後日談③ 終
朝の空気は、どこか澄んでいて、遠くでカラスの鳴き声が響いていた。潮風がふわりと頬を撫で、眠気を残した体を少しずつ覚ましていく。
婆ちゃんに「いってらっしゃい」と背を押され、ランドセルを背負い直して門を出た、その瞬間。
そこに立っていた懐かしい姿に、心臓が一気に跳ねた。
「……いつぶりだよ」
込み上げてくるものを抑えきれず、思わず足が止まる。その背中を、ただじっと見つめてしまった。
気配に気づいたのか、ぱっと振り向き――。
朝日を背にしたその笑顔は、眩しいくらいに清らかで。
「あ、田中くん! おはよう!」
しかし、それは俺の知っている彼女とは掛け離れていて、思わず――。
「やめろよ、その呼び方……気持ちわりぃ」
反射的な言葉が口をついていた。
「は? 君から言い出したのに、その反応はどうなの?」
「あ……」
「完全に忘れてるって顔だよね。君ってもしかして、あれかな? 三歩歩いたら忘れちゃう体質?」
「ば、馬鹿にするなよ?!」
冬雪翔太は死んだ。あの日、佳純が殺してくれた。
今ここにいるのは、田中だ。
「いや……」
言葉の端から滲んだ変化を嗅ぎ取ったのか、彼女はすぐに笑って言った。
「じゃあ行こっか、田中くん!」
「やっぱ、やめてくんねえ? 明らかに言い方変えてるだろ?! 清楚っていうか、おしとやかっていうか! さわやかっていうか! 誰だお前?」
「もぅ、田中くんってば、早くしないと学校遅刻しちゃうよ?」
少し小馬鹿にしてくる感じは、きっと彼女なりの気遣い。
足が自然と弾んで、学校までの道のりがやけに短く感じた。
こんな気持ちで登校するのはいつぶりだろう。少なくとも、この町では初めてだった。
「ほぉら! 田中くん! 置いてっちゃうよぉ?」
「だからそれ、やめろって! 鳥肌が止まらねえんだよ?!」
今日から俺は、田中だ――。
田中翔太、行ってきます。
校門をくぐった瞬間、胸の奥が普段よりずっと軽いことに気づいた。
下駄箱の列に、刻まれる「田中」の二文字。
それを見つけたとたん、自然と口元がゆるむ。
今までただの文字だったはずなのに――。
今日はやけに特別に見えた。
そんな俺の様子に気づいたのか、ぽんと頭を叩かれた。
「ほら、行くよ? た・な・か!」
彼女は、まぶしいくらいに笑っていた。
「おーう! つーか、今度は呼び捨て?!」
その声は、まるで新しいスタートを告げる合図みたいに、胸の奥へ突き抜けていった。
教室に入ると、待っていたように剛場がぶっきらぼうに袋を差し出した。
「……これ」
袋を開けるとスマホが入っていて、俺が川に落としたものとまったく同じ機種だった。
バラバラになったうえに、沈んじまって修理とかの話じゃなかったからな。
でも、それ以上に――。
「……いらね」
もう必要ないものだ。
今の俺はあいつとは並んで歩けない。
だから剛場に袋ごと突き返してやると、意外にも。
「……え」
いや、なんでこいつ、そんな泣きそうな顔してんだ。柄にもないなんてレベルじゃねぇ……。
思えば、ドンにとんでもない仕置きを食らってた。そのあとで俺にスマホを渡してくる理由。……想像はつかねぇけど、どうせドンが絡んでるんだろうな。
けど、二十四万だぞ。落としたのは俺の責任だし。
なにより、必要ないからな……。
返答に困っていると――。
「じゃあ、わたしがもらってあーげる!」
ぴょこんと、俺と剛場の間に佳純が割り込んできた。
「か、佳純ちゃん……いくらなんでも、それは……」
剛場はスマホの袋を大事そうに胸に抱え込んでしまった。
きっと、こいつなりのケツの拭き方ってやつなのだろう。だったら――。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
剛場からスマホが入った袋を受け取るなり、
