4 埼玉県の嘘つきさん①
「ふぅー……」
胸の奥で、小さく息を整える。
電源を切ったスマホを、ゆっくりとポケットにしまう。
こうしてスマホを持ち歩くのは、いつぶりだろうか。
……あのあと、常夏からの通知が鳴りやまなかった。
どうやら、既読がついてしまったらしい。
「……ごめんな」
今はまだ、だめなんだ。
飛ぶ以外の選択肢なんてあるはずもないのに、それでも連絡できないのは、恐さや怖れからじゃない。
――もうお前に、嘘は吐きたくないんだ。
今日まで俺は、嘘で自分を塗り固めてきた。
見栄も、強がりも、負け惜しみも。
数えきれないほど、山ほど重ねてきた。
初めてハンバーグをご馳走してくれた日でさえ、強がっていらない嘘を吐いていた。
……クリスマスも、年越しも、初詣も、バレンタインも、節分も、ホワイトデーも。
そして――。
プリンを賭けたじゃんけん大会のときでさえも――。
でも、ひとつだけ。
その日だけは――。嘘が、嘘のまま終わらなかった。
俺さ、パーを出すつもりなんて、なかったんだよ。暴力大好きグーパン女って煽れば、絶対にグーだけは出さないと思ったから。
……でも、事故で出てしまった。
思えばそれが、すべての始まりだった。
もしかしたらあのとき、触れ合うはずのなかった何かが、ひとつ掛け違えたまま、奇跡みたいに噛み合ってしまったのかもしれない。
気づいたときにはもう、取り返しがつかなくなっていた。
俺はずっと――。お前と、肩を並べたかった。
強くて、真っすぐで、格好良くて……ずっと、憧れてたんだ。
……それなのに。
気づけば俺は、隣に立つためじゃなく、隣に立てない自分を隠すために、走ってた。
それは、今も続いている。
間違えたまま――。走り続けてる。
だからもう、嘘は吐かない。
……吐きたくない。
飛んで、お前の隣に立つそのときまで――。
「……すぐだから。待っててな。……花火」
小窓を開け、玄関から持ってきた靴を履く。
時刻は八時を少し過ぎている。
婆ちゃんにいらない心配はかけたくないから、こっそり家を出る。
どういうつもりか、剛場は九時に集合だと言った。
家を出ると、街灯の下に長い影が一本、じっと伸びていた。
背の高い影は、腕を組んだまま動かない。
暗がりの中でも、あのノッポ特有の不機嫌そうな輪郭はすぐに分かった。
「どうせ止めても、行くんだろ」
「ああ」
「高さは十メートル以上、水は膝まであるかないか。今の時間じゃ底の様子なんか分からない。欄干は錆びてるし、板もところどころ抜けてる」
「ああ」
「……廃橋って知ってるか?」
「ああ」
「廃橋だぞ?! 足を踏み外せば終わりなんだ。隙間から落ちたら、二度と浮かんでこれないかもしれないんだぞ?!」
「それは困るな」
――あいつに、会えなくなっちまう。
「だったら考え直せ!」
肩を掴まれ、グッと前に引きずり寄せられる。
近くで見るノッポの顔は、街灯の下で影を刻んだまま、鬼みたいに歪んでいた。
「どけよ」
「退くと思ってるのか」
「……俺にお前を殴らせるな」
「俺はお前をさんざん殴った! 無抵抗のお前を殴り続けた! 三か月間、ずっと!!」
荒く吐き出された息が、夜の熱気を揺らす。
歯を食いしばり、視線で俺を射抜く。
「……来いよ!」
逃げ道を、一切許さない目だった。
足元を一歩、地面ごと響かせるように踏み鳴らす。
「ここから先へ行きたいなら、掛かって来い!!」
空気が爆ぜる。胸の奥が焼ける。
「……馬鹿野郎」
小さく吐き捨て、そっと距離を取る。
「どうしたッ!? 来いって!!」
その挑発が胸をえぐる。
踵で地面を蹴りつけ、助走をつけて――。
「…………――ッ」
一気に懐へ飛び込み、勢いのまま押し倒す。
背中が地面に叩きつけられる音が、静けさを裂いた。
跨がり、拳を握る。
「行かせない……行かせるものか!」
両脚が俺の胴体をがっちり挟み込み、息が詰まる。
それでも構わず、腹に、胸に、肩に、叩き込む――。
「ぐぁっはっ……もっと、もっとやれよぉぉおおお! 翔太ァッ!!」
一瞬、耳の奥が熱くなった。
それでも、振りかぶった拳は止まらない。
喉を裂くほどの叫びが、その声が、
拳よりも鋭く、胸の奥を貫いてくる。
「俺には誰も止められない。剛場くんも、お前も……。ただ、無抵抗なやつを殴ることしかできない……! だから……やれッ! もっとやれ――――ッ!」
……殴る手を、すっと降ろす。
「どうして……どうして!!??」
その声は怒鳴り声というより、泣き声に近かった。
……お前ってやつは、本当に。
短く息を吐く。胸の奥で、何かが静かに沈んでいく。
「俺はさ、あいつの隣を歩きたいんだ。それ以外に、なにもねえよ」
「あいつって……誰だよ?!」
気づいたら、笑ってた。
「誰だよ?! お前をそんなになるまで苦しめてる奴なら、俺の前に連れてこい! 誰が喜ぶんだ。今のお前を見て、いったい誰が、誰がああああああ」
どの口が言ってるんだよ。お前を苦しめてる奴なら、目の前に居るだろ。
どこで間違えちまったんだろうな。
…………ははっ。最初からだって、答えは出てただろ。
お前が知ったら、きっと飛ぶなって言う。……それくらい、わかってる。
お前が望まないことも、ちゃんとわかってる。
でも、それじゃ……ダメなんだ。
お前は俺には眩しすぎてさ。
背伸びくらいじゃ、あっという間に置いていかれちまう。……嫌なんだよ。俺はお前の隣を歩きたいんだ。
遠くから見ているだけじゃ、もう、満足できない。
憧れるだけの毎日には、もう、戻りたくない。
だから、本気で飛び上がらなきゃ、いけない。
悪いな、ノッポ。
「――俺も、そう思ってる」
「だったら、どうして!!!!」
ふっと笑って、ノッポに背を向ける。
「どうして、どうして……っ!」
地面を殴る音と、嗚咽まじりの声が背中に突き刺さる。
「……好きだからに、決まってんだろ」




