いじめるものといじめられるもの
いじめる人間といじめられる人間の違いとