3ー④
さっそく翌日の昼休み。校舎裏に連れて行かれた俺は走った。走った。とにかく走った。
「逃げてんじゃねえよ!」
「こんなところ剛場くんに見られたら、やばいって」
「やべーよやべーよ……こいつまじはえーよ……」
「死ね死ね!逃げるなー! 控えめに言って死ねー」
「踏ませろ! 足踏ませろ! 踏ませろ踏ませろ踏ませろーッ! アジャバグビャアアア!」
ひとり、またひとりと脱落していく。皆が息を荒げて校庭に横たわる。
勝者だけが立つことが許される。
「鬼さん、こちら」
小さく言って、懐かしむ。
そうだ、俺は瞬足の翔太だ。この中の誰よりも脚が速い。
「……剛場、覚悟しとけよ」
そして教室へと向かう。
何度も通ったはずの廊下が、今日だけは――。この瞬間だけは、違って見えた。
心臓が、さっきからうるさいほど鳴っている。
靴底が床を踏む音さえ、やけに響く。
ウイニングロード。……ははっ、もう勝った気になってやがる。
「いや。勝つんだよ」
負けるわけがねえ。
今日だけは、絶対にな。
廊下を歩きながらも、まだ胸の奥がドクドクしている。
そして、教室の引き戸を開けた瞬間――。目に飛び込んできた。
「でさでさ佳純ちゃ~ん!」
「……そーだね」
鼻の下を伸ばして、間抜け面で笑うデブ。佳純の机に肘をつき、やたら距離が近い。
胸の奥が、ちくりと突き刺された。
一瞬で全身が熱を帯び、まるで血が沸騰して耳まで真っ赤になる。
この感情の正体はわからねえ。だが今だけは、こいつに感謝してやる。
「剛場ぁぁあああああ!」
「あ?」
完全に一対一が出来上がった。
俺は信じて疑わなかった。自分の勝利を疑っていなかった。
助走をつけ、机の上を蹴って駆ける。机の天板がガタガタと揺れ、教室中の視線が一斉に集まる。
剛場の瞳が、わずかに揺れた。
――今だ。
机の端を踏み込み、反動で体を浮かせる。
視界が一瞬、天井だけになる。
そのまま、全体重を乗せて爆裂ドロップキック! ――お前の十八番シリーズ、今日だけ借りるぜ!
膝から先が、肉を叩き割るみたいに剛場の胸に沈む。
鈍い衝撃が足の骨を通して伝わってくる。手ごたえは十分。
剛場の身体が大きくよろめき、そのままずどんと床に沈んだ。
間髪入れずにマウントを取る。
両膝で胴を押さえ込み、拳を振り下ろす。
「剛場! 剛場! 剛場ぁぁぁぁぁぁ!」
殴る。頬が揺れる。
殴る。皮膚が赤く腫れあがる。
殴る。拳が熱を帯びて、感覚が薄れていく。
……なのに。
未来が、一瞬で指の隙間からこぼれ落ちる。
あろうことか、剛場は悠々と上体を起こし、そのままの勢いで俺の身体ごと吹っ飛ばした。
「痛ってーな! 突然なにしやがる? せっかくの佳純ちゃんとのトークタイムを邪魔しやがって!」
すぐさま構え直す。
けど――。目の前の剛場は、まるで効いている素振りがない。
頭の中が一瞬で真っ白になる。
何発殴った? 全力パンチだった。それだけじゃない。
ドロップキックだって……間違いなく入った。
……あれ?
