を起こし、ベッドサイドに置いてあるランプに明かりを灯した。
ぐるっと室内を見回してみても特段変わりはなく、もちろん誰かがいるわけでもない。なのに、視線のようなものを感じるような…。
ラキルスは、ちらりと目線を天井方面に送り、硬直した。
ラキルスの頭上、手を伸ばせば届く距離に、異形の何かがいたのだ。
犬か狼のような体躯ではあるが、目が3つあり、それぞれ飛び出し具合や焦点が異なっている。
鼻は爬虫類のように平たく、鼻の穴らしきものがあるから鼻と判断しただけで、もしかしたら違う何かなのかもしれない。
横に引き裂かれたような大きな口からは、先端が二つに分かれた異様に長い舌と、ギザギザした不揃いの歯、鋭い牙が覗いている。
(魔獣……!?)
この世界には、凶暴で人間を襲う『魔獣』が存在しているが、発生源は明確になっている。
周辺各国の国境にまたがって存在している広大な『魔獣の森』と呼ばれている場所からしか出現しないのだ。
この国の場合、魔獣の森は辺境伯領に隣接しており、魔獣の森から外に出て来た魔獣は辺境伯軍が漏らすことなく殲滅しているため、王都では、魔獣の存在そのものを都市伝説のように感じている人間すらいるほどに無縁なもので、もちろんラキルスも、生まれてこの方一度たりとも目にしたことはなかった。
しかし今、その魔獣と思しきものが、ラキルスの目の前に姿を現している。
ラキルスの心臓は、どくどくと尋常じゃないスピードで脈打っている。
口はハクハクと力なく動くだけで、何の音も発することはできない。
体は小刻みに震えているような気がするが、自分の意思では思うように動かせない。恐ろしくて堪らないのに、魔獣から片時も目を離すことができない。
意識を保っていられるのは、きっと視線が合わないからで…
(………ん………?)
魔獣には3つも目があるのに、ひとつもラキルスに視線を向けてはこない。
焦点はバラバラだが、視線は常に固定されていて、微動だにしない。
(鼻も動いていないような気がする…。 ……つまり、呼吸をしていない…?)
「なんで声ひとつ発しないかな…」
びくうっと、ラキルスの体が跳ねた。
暗闇の中から突如、音も気配もなく、ぬーっと人影が姿を現したのだ。
もちろん、ディアナである。
「ディ…ッ、ディア…ッ」
愕然としたまま、ぎこちなく顔を向けたラキルスは、硬直した体を上手く扱うことができず、表情を取り繕うどころか、名前すらまともに呼ぶことができない。
「あ、さすがにポーカーフェイスは保てないのね。ならまあいいか」
悪びれもせず、にかっと笑ったディアナに、
ラキルスの中で、何かがブチッと音を立てて切れた。
途端、硬直していた体から力が抜け、体の震えがぴたりと止まった。
同時に、頭に向かって物凄い勢いで血液が駆け上がって行き、思考停止していた脳が働きはじめる。
言いたいことも訊きたいことも山ほど渦巻いているが、さすがに冷静に考えをまとめる余裕はない。
込み上げてくる何かを堪える必要があるのかを一瞬考え、『この嫁に対してはない』と即座に結論づけたラキルスは、とうとう微笑みの仮面をかなぐり捨てた。
「この魔獣は君の仕業なんだな!?本物ではないんだよな!?」
苛立ちを隠さない表情とともに、やっと声を荒げたラキルスに、ディアナは嬉しそうに笑みを浮かべながらケロリと答える。
「本物は本物だよ?まあ生きてはいないけど」
「ほっ本物っ!?え、本物!?」
一度剥がれてしまった仮面は、そう簡単には被り直せないらしい。
今度はぎょっとした表情を浮かべ、声も僅かに裏返っている。
「私の初討伐記念に、父が剥製にしてくれたものなんだけど、王都じゃ珍しいだろうからって一応持って来てたから、使ってみたんだ~」
「剥製?魔獣の?触っても害はないのか?」
「触らずに剥製つくれないし。そこにセッティングするときもガンガン触ったし」
ラキルスはビビりつつも、恐る恐る手を伸ばして、魔獣の剥製に触れる。
体温を感じず、生きてはいないことを確信すると、初めて目にした魔獣に好奇心が湧いてきたのか、しげしげ眺めたり、毛並みを確かめてみたり、興味深そうにしている。
「ふふっ」
ディアナは思わず声をあげて笑ってしまった。
「?なんだ?」
ラキルスは、きょとんとした表情でディアナを見つめる。
「やっと作り笑い以外の表情を見せてくれたなって思って」
「!」
晴れ晴れと笑うディアナを目にして、ラキルスは、やっと昨日からのディアナの行動の意味を理解した。
ラキルスとディアナは、初対面のその日に強制的に婚姻を結ばされており、人間性を理解し関係を構築していく『婚約』という期間をすっ飛ばしている。
もう夫婦になっているからと関係構築をおざなりにせず、まずは婚約期間のようにお互いを知るところからゆっくり始めていこうと、公爵家の中では話がまとまっており、使用人にも周知されていた。
でも、それをディアナに伝えきれていなかったかもしれない。
ラキルスは、知ろうとする努力までゆっくり構えていてはいけないと痛感した。
そして、もう深夜だとか関係なく、今からでもディアナと腹を割って話し合おうと決意したのだった。