2 君は、誰だい……?①
駅までの足取りは、笑えないくらいに重かった。
歩道を行き交う人たちの笑い声も、遠くの車のクラクションも、すべてがどこか遠い世界の出来事みたいに聞こえる。
冗談にしては質が悪すぎる。まるで悪い夢でも見ているようだった。
「……まみちゃんって、誰だよ」
お前は、佳純だろ?!
信号待ちの人波に紛れながら、頭の中を嫌な考えばかりが駆け巡る。
あの笑顔も距離の近さも全て、本物だった。……見せつけられた、気がした。
それもまた、あの男だ。
常夏の隣にいるのも、佳純の彼氏だというのも……すべて五球瑠偉。
佳純がなにをしに来たのかなんて、もうどうでもよかった。
あの様子から察するに、おそらくは二郎で待ち合わせなのだろう。
「……知るか」
なぜ、こんなにも胸が痛むのか。
自分でも答えを出せないまま、改札を抜ける。構内のざわめき、ホームに吹き込む風、全てが自分をすり抜けていくようだった。
電車が滑り込む音が響く。
車輪のきしみも、人々のざわめきも、今の俺には何ひとつ届かない。
そして――。
ガシャンと響く閉扉の音に、現実に引き戻される。
「あっ――」
気づけば車両は遠ざかっていた。
俺はまた、置き去りにされてしまった。
しかも二度目。
何やってんだよ、俺――。
結局、電車に乗れたのは、さらに二本を見送ったあとだった。
だからこれはきっと、単なる腹いせだ。
電車に揺られて数分。ドアを背もたれにする俺はふと、視線が吸い寄せられた。
端の席に座る男。歳は同じくらいに見える。茶髪に、少し着崩した制服。今風の見た目に似合わず、神妙な面持ちでまわりを見渡していた。
その正面には、四人組の今どき女子高生。二人が端に座り、二人が吊り革につかまりながら笑い合っている。電車が揺れるたび、短いスカートの裾がふわりと揺れ、あられもない太ももが露見する。
ドアに寄りかかっているせいか、俺の位置は男から見てちょうど死角になっていた。
だから――。その一瞬の動作を、俺だけが目にした。
男が手にしているスマホは手帳型ケースに入っていた。
ほんのわずかな手つきでカメラを起動すると、録画が始まった。カバーを閉じる所作は迷いがなく、あまりに自然だった。そのまま何事もなく膝に置かれたスマホは、真正面の女子高生たちを外すことなく捉えていた。
――盗撮か。
俺の本分は目立たないこと。
座右の銘は、一歩前に出ない勇気だ。
だから盗撮なんて目に入ったとしても、過ぎ去る景色のひとつにすぎない。
別に俺が特別なんじゃない。今の世の中、ほとんどの人間がそうだ。わざわざ声を上げる者は少なく、声を上げれば逆に注目され、第三者に撮影されて拡散されるかもしれない。
生きづらい世の中になった。
だからこれは、ただの腹いせだ。
今日の俺は、虫の居所が悪い――。
スマホを持つ男の手首をガシッと掴む。
「なっ、俺はやってなっ――」
反射的な否定。それはもう認めているのと同じだった。
だが、俺の顔を見た瞬間。
焦り顔は、何事もなかったように剥がれ落ちた。
そして――。
「おめえ! なにしやがんだよ?!」
世の中は、存外に腐っている。
だが、今日の俺はここで引き下がれるほど、お利口ではない。
「なにってお前!! とうさ――」
「あーあーあー! あーあーあー!」
俺の声をかき消すように、突然の大声。甲高いその叫びに、車内の空気がビクリと揺れる。数人がスマホを下ろし、何事かと視線が集まった。
「盗撮魔! 盗撮魔がいまーす!」
「は?」
頭の中が真っ白になる。掴んでいた手から自然と力が抜けていった。
男はその一瞬を逃さず、身をねじって俺の腕を振り払った。
立ち上がると、今度は指を突きつけて叫んだ。
「こいつこいつ! 盗撮魔! 盗撮魔!」
俺を指さしながら一歩、二歩、三歩と下がる。人々の視線が一斉に俺へ突き刺さる。次の瞬間、男は隣の車両へと駆け出していた。
残された俺のまわりで、車内がざわめき始める。好奇と嫌悪の視線が重なり、逃げ場はどこにもない。
群衆の圧に背中を押されるように、大柄な男の手が伸び、俺の腕を掴んだ。
――私刑執行人。
「おい、兄ちゃん、スマホ出しな」
その言葉を聞いて、絶望が胸を突いた。
なんてことはない。盗撮していないのだから、スマホを出せば済む話。
でも、俺にはそれができない。
――持っていないからだ。
どうせ。どこに隠しただの、捨てただのと始まって、そのうちに撮影されて、ネットにアップされて、拡散されて――。
俺の無実が警察署で晴れた頃には、すべてが手遅れで――。
そう、思えるだけの根拠がざわざわと耳に入ってきて――。
「なんか怪しかったもんな」
「あれは確実に撮ってたよな」
「つーかいかにもな見た目じゃん」
「青春、盗撮で終わらすとかバカだね~」
「どう見たって青春送ってないって面な!」
「性欲モンスターかよ、引くわ~。猿高生かって」
「見るからに童貞で草」
もう一度、言う。
世の中は、存外に腐っている。
……いや。やめよう。本分を忘れた罰が当たったんだ。
一歩前に出ない勇気。
大人になるってそういうことだって、教えてもらったのに⋯⋯。
本当に学ばないな、俺は――。




