3 佳純劇場、第二幕開幕①
視界から――。佳純の姿が、消えた。
「……っ、ひぐっ、すんっ」
尚も俺は綾瀬の体を支え、胸に寄せられた顔をそのまま受け止めていた。
彼女の涙が服に触れ、熱と鼓動がじかに伝わってくる。
その静けさを断ち切るように、階段を下りてくる足音が響く。
がらんとしたホームに、その音だけがやけに大きく反響する。
帰宅時間とはいえ、急行の止まらない田舎の駅。
吹き抜ける風がベンチの影を揺らすほかに、人影はほとんどない。
……なのに。
なぜ佳純は、反対側のホームに居たのか。
どう考えても不自然だ。
しかもあの、薄気味悪い笑顔――。
……いや。関係ねえ。
あいつ彼氏いるし。俺がとやかく言われる筋合いなんて、ないだろ。
だからそのまま、俺は綾瀬の頭をさすり続けた。
その動きに呼応するように、綾瀬の両腕が指先まで力を込めて俺を抱きしめていた。
息づかいが近くて、胸の奥に重さがのしかかる。
そして――。
彼女が姿を現した。
真っすぐ視線を外さず、変わらぬ笑顔のまま近づいてくる。
綾瀬をさする俺の手と、抱きつく彼女の腕を一つずつ確かめ、それを肯定するみたいに笑った。
「ねぇ~、わたしって君のなに~? 姉? 幼馴染? それとも単なる同級生?」
笑みを崩さぬまま、ゆっくりと近づいてくる。
足音が、人気のないホームに不気味に広がるーー。
綾瀬も反応し、顔をあげて俺と佳純を交互に見た。
視線が、絡み合う――。
……なんでだよ。お前、彼氏いるのにどうしてそんな言い方ができるんだよ。……ふざけんな。
そう、思ったのに――。返す言葉は喉につかえて出てこない。人と距離を置いてきたツケが、また俺を黙らせる。
結局。出てきた言葉は、どうしようもないものだった。
「急に何言い出してんだよ……」
「じゃあ彼女だ?」
「はぁ?! え、な、なんでそうなるんだよ?!」
頭の中が一瞬でぐちゃぐちゃになった。彼氏いるのに、お前……何言ってんだよ?!
「うん。否定はしないね。しないんだよね、君は。いっつも!」
「……いや、ちょ!」
ちょ、え?! まっ……!
どうしてだよ。いいかげんにしろよ、俺――。
聞きたいことも満足に聞けないのかよ?! なぁ、おい?!
何ひとつ声にできない間に、佳純の手が伸びてきて――。
「ってことだから、ばいばーい」
「……は?」
綾瀬の肩をつかむと、俺から無理やり引きはがし、そのまま背中を突き飛ばした。
「ひゃぁっ……」
綾瀬は小さく悲鳴をあげ、よろけて尻もちをついた。
見上げてきたその瞳は大きく揺れながら俺を捉え、声を失っていた。
さきほどまでとは違う、別の色の涙をにじませて――。
俺はとっさに駆け寄り、背中をさすりながら「大丈夫か?」と声をかけた。
しかし綾瀬は言葉をつぐむように俺を見つめると、ばっと隠すみたいに、肩へ顔を埋めてしまった。
俺は声を張った。張らずにはいられなかった。
「なんてことするんだよ?! 危ないだろ?!」
佳純は薄ら笑いを浮かべ、冷えた目で綾瀬を見下ろした。
「へぇ、そっちに行くんだ? こーんな涙に訴えてくるような女、ろくなもんじゃないよね? わたし、嫌いなんだよね。男の前ですぐ泣く女」
肩に埋めた顔が小さく震え、そのまま細い指が俺の服をぎゅっと掴んできた。…………綾瀬。
堪えきれず、声を張り上げる。
「ただちょっと、涙もろいだけだろうが!」
けど、その声は情けなく響くだけだった。
弱い。あまりにも弱すぎる。
こんなんじゃ、佳純には届かない……。
「うわっ。そんな見た目になって、女を見る目までなくしちゃったんだぁ?」
「い、いいかげんにしろよ?!」
全力で声を張っているのに、ぜんぜん足りない。
言葉に重さもなく、空気を震わせるだけで終わってしまう。
口下手になり果てた自分が、心底いやになる。
そんな俺の姿をじっと見つめ、ただ一言だけ吐き出した。
「常夏花火」
その名はなによりも強烈で、胸の奥を一瞬で撃ち抜かれた。
「な、な、なんでその名前が出てくるんだよ?!」
わかっていたはずなのに。
佳純の口からその名前を聞いた瞬間、胸を鷲づかみにされ、息が詰まり、視界が揺らいだ。
「ださくなったね、君って。名前聞いただけで取り乱し過ぎでしょ。もういいんじゃない? その子で。今の君と、すっごくお似合い――」
パチンッ。
乾いた音がホームに響いた。
心臓が跳ね、体が固まる。
俺の肩にしがみついていた綾瀬が、ふいに体を起こし、そのまま小さな手を佳純の頬に叩きつけた。
「ここで花火ちゃんの名前を出すのは卑怯だよ!!」
潤んだ瞳を見開き、声を振り絞る綾瀬。
突然のことに、息を奪われていると、
――――バチィィンッ!!
今度は空気を裂くような音が響き渡った。
容赦ない佳純の一撃が、綾瀬の頬を打ち抜いていた。
痛みに顔をゆがめ、地面に崩れ落ちる。
それでも必死に、震える声を張り上げた。
「だって……だって……叶わない恋だって、翔太くんが一番わかってるはずだもん」
その言葉が胸を締めつける。
二人を止めなきゃいけないのに。動けず、ただ――。息だけが荒くなる。
「なに、その決めつけ?」
佳純の言葉は綾瀬に向けられているはずが、視線は俺を射抜いていた。
「ほんとうのことだもん……」
苦しげに言う綾瀬の姿が、さらに胸を締めつける。
佳純の視線は尚も俺を離さない。
……お前の言いたいことはわかっている。けど――。
言葉は喉につかえて出てこない。その沈黙を鼻で笑い、佳純は吐き捨てるように続けた。
「あ、そう。なんでもいいからさ、ほら、早く泣きなよ? さっきみたいにワンワン泣きなって? そしたらまた、そこの男が寄り添ってくれるよ?」
言葉が途切れ、空気が張り詰める。
佳純はそれすら楽しむように、容赦なく続ける。
「どうしたの? 足らないなら泣けるように、もう一回叩いてあげようか?」
「……泣かないもん。好きにすればいいじゃん」
「へぇ」
バッチ――――ンッ!
衝撃が再度、響き渡る。
まさかにも思わなかった。
なんの躊躇もなく二発目も振り下ろすなんて――。




