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3ー②

「ちょっ! おまっ……もうやめろって!」


 気づけば佳純の腕を掴んでいた。


 綾瀬は今にも泣き出しそうな顔で、必死に堪えている。

 その様子を眺め、佳純はにやりと俺に視線を移す。


「ほら、さっきみたいに抱きしめてあげなよ?」


 俺の腕を振り払うとそのまま、綾瀬のほうへと押し出した。


 綾瀬は叩かれた頬を押さえ、痛みに顔をゆがめながらも、俺に指先をゆっくり向けてきた。


 震えるそれは、来ないでと告げていた。


 そこへ畳みかけるように、佳純の声が落ちる。


「負け犬同士で寄り添って、傷の舐め合いっこでもしてろって言ってんの。さっきはあんなに幸せそうにしてたじゃん? なんでやらないの?」


「……やめろよ、そういう言い方。俺はともかくとして、綾瀬は違うだろ。……負け犬は、俺だけだ」


「は? おこぼれちょうだいの犬なんだから、その女だってどう考えても負け犬でしょ。……ひょっとして気づいてなかったの? ほんと、女を見る目なくなっちゃったねぇ」


「……いいかげんにしろよ。いくらお前だからって、これ以上好き勝手言うなら、許さねえっ!」


「ふぅん。こんなんだったらあの日、もっと早くに落としとけば良かったね?」


 なっ……?!


「それを言うのはちょっと、ずるいだろ……」


「なにが? 自分で一番よくわかってるでしょ? いちいち言わせないでよ。めんどくさいな」


 お前の言いたいことはわかってる。でも――。


「……俺だってやれることはやったよ。進学校に入学したよ。でもあいつは勉強でも俺よりずっと先に居たんだよ?! これ以上、どうしろっていうんだよ?!」


「で? 大学受験まで時間はたっぷりあったよね? なんで諦めてるの? な・ん・で?」


 ……は? 


「なんでって……」


「進学校に入学出来て舞い上がりでもした? これでやっと肩を並べるーって? ひょっとして行き着いちゃったの? まさかそんなバカじゃないよね? で? それで? ねぇ、な・ん・で?」


 ……なんでって。


「あのさぁ、なんで、途中で諦めてんだって、言ってんの?! 君さ、今いくつ? 大人になるまであと何年あると思ってるの? 悪いけど、今の君よりわたしや剛場のほうが、ずっと勉強もできるからね」


「……だって、あいつは特進クラスで」

「そんなこと聞いてないから」


「天界の御方で……。俺なんかじゃもう、手が届かなくて」


「は? だったら死ねよ? なんで生きてんの? 君の覚悟ってそんなものだったんだ?」


 考えなかったわけじゃない。


 でも……爺ちゃんの船を継げば、お前や剛場とまた同じ時間を過ごせるかもって。帰る場所って言ってくれたから。……帰って来たら殺すって言ってたけど、あのときのお前、泣いてたから。


 なのに、なんで、どうして……そんなこと言うんだよ。意味わかんねえよ……。


 ……あっ。五球瑠偉――。


 胸の中で、なにかが音を立てて折れた気がした。

 視界が揺らぎ、息が詰まる。

 こらえきれず、熱がこみ上げてくる。


 あれ……だめだ。これ、だめなやつだ。


 とっさに背中を向けたときだった――。


「もうやめて!! 今の翔太くんの姿を見てなんとも思わないの?! 死ねとか簡単に言うの、よくないよ!!」


 綾瀬が涙声で叫んだ。


 すると佳純は、ぽつりとこぼした。


「あーあ。いいところだったのに」


 その声には、さっきまでの鋭さはなく、どこか切なさがにじんでいた。


 ……いいところって、なんだよ?


 まさかまた、手のひらの上だって言うのか?

 これだけのことをしておいて?!