「佳純! お前にやる!」
ぐいっと押しつけてやった。
佳純はふわりと笑って、
「はーい。もらってあげまーす! ま、これは借りってことにしといてあげる。可愛い可愛い佳純ちゃんに貸しをつくれるなんて、世界中の男を敵にまわしたかもね?」
「ははっ、そりゃこぇえわ!」
借りなんてとんでもねえ。そんなこと言ったら、俺はもう返し切れねえくらい借りてる。
しかも今だって、スマホを受け取ってもらったおかげで助けられてる。結局また、借りが増えちまってんだ。
すると剛場は、ピンク色の魔人がまるでヤカンを沸かすかのように震えだし――。
「ち、チーター……てめえ……!」
怒りがグラグラと音を立てて沸き上がる。
ここで怒ったら今までと同じだぞ、
なんて思うも、その予想は盛大に外れていた。
「よ、呼び捨て……か、佳純ちゃんを……お、お前呼ばわり……」
あー、そういえば、そんなこともあったな。
「じゃあ、佳純。大事に使えよな。佳純。ああ佳純。お前にあげて良かったよ、佳純」
「うんっ、ありがとう。田中くん!」
いや、だからそのノリなんなんだよ。なんてツッコむよりも前に――。
「チータぁあああああ! てめえぇっ!」
物凄い怒鳴り声と同時に飛びかかってきた。
するりと身をかわし、挑発するように笑う。
「来いよ。捕まえられるもんならな!」
――なぁ、常夏。
俺はもう、お前の隣を歩くことは諦めた。
だから、逃げてもいいよな。
「て、テメエ! 佳純ちゃんを呼び捨てにするのだけは絶対に許さねえっ!」
「そうかよ。ほら、こっちだ、うすのろ!」
「お、怒ったぞー! 怒っちゃったもんねー」
逃げて、逃げて、逃げて――。逃げまわる。
だってもう、ボスである必要は、ないから。
ただな、俺はお前を諦めたわけじゃない。
またいつか、どこかで、会ったときに――。恥ずかしくない自分でいられるように、これからは勉強をがんばろうと思っている。
「鬼さん、こちら」
「くっそぉぉてめええええ!」
勝手に決めて、ごめんな。
勝手に背を向けて、ごめんな。
「おいコラ逃げんな!」
嘘ばっかで、ごめんな。
素直になれなくて、ごめんな。
「……待てよ、はぁはぁ……」
弱いままで、ごめんな。
隣にいられなくて、ごめんな。
返事できなくて、ごめんな。
既読だけつけて、ごめんな。
「はぁ……はぁ……ぜぇ……」
さよならも言えなくて、ごめんな。
好きだって言えなくて、ごめんな。
「手の鳴るほーうへ」
「ま、待てぇ……こ、この野郎…………」
こんな自分勝手な俺だけど、
これからもずっと、変わらずに、お前のことが好きだ。
……ごめんな。
常夏花火のことが大好きな冬雪翔太は、死んだ。
もう前へは進めなかった。どんどん離れていくお前との距離を受け入れられずに、自分自身にも嘘をついていた。
だから、終わらせるしかなかった。
でもな、ようやく進むことができたんだ。
バトンは確かに受け取った。田中翔太も変わらないくらいに、お前のことが大好きだ。
待っててくれとは言わない。これは俺が勝手に決めたこと。
またいつか、会えたらいいな。……会いたいな。なんて。
そのときはきっと、胸を張ってお前の隣を歩ける男になっているはずだから――。
いつかの、そのときまで――。
――忘れない。
佳純に落とされたあの瞬間、飛んだことにすれば勝負に勝ち、ボスになる未来もあった。けれど翔太は、脚を滑らせたことにして負けを選んだ。選ばされた。
その結果、独裁者と亡霊は死んだ。まとめると、そんなお話でした!
切りがいいので、なろうでの更新は一旦ここまでにします。
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最後までお読みくださりありがとうございましたm(__)m




