後日談②
「たけちゃんすまねぇ。この通りだ」
「おいおい、よしとくれや。マー坊。俺らの間で、そりゃなしだろて?」
「いんや。こんの愚孫が悪さしよってからに。もう二度と頭さ上げらんねぇ。このまま玄関の肥やしになる覚悟で今日は来た」
「ははっ。頑固なところは変わらんのうマー坊は。本当に怒っとらんのよ。なっ、翔太?」
玄関の冷たいタイルに額を押しつけるのは、町議会を牛耳る「ドン」――剛場の爺ちゃん。
あの剛場家の頂点が、俺の家の汚れた玄関で土下座している。信じられない光景だった。
そしてそれを「マー坊」呼ばわりしながら笑うのは、俺の爺ちゃん――「たけちゃん」。
並んだ姿はどう見てもただの同級生同士で……権力とか威光とか、そんなものはどこにも見えなかった。
「うん!」
だからってわけじゃないが、俺は力強く返事をした。
爺ちゃんの言う通り、俺はまったく怒っていない。謝られる筋合いなんて、どこにもなかった。
「たけちゃんよ、それじゃ筋が立たん。怒ってないからいい。そんな簡単な話やなか。時代が違う。世の中も、もう変わっとる」
「時代がどうの筋がどうのと、そげな味気ないこと言うな。ワシらぁ、もっと不器用でええじゃろ、マー坊。なに、孫っ子はひとかけらも怒っとらんのだから、の?」
「うん!」
もう一度、さっきよりも大きな声で返事をした。
「まあ、マー坊が責任を感じるっつーんなら、ワシも同義だで。翔太のことは最初から見とった。歩き方をみりゃ、わかる。そうだな……学校に通い始めて三日目くらいかのう。よそもんの制裁を受けて、くたびれた様子で帰ってきたと思ったわ。だが弱音ひとつ吐かんと、次の日も、その次の日も学校に行きよった。目は死んどらんかった。ええ顔しておったで」
爺ちゃんの声は叱責でも同情でもないように聞こえた。ただ淡々とした実感がにじんでいた。俺を見てきた歳月を、そのまま口にしているような重みがある。
「そんで昨日だ。ええ目をしておった。覚悟が宿っていた。こいつぁいよいよやべえかとも思った。あの目をする人間は、ろくな末路を辿らん。……んだども止めなんだ。だから責任はワシにもある」
爺ちゃんの言葉は淡々としていたのに、俺の胸にはずしりと響いた。誰を責めるでもなく、ただ事実を告げるその声音に、逃げ場のない現実だけが浮かび上がる……。
しばしの沈黙が落ちた。ドンが重く息を吐き、その顔には悔いと安堵が入り混じった色がにじんでいた。
「……タケちゃんが水門を開けて回ってなかったらと思うと、冷や汗が止まらねぇだよ。あそこは普段なら岸辺は膝までの浅瀬だが……水が寄ると中央だけが深みになる。ちょうど落ちたのは、その真上だったんだ。……ほんの二、三十分の違いで、生きるか死ぬかが分かれたのかと思うと……そのことをえらく考えちまってな。……奇跡だで」
「マー坊は昔っから頭が堅ぇわい。水門を開けとらなんだら、そもそも橋になんざ行かせとらん。ワシが止めとる。消防団の若ぇのだって呼び出してスタンバっとらんでな」
言いながら爺ちゃんは肩をすくめて笑うと――。
「まっ、お礼言うんならスナック・シリウスの娘っ子に言うんだな。全部あの子の知恵だ。ありゃあ、ええ嫁になるわい」
そう言って、ひげを撫でながら満足げにうなずいた。
なにからなにまで佳純の手のひらの上で間違いはないのだが、表に出ている話と、実際のところはだいぶ異なっている。
――紐無しバンジーを剛場に持ちかけたのは、他でもない佳純だった。
もちろん剛場は、それを絶対に口外しない。
だから、真相を知ってるのは俺と剛場と佳純――。その三人だけ。
んで、埼玉県の嘘つき野郎は、最後にもうひとつだけ嘘をついた。
落とされたわけでもなく、飛んだわけでもなく、自ら脚を滑らせたことにしたんだ。
自分の無事がわかったとき、頭の中でなにかが繋がった。
それが正しいかどうかはわからない。けど、ひとつだけ確かなのは、あの瞬間。
冬雪翔太は死んだ。
彼女が、冬雪翔太を殺してくれた。
止まることを知らない哀れな亡霊の背中を『いってらっしゃい』と押してくれたんだ。
――だから、ここから先は田中翔太として歩いていく。
そして今、目の前でとんでもないことが起こっちまっている。
爺ちゃんがいい雰囲気で締めたのに――。
剛場の態度に、ドンがぶち切れてしまったんだ。
「こんの悪たれが! なにをお前は地べたから頭を離しちょる! はよ地べたにこすり付けんかァッ!」
剛場の頭をぐりぐりと踏みつける姿は、まさしくドンそのものだった。
「わ、わわわかったから、やめてくれよ爺ちゃん……!」
「だまらんか! 口答えすんな、悪たれ小僧がぁあ!」
今度は杖を振りかぶり、尻をスパコォーン!