剛場が首をいち、にと左右に捻る。
骨がバキバキと、やけに大きな音を立てた。
「あいつらはどうした?」
その声に、思わず一歩下がる。
……ああ。そうか。
思えば俺は、ただの一度も真正面から戦ったことはなかった。
癖を読み、怒りを誘い、カウンターや不意打ち。そればかり。
しかも、あいつとは体格がほとんど変わらなかった。
でも、このデブ……何キロある? 背も俺より十センチは高い。
まともにやったら、勝てねえ。
目つぶしか、金的か……それとも噛みつくか……。
「どうした? もう終わりか? 佳純ちゃんとのトークタイムに戻ってもいいか?」
現実は残酷だった。
剛場は、そもそも俺を相手として見ていなかった。
そうだ――。俺は常夏と互角じゃない。
全力で正面からぶつかれば、何度やっても負けた。
一度だって、勝てたことなんてなかっただろ……。
俺は常夏よりも、ずっと弱い。
でも、だからって――。
ここまで来て引き下がれるか。
ここで下がったら、もう二度と、お前に……。
「う、……あああああああ!」
渾身の声とともに前へ踏み出した、その瞬間――。
背後から何かが飛びつく衝撃。両腕が胴体をがっちりと締め上げた。
振りほどこうと暴れると、耳元で息がかかる。
「やめろ! やめろ!」
……ノッポだった。
もがく俺をよそに、剛場がちらりとこちらを見た。
「終わりだな。んじゃ俺は、楽しい楽しいトークタイムに戻るぜ。――佳純ちゅわぁあああん!」
……ふざけるな。
「離せ! 離せよ!」
「もういい。もういいんだ!」
「なにがいいってんだ?! 邪魔すんな!」
「最初から見てた!」
「……は?」
振り返ると、ノッポが泣いていた。
「止められたのに、俺はお前に期待した。もしかしたらこの地獄が終わるかもしれないって。⋯⋯⋯⋯思ってしまったんだ……」
ぽろぽろと涙が落ちる。腕に込められた力は弱まらないまま、声だけが震えていた。
「だから……俺のせいなんだ。このままお前を行かせて、剛場くんにぶっ飛ばされたら……俺が止めなかったせいで、お前がズタボロになったら……全部、俺のせいなんだ……」
「べつに、お前のせいには……」
わかってる。ここから先は、ただの自殺行為だ。
勝てる要素なんて、ひとつもない。
それに――。
――卑怯者は、俺のほうだったんだ。
立ち尽くしていると、剛場と目が合った。
剛場が、困った顔をしていた。
ノッポの声も俺の声も全部聞こえている。
違う。あれは困ってるんじゃない。
哀れみ、同情……俺が一番欲しくなかった顔だ。
ネオン街の仔猫……。
胸の奥で、何かがきしんだ。
「ノッポ。お前とは埼玉で出会いたかったよ」
「……なんで、埼玉」
「なんでも」
「てかノッポって誰だよ」
「知らねえ」
俺たちは、校庭裏へと戻って行った。
俺たちの間にあるのは、しつけ――。ただそれだけだ。
+
さらに一週間、二週間。時間が過ぎれば過ぎるほど、地獄は当たり前になった。
殴られ、蹴られ、罵詈雑言。
それでも朝は来るし、授業は始まる。
昼になれば腹は減るし、昼休みになれば校庭裏だ。放課後になれば、また校庭裏だ。
――そうやって、己の無力と、どうにもならない現実だけが、ただ延々と続く。
でも――。今日だけは違った。
放課後、いつものように校庭裏へ連れて行かれ、いつも通りフルボッコにされ、土の冷たさを背中に感じながら、ひとりで空を仰いでいた。
まぶしい西日が、じりじりと顔を焼く。
視界の端で、風が土埃を巻き上げ、影がひとつ俺の上に落ちた。
その中で、垂らされる一本の蜘蛛の糸。
「珍しいお客さんだ」
「なに、その言い方?」
「ははっ。笑えよ。笑えって。頼むから……」
俺はこいつに笑ってほしかった。
嘘つきで、約束を破った哀れな男の末路を見て、せめて笑ってほしかったんだ。
「笑えないよ。ちっとも」
「そっか。そりゃ、残念だな」
「もう懲りたんじゃない?」
「……どうだかな」
「あーあ。これはちっとも懲りてないって男の顔だ」
「……はは、バレちまったか」
そこで会話は途切れた。五秒、十秒……一分。
どれくらい経ったかもわからない。俺は身体を起こすのも面倒で、ただ雲を見ていた。
こいつと一緒に帰るのは、今はもう気まずい。
間が持たない。だからただ、空だけを見て、足音が遠ざかるのを待った。
気づけば、すっかり日は落ち、校庭裏の空は群青に染まっていた。
そのとき、ぽた、と顔に何かが落ちてきた。
雨かと思った。けど――。
「……ねえ、もうやめてくれないかな?」
震えを帯びた声。
