後日談①
かつての宿敵と、海辺の石段に肩を並べて座っていた。
潮の匂いと、絶え間なく寄せては返す波の音。乾いた石に体を預けると、ここで過ごした日々が胸の奥からよみがえってくる。
「なぁ、おい。本当に今日、行っちまうのかよ……」
「親父のこと、放っとけねぇって何度も言ってんだろ」
……あの人の時計は止まったままだ。
三年前。俺をこの町に連れてきた、あの日から。
「んだよ。俺のことは一人にさせてもいいってのかよ?」
「お前は一人なんかじゃねえだろ。なにより寂しがるようなタマでもねえだろうが」
軽口を叩いてはみたけれど、気づけば俺は目を逸らしてた。
「あぁもう喉乾いた! チーター喉乾いた! 水水水!」
「ったく。デブは燃費悪いんだから、水筒くらい持ち歩けよな」
そう言って、水筒からコップに水を注ぐ。
大きな体が、やけに小さく見えた。
「……寂しくなるな。こうやって、お前から水を分けてもらうこともなくなっちまうんだもんな」
「馬鹿言えよ。ただの水道水だ。飲みたきゃそのへんで蛇口ひねってこい」
茶化したはずが、どこか遠くを見ていた。
「……俺さ、こうやってお前と並んで水飲む時間、好きだったんだよな」
一瞬、胸の奥がざわつく。
「……なに感傷に浸ってんだよ。らしくねえって」
「俺は……あの日、間違えた。本当はお前にジュースをご馳走してやりたかっただけなのに、間違えちまったんだ……」
「やめろ。その話はもういい。俺だってガキだった。それで終わったろ」
言葉が途切れ、俯いたまま声を落とした。
「終わっちゃいねぇ……」
震える声が、次の瞬間には怒鳴り声へと変わる。
「終わっちゃ、いねえよっ!」
その熱をさらに燃やすように立ち上がると、荒れる波に向かって叫んだ。
「何が飲みたいか、言えーッ!」
ったく。
「いらねえよ」
「今日で最後なんだ。わがままだと思って聞いてくれ。頼むから……!」
最後って言ってもよ。
あのときと今じゃ、状況がぜんぜん違うだろ。
「頼む……! このままサヨナラなんて、俺はしたくねぇっ!」
「…………」
「チーター…………翔太!」
胸をつかまれたみたいに、言葉が勝手に漏れた。
「……コーラ」
その一言だけで十分だったようで、弾けるような笑みを浮かべて走り出して行ってしまった。
「……ったくよ」
案外、受け入れてみればなんてことはなかった。
こいつは気のいいやつで、それこそピンク色の魔人みたいに無邪気で、気づけば当たり前の存在になっていた。
ただ、やっぱりリーダーはこいつだった。こうして一緒にいると、嫌でも実感させられる。
――剛場 司。剛場建設の跡取り息子にして、町議会議員のドンの孫。
生まれながらにしてリーダーのやつと、空席にたまたま収まっただけの似非リーダー。その違いは火を見るより明らかだった。
とはいえ、今の俺には勉強がある。
それさえ頑張っていれば、いつかまたあいつと会ったとき、胸を張れる自分でいられる。
……そんなことを考えていると、背後からドタドタと足音が近づいてきた。
思ったよりも早く剛場が息を切らしながら駆け戻ってきた。
手には、キンと冷えてそうなコーラの缶。
「……はぁはぁ……ぐびっといってくれ! ……ぐびっと! はぁはぁ」
満面の笑みで差し出されたそれを、俺は受け取る。
「さんきゅ」
缶の冷たさが手にしみた。……俺の分だけ、か。
あの日以来、剛場は小遣いなしの刑に処されている。
ジュース一本だって、手に入れるのは楽じゃない。自販機の下を覗いたり、返却口を何度も叩いたり、道端や側溝まで目を光らせたり……。
その姿が脳裏にちらついて、缶を開ける指先が動かなくなった
「おいおいおい! 変な想像すんなって! 悪さしたわけじゃねぇよ。爺ちゃんに頼んだらさ、庭の草むしりしたら今回だけ特別に許してやるって言われたんだ。ジュース一本分!」
そこに剛場の分を含めないのが、あの爺さんらしいというか、なんというか。
つーか、草むしりって……。
「……それ、どんだけかかったんだよ……」
剛場ん家の庭の広さを思うと、想像するだけで気が遠くなるってのに――。
「へへっ。俺はよ、お前にジュースを渡せればなんだっていいんだよ。はぁ、よかった。よかった。ほんとによかった」
剛場の目には、どうしようもなく優しい色が浮かんでいた。
バカ野郎。
「つーか、一緒に飲もうぜ! なっ!」
「そ、それは……お前にあげたものだからいらねえ!」
お小遣いどころか、贅沢禁止令まで出されてる。
ジュースなんてもってのほかで、水ばっかの生活だ。
……俺は平気でも、こいつにはきっと地獄だ。
あの日からの三年を、近くで見てきたから、わかる。
「俺の門出を祝うっつーんなら、乾杯しないとだろ」
「じゃあ、チーター水くれ水!」
「本日の営業は終了しましたー」
「はぁ?! てめえ……!」
「飲もうぜ!」
「し、仕方ねえな……ゴクリ」
まるであの日をやり直すように、俺たちは缶を回し飲みした。
甘ったるい炭酸の泡が喉を刺す。
もし、あの日こんなスタートを切っていたのなら――。
今頃、どうなっていたのだろうか。
……きっと、剛場とはここまで打ち解けていなかった。
そして、嘘つき野郎の冬雪翔太はまだ、生きていたのかもしれない。
そう考えると少し、ゾッとする。
潮の匂いと、寄せては返す波の音ばかりが耳に残った。
ふと横を見ると、剛場は黙って海を眺めていた。
その横顔は、いつの間にか真剣な色を帯びていて、やがて静かに口を開いた。
「……なあ、いつでも帰って来いよ。ここはお前にとって帰るべき場所だ」
「なんだよ、改まって」
「茶化すなよ。いくつになってもいいんだ。それこそじじいになったっていい。結婚して子供ができたら、そのときは家族で遊びに来たっていい。今日が別れじゃないってことだけは、約束しろ」
「なんだよ柄にもねえな。まあ爺ちゃんに会いに来ることもあるだろうし、ちょいちょい来るだろ」
「ならいいんだよ。ただ、お前はよ、ときどき諦めたような面をするときがあるからよ。目の届かない遠くに行かせちまうのが、どうにも心配なんだよ」
「なんだそれ。保護者かよ」
「この減らず口が! まあ、いつでも戻ってこい。さっきも言ったが、ここはお前が帰るべき場所だ。忘れんじゃねえぞ」
「……おう。そうだな」
胸の奥に、どうしようもなく本物と偽物の違いを刻み込まれる。
……思えば、この差を最初に見せつけられたのは、俺がサシで挑んで相手にされなかったときだった。
お前はまじで強かった。
普通ならあそこで敗北を認める場面なのに、冬雪翔太は抗い続けちまったんだよな。
バカだよな。
止まることを知らず、進むしかなかった哀れな男の行き着く先。
――きっと、なにを言っても止まらなかった。
だから彼女が、背中を押して救ってくれたんだ。
冬雪翔太は、あの日に、死んだんだ。