「ぐはぁっ……!」
剛場の悲痛な声が玄関を震わせた。すかさず爺ちゃんが声をかける。
「ま、マー坊。さすがにそれは、ま、まずかろうが? 時代が違うとか、い、言うとらんかったか?」
「……タケちゃん。家族は別じゃ。ワシはこの悪たれをまだ諦めとらんのだ」
その顔はみるみる鬼の形相に変わっていく。
「聞け、悪たれ! お前は今後一切、小遣いなしだ! お年玉もやらん! 自分で稼げるようになるまで、一切の贅沢は許さんぞ!」
「じ、爺ちゃん、それは……そ、それだけは……!」
「こぉんの悪たれめがぁ! この期に及んで、まだそんな口がきけるか! 橋の下に捨ててきてやろうか!」
剛場は玄関を這いずりながら、必死にドンから距離を取ろうとする。
「やだよぉ爺ちゃん。そんなこと言わないでくれよぉ……」
「だまらんか小僧ォ! ワシの目ぇ黒いうちは、二度と布団で寝れると思うな! 畳ん上で転がって、自分の罪の深さ骨身に染み込ませぇ!」
こんなとき、田中翔太ならどうするだろうか。
時間がもったいない、なんて言いながら、自分の部屋に戻って算数ドリルでも開くのだろうか。――答えはNOだ。
田中だろうが、冬雪だろうが関係ない。俺は翔太だ。
それだけは変わらない。変わっちゃいけないんだ。
「剛場の爺ちゃん。俺は本当に怒ってないんだ。むしろ謝りたいくらいだ。つまらない意地を張っていた。とっくに決着はついていたのに、俺は負けを認められなかった。だからこの場を借りて謝りたい」
……そもそも度胸試しは、剛場に責任はないからな。
「だまらんか小僧ォ! 男なら人前で軽々しく頭を下げるもんじゃなか! この悪たれとは訳が違う! それになァ、これは剛場家の問題じゃ。口ぇ挟むでねぇッ!」
「ほぅ……マー坊よ。ワシの孫っこを説教するつもりか?」
「いくらタケちゃんとて、ここから先は立ち入り禁止だで」
「ほぉーう……」
「ほうほう……」
爺ちゃん二人の目が合い、玄関に火花が散る。……ばちばち。恐ろしすぎる……。
そのにらみ合いを横目に、剛場がぽつりと声を落とした。
「チーター……すまねぇな」
「やめろよ。負けたのは俺だ。お前にそんなしおらしくされたら、かえって惨めになる。それに――」
剛場は、俺の言葉を遮るように首を振った。
それ以上は言うな。言葉にするな。そう訴える無言の願いだった。
少なくとも、こいつにとっては「しつけ」で、虐めや暴力ではなかった。
けどそれは間違いだ。力でねじ伏せるのは「しつけ」とは言わない。そんなものはもう、ただの暴力であり、独裁だ。椎名先生や取り巻き連中の顔を見れば、一目でわかる。
……まあ、とはいえ残念ながら俺に止める力はなかった。
ただ、きっと――。冬雪翔太が死んだように、独裁者・剛場司もまた、あの瞬間に死んだのだろう。
結局、すべては彼女の手のひらの上、か――。