視線を合わせられず、言葉が消えた。
「…………」
「お願い……」
声も、肩も、小刻みに揺れていた。
「…………」
「わたしのためにやめてくれないかな? もうこれ以上、君がボロボロになる姿、見たくないよ……」
その言葉は耳じゃなく、胸の奥にずしりと響き、息が詰まった。
「わたしのために仕方なく剛場のいいなりになるの。君の望むことなら、なんだってするよ? だからわがまま、聞いてよ……お願い……」
これは蜘蛛の糸なんかじゃない。
掴んだ瞬間、すべてが終わる。
地獄も、傷も、過去も。なにもかも。……なにも、かも――。
――この手を掴んだら、きっと毎日が楽しくなる。
ノッポの奴と一緒に剛場の陰口を叩いたりなんかして笑ってさ、学校帰りに駄菓子屋に寄って、ブタメン取り合ったりして。
そこに佳純が現れて、とんこつ味は好きじゃないなんて言い出して、俺とノッポが目を合わせて言うんだよ「わかってねえ~な」って。
佳純が『スマホ貸して』って毎日、俺ん家に来てドキプリ執事やってさ。
たまに俺がデイリー消化しておくと「ありがとう」なんてお礼言われたりしてな。
婆ちゃんの飯は毎日美味しくて。爺ちゃんの舟に乗って一緒に漁をしたりもしてさ。
んで。
釣った魚で婆ちゃんが最高の料理を作ってくれるんだ。
俺が釣った魚だーなんて言って、佳純とノッポに振る舞ったりしてさ。
もう、あざが増えることもない。
鏡を見ても、青痣も切り傷もない。
笑って寝て、笑って起きる。
……そんな日々が当たり前になる。
――そして、俺は剛場の取り巻きの一人になる。
…………そこにはもう、お前はいない。
……お前だけがいない。
……常夏。
「……できねえ」
どうしてだろう。
どうして、この子は泣いてくれるんだろう。
「……約束したのに……したのに!!!!」
こんな俺のために……。
なのに、どうして。止まれないんだろう。
スマホは電池が切れたまま、机の上でほこりをかぶっている。
あいつと俺を繋ぐものなんて、もうどこにもない。
このまま剛場に逆らったところで、あいつに続く道は閉ざされている。
あの日、一対一の勝負に負けた日。すべてが終わったはずだ。
それなのに、どうして――。
「こんなことしたって、どうにもならないよ。……もうやめようよ。やめてよ……やだよ……もう……君の傷つくところ……みたくないよ……お願いだから……」
視界の端で、雫がぽたぽたと落ちている。
土に黒い染みをつくりながら、じわじわと広がっていく。
どうして俺は、止まれないんだろう。
それさえも、もう――。わからない――。
「……できねえ」
+
あの日、佳純の手を取らなかった日から一か月が過ぎた。
朝の光はやけに白くて、冷たかった。
窓から差し込む陽が、ただ肌を刺すように痛い。
学校に着くと廊下からはいつもの笑い声や、靴音、チャイムの予鈴。
誰かが「おはよー!」と叫ぶ声も聞こえる。
――俺の教室だけが、違う世界みたいだった。
自分でもわからないうちに――。
気づけば、日々、少しずつ削られているようだった。
剛場がにやにやしながら言うんだよ。
「もう少しって顔してんな? さっさと落ちちまえ。らくになるぜえ」
「……うるせえ」
「食いたいもん考えとけよ。お前が落ちたら好きなもん腹いっぱい食わせてやるからな。好きなゲームもやらせてやるよ。早く遊ぼうぜ~」
こいつはもう完全に、俺を玩具かなにか……いや、犬だな。そんな風に見ている。
そして上機嫌に、剛場が指を鳴らす。
「よーし、お前ら並べ! 一人十発ずつなあ!」
剛場の“しつけ”は、朝一番に始まる。
その恨みも苛立ちも、ぜんぶ俺に向けられる。
――さしずめ、一日分のエネルギー注入ってやつだ。
そんな中――。ノッポだけは笑っていた。もう正気じゃないのかもしれない。
ごめんな。お前まで壊したくなかったのに。
お前は優しすぎるからな。耐えられるわけねえよな。……わかってたのに。
俺さえ折れれば、誰も殴らない。誰も壊れない。誰も泣かない。わかっているのに――。
それでも止まれない俺こそが、もしかしたら――悪、なのかもしれない。
そして――。
それからさらに一か月。地獄は日常に。日常は地獄に。もはや、なにが当たり前かわからなくなっていた。
そんな中でまた――。一本、蜘蛛の糸が垂れてきた。
今度は、本物の“歪な糸”。
その朝、教室の空気が妙だった。
この頃の剛場と言えば、決まって不機嫌そうな面をしているのに、今日は何故か満面の笑みで、しかも拍手までして俺を迎えた。