 それを証明するように、次の瞬間には――。

 

「ああね。今ならわたしでもいけるって? あ~落ちてきたなあって? それを、おこぼれちょうだいのワンコだって言ってんの。察しが悪い女だなぁ」


 まるで計画を切り替えたかのように、綾瀬へと標的を移した。


「そんなこと思ってないもん。翔太くんは今も変わらず格好いいもん」


「は? 変わらずって、なにが? 今のどこを見たらそう思えるの? はっきり言ってやばいよ? 前髪の長さとか普通に気持ち悪いからね? どこからどうみてもオタク君じゃん」


「そんなことない! 髪型なんて関係ない! 翔太くんは翔太くんだもん!」


「いらいらするなぁ。つまりなに? 君にとって翔太くんはなんなの? 好きなの? 嫌いなの? ていうか、嫌いなんでしょ? はっきり言っちゃいなよ? 勘違いされたままだと後々、面倒なことになるよ? この手のオタク気質な男ってすーぐ勘違いしちゃうから。ほら、言いなって、早く言っちゃいな? 嫌いだって、ほらほらほらぁ?」


 あっ。まずい――。そう思ったときには、もう手遅れだった。

 

「好き! 翔太くんはわたしにとってずっと変わらず王子様なの!! ずっとずっと前から翔太くんのことが好きだったの!! 見た目とかそんなの関係ない! 初恋の人ってそういうものでしょ?! もうなにがどうなったって、好きなものは好きなの……好き過ぎて辛いのぉ……ふとしたときに思い出しちゃって、ほかの人なんて好きになれないのぉ……」


 ……綾瀬。俺、ここにいるんだよ……。


 それはもう、ほとんど告白だった。

 綾瀬は気づかぬまま、佳純の仕掛けた罠に落ちていた。


 完全に佳純の手のひらの上だった。


 答え合わせを示すように、佳純はふいに笑みを浮かべる。

 花が咲いたようなその笑顔が、どうにも不気味でならない。


「も~それを最初に言ってよ! 悪い女が寄り付いちゃったのかと思って、お姉ちゃんは心配しちゃったんだよ〜」


 ぞくっとした。まるであの日を思い出すようだった。


 今、彼女の中のもうひとりが、存在をはっきり主張してきた気がした。

 俺もまた、彼女の手のひらの上に乗せられている。……しかも今回は、綾瀬まで一緒に。


 ……俺が、巻き込んでしまったんだ。


 台本は破られた。新しい幕が開き、綾瀬がそこに立たされている。


「ごめんっ。わたし、晴海佳純! 翔太くんのお姉ちゃんみたいな? 感じでやってますっ! だからさっきまでキツく当たってたのは、試してたって言ったら信じてもらえる? 悪いことしたなって自覚はあるから……本当にごめんね?」


 恐ろしいものを、見ている気がする。


「え……?」


 綾瀬はぽかんと目を丸くすると、佳純のまわりを一歩二歩と回り込み、まじまじと眺める。

 そしてなぜか、佳純の頬をつまんでぐりぐりし、首をかしげた。


「夢じゃないよ? それに、人の頬で試すんじゃなくて自分のでやるものだよ? ……えっと、またやり返されたいのかな? 百倍返しだぞ? なーんてね」


「あっごめんなさい! わたしは綾瀬雫です! よろしくお願いします! まさか翔太くんにお姉さんが居たなんて!」


 いや、実の姉ではないんだよ?!


 ていうか、綾瀬……。またやっちゃってるよ……。


「うん。いいのいいの。わたしのほうがビンタしたの一回多いからね? だからこれでチャラってことでね? わかったら、つねってる手、離してくれるかな? 普通に痛いからね? 結構痛いよ? さっさとやめようね?」


「あっ、ごめんなさいお姉さん!」


 しかも、これ絶対誤解してるよね?!


 でも……どうにも、それを今伝える気にはなれなかった。

 歪で無理のある関係だとしても、曲がりなりにも二人が仲良くしているのであれば、着地点としてはきっと悪くはない。


 それに――。


「はいはい弟君はさ、卑屈になってないで好意は受け取るべきなんだよ。ってことでさっそく! 今週末は二人でデートに行ってくること~!」


「で、で、で、でーとぉ?!」



 佳純は絶対に間違わない。


 あの日がそうだったように。

 今日の出来事が単なる佳純劇場だったとしたら――。



 俺はまた、救ってもらえる。



 でも、心を計算に入れていない気がしてならない。

 どんなに感情を操れたって、最後に残るのは心だ。


 ……たぶん。綾瀬は俺に告白したとは思っていない。

 それに彼女には、秘儀『聞かなかったことにして』がある。


 お前が思っているよりも、綾瀬はずっと強い子だよ。俺なんかよりも、ずっと――。





 なぁ、佳純。

 俺の心は、計算に入れてくれているか?



 ……俺はさ、お前が居なくなったら嫌だよ。



 ……どうして、五球瑠偉なんだよ。





 挑むには、あまりにも高すぎる壁だった。

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