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11ー④


 突如として、阿修羅の怒号が響き渡る。


 教頭の脅威を瞬時に霞めるだけの迫力を前に、男子たちの手は一同に止まり──。


「ぼぼぼ、ぼくの……そろば…………n」


 男子を先導していたそろばんくんの唇は震え上がり──。


「ぉ、ぉぅふ……よ、吉木先生、こ、これは大問題ですよ? ま、まぁ今回はそこの悪童一人の責任ということで、ば、ばば場を納めましょうか」


 絶対的立場を有するはずの教頭までもがおののいた様子を見せ、即座に妥協案を提示した。



 ──終息。



 あいつに果し状を叩きつけるチャンスは何度もあったはずなのに、その度に躊躇(ちゅうちょ)した。


 その結果。すべてを台無しにした。


 それなのに、ホッとしている自分がいる。


 これだけのことがありながら、俺ひとりの責任で場が収まることと──。これでもう、お前に果し状を叩きつけなくて済む状況に、情けなくも安堵してしまったんだ。


 


 しかし──。よっちゃん先生は男子たちを阿修羅の如き鋭利な視線で一蹴りにすると、教頭の目の前で立ち止まり、この場にいる誰もが予想すらしなかったことを言い出した。


「教頭先生。申し訳ないのですが、今は大切な授業中ですのでお引き取り願えますか?」


 えっ……授業?!


 皆がポカンとする中──。


 教頭だけは怒り沸騰に驚いた様子を見せ、前言撤回とばかりにすぐさま反発した。


「なっ、なにを言っているのかね君は?! これのどこが授業中だと言うのだね?! この子は果し状なるものを持ち込んで来たのだよ?! それに今しがたの男子たちの奇行は如何に説明するつもりかね? これを学級崩壊と言わずなんという!」


 すると、よっちゃん先生も応戦とばかりに反論した。


「わかりました。では今回の道徳の授業について、教頭先生のお硬い頭でもわかるように説明いたしましょう」


「ど、道徳の授業……だとぉっ?!」


「はい。そうです。ですのでとりあえず、彼の腕を離してもらっていいですか?」


 柔らかい口調とは裏腹に、教頭の手首をグギっと力強く握ると──。


「いぎぃっ!」 


 悲痛な叫び声とともに、俺を拘束する手が離れる。


「あぐぅっ!」


 さらに、有無も言わさず果し状をも取り上げてしまった。


「これは返してもらいます。授業に必要な、大切なものですので」


 そしてなにを言うわけでもなく、俺に果し状を握りしめさせた。両手で包み込むようにぎゅっと。揉み込むようにぎゅっぎゅのぎゅっと。


 言葉はなくとも、伝わる──。


「な、なんて乱暴な真似を?! 言葉を使わずに力任せに奪い取るなど、強奪ではないか! 君がそんなだから生徒たちが真似るのではないのかね?! デュクシの達人を生んでしまったのではないのかね?!」


 先生はいつだって、建前を大切にしていた。『戦い十ヶ条』は建前を守るために必要なことだと言っていた。


 それなのに俺たちは、何度も十ヶ条を破っては先生を困らせた。


「お言葉を返すようですが、果し状は彼のものです。それを強引に取り上げたのは教頭先生ではないですか?」


 その度に──。


 何度、叱られたかわからない。

 

「なにを言っているのかね! 私と君の行為を同じに語るでない! 喧嘩をしに来た生徒を止めるのは教師として当たり前のことであり、責任ではないか! 然り、果し状を取り上げるのも教師の努めである!」


 何度、ゲンコツをくらったかわからない。


「理由も聞かずに取り上げることが果たして、教師の努めと言えるのでしょうか?」


 何度、次はないと釘を刺されて、脅されたかわからない。


「なぁーにぃ? 理由もなにも、果し状なる物騒なものを持ち込んでいるのだよ? 万一、怪我でもしたらどう責任を取るつもりかね?! 君ひとりで取れる責任とは限らないのだよ? 事の重大さをわかっているのかね?!」


 でも──。必ず次はあって、また叱られて、またゲンコツをくらって、脅されて、


 楽しかった日々はいつだって──。


 先生の《《建前》》に守られていた。

 

「そうですか。やはり場所を変えて話しましょうか。教頭先生とは一度、教育についてゆっくりと、話したいと思っていましたので」


 鬼が怒る姿を、ずっと近くで見てきたからな。


 だから、わかるんだ。仏の仮面を外しても中身は阿修羅なんかじゃなくて、優しいよっちゃん先生のままだって。


「話ぃ? 職員会議に査問委員会。君から話を聞く機会はこれから先、いくらでもあるから安心しなさい!」


 そして、今もまた──。


 守られている。


「先の話ではなく、今の話をしています。二人きりで、サシでお話をしましょうと言っているのです」


 でも、まだ──。


 叱られてもいなければ、ゲンコツをくらってもいない。


「いいや結構。もう君とは二人で話すことなど、なにもない!」


 今の俺は、よっちゃん先生の建前の外にいる。


 守られるべき建前が、今の俺にはないんだ。


 次はなくて、これが最後だから。

 この機を逃したら、これっきりなっちまうから。


 だから──。


「まぁまぁそう言わずに。美味しい珈琲があるんですよ。終業式前のティータイムと洒落込もうじゃありませんか! 二人で、ね? ささっ、行きましょう。珈琲は熱いうちに飲めって言いますからね」


 建前で叱りつけるのではなく、

 建前で喧嘩を止めるのではなく、

 建前でゲンコツ制裁をするのではなく、


 建前で──。教頭の側に付くのではなく、ティータイムに誘い出して退場を促す。


「ちょっ、ま! いきなりなにをするのだね?! 君はまたそうやって強引に、力任せにぃ……! けしからん。非常にケシカ────」


 時折、憂鬱な顔を見せては教頭にドヤされるとこぼしていた。


 そんな先生の姿を、何度も見てきた。


「やっ、だめ……離しなさい! は、離せぇっ……!」


 だから伝わる。


 言葉はなくとも、伝わるんだ。


「は、離せぇ…………や、やめっ!」 


 先生は俺に、戦えと言っている。


 果し状を掲げたからには、最後までやり遂げろと言っている。


「だ、だめっ……やっ、やだやめぇっ……」

 

 いつかの脱線した国語の授業。


 ──果し状を掲げた者には、何人たりとも邪魔立てをしてはならない。


 果し合いを望む者は、覚悟を胸に、過去を振り返らず、未来を見ずに。ときに向こう見ずと言われようとも、目の前の相手だけを見つめ全身全霊を懸ける。

 想いを言葉に、気持ちを形に。たとえ灰になりて散ろうとも、青春の二文字で片付くのだから恐るることべからず──。


 意味なんて殆どわからなかった。


 でも今なら少し、わかる気がする──。


「ゃっ、いやっ…………ひいぃxy………………ぁっ……ぁぅっ…………ひゃめ……ひぃっぎぃぃっ…………」


 そして──。そのまま強引に、よっちゃん先生は教頭を引きずるようにして教室から出ていった。ティータイムと称した、おそらくは二人の果し合いへ──。

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