乾いた音がやけに響く。――場違いすぎて、胸の奥がざわつく。
「感服したぜ~。お前はきっと明日も明後日も、それこそ夏休みに入っても根を上げねえだろうな。そんなお前だからこそ、特別ミッションを発令してやる」
なにもない毎日だった。殴られ、蹴られ、ただそれだけの繰り返し。
悪いたくらみが透けて見えても、耳を傾けずにはいられない。
「それ、クリアしたらどうなる?」
「お? 内容よりも先に報酬が気になるってか? いいじゃんよお! 見事クリアできたら、認めてやるよ」
心臓が跳ねる。
「……認めるって、どういう意味だよ?」
「言葉どおりだ。男として認めてやる」
耳の奥まで脈が響く。
「お前が、俺の下につくのか?!」
剛場は吹き出した。
「だあーっははははああああああ!」
苦しそうに腹を抱えながら、言った。
「俺はよ、嘘はつかねえんだ。例えクリアできねえミッションだとしても嘘だけはつかねえ。お前の下につくことは絶対にねえ!」
ほんの一瞬でも期待した自分が、笑えてくる。
「……じゃあやらね」
「まーまー、聞けって。対等だ。仮に俺がボスだとしたら、お前もボスだ。それでどうだ?」
「……俺が、ボス?」
「ああそうだ。お前はボスだぜ!」
その瞬間、世界の音が消えた。
「おっ、やるって面だな?」
剛場の口角がさらに上がる。
「いいぜ。ミッションは度胸試しの、ひもなしバンジーだ!」
息を呑む教室に、剛場が叫ぶ。
「飛べたら認めてやる! さぁ、どうする? やるっきゃねえよな?! おいっ!」
教室の空気が、ぐらりと揺れた。
そのとき――。ノッポが机を蹴飛ばす勢いで立ち上がった。
椅子がガタンと後ろに倒れ、金属の脚が床を引っかく嫌な音が響く。
「ダメだよ剛場くん?! このバカ本当に飛んじゃうよ?!」
「うるせえな! 本当に飛んだって死にはしねえだろうが、口ごたえしてんじゃねえ! 今いい所なんだからよ!」
へえ……そっか。
死ななくて、いいのか。
「……いつ、どこへ行けばいい?」
「だめだ、行くな!」
ノッポが机越しに俺の肩を掴む。
俺は静かに首を振った。
「……馬鹿が」
ノッポが小さく言った瞬間、剛場の拳が横から突き抜けた。身体が机ごと吹っ飛ぶ。
「だからうるせえっての!」
床に転がったノッポの顔面を、剛場がためらいなく蹴り上げた。鈍い衝突音が響き、頭が横に跳ねる。
「ぐっ……がっは……」
重く、くぐもった声が漏れる。
……ノッポ。ごめんな。いつも。
「……なあ、俺がボスになったら、こういうのは金輪際やめるって約束できるか?」
「あ? なんだそれ」
「今、蹴っただろ」
一瞬、剛場が目を細める。すぐに、腹を抱えて笑い出した。
「あははは! いいぜ、やめてやるよ! でも飛べなかったら、お前、今後は俺の言うことを全部聞け。この町に居る限り、ずっとだ。いいな?」
「ああ」
「よっしゃ! 決まりだ決まり! ギャラリーは多いほうがいいからな。明日の放課後はあけとけよ! 鎮ヶ瀬橋に集合な!」
鎮ヶ瀬橋。
それが明日飛ぶ橋の名前か。
「……ははっ。知らね。どこだよそこ。初めて聞いた」
+
夜。自分の部屋。
カーテンの隙間から月明かりが差し、机の上でほこりをかぶっていたスマホが淡く照らされていた。
いつからだったか。前を向くのをやめていた。
殴られて蹴られても、ただ下ばかり見ていた。
……でも今日は違った。
どれくらいぶりだろう。スマホを開くと、未読の通知が雪崩のように溢れた。
『翔太、どうしたの? スマホこわれちゃった?』
『ねえ、翔太、連絡ちょうだい』
『やだよ、翔太。居なくならないでよ』
『ねえ、わたしなにか悪いことしたかな? 謝るから戻ってきてよ』
『ごめんね翔太……ごめんなさい……』
『ねえ、翔太。やだよ。やだ……』
『連絡して……翔太がいないとわたし、生きていけない』
……………………………
……………………………
……………………………
そして一番上に、最後のメッセージ。
『好き。本当はずっと翔太のこと好きだった』
……バカだな。そんなの、知ってるに決まってるだろ。
本当にバカだな、お前は……。
俺もお前が好きだ。
大好きだ。
――そう打ちかけて、指を止めた。
今じゃない。
今の俺はまだ、お前の隣を歩ける男じゃない。
でも、大丈夫。
もうすぐだ。もうすぐ、そこまで行く。
「……もうちょっと待っててくれな、花火」
ただ、飛ぶだけでいい。
話はシンプルだ。
最初となにも変わらない。
今度は間違わない。……絶対に。
なにが、あっても――。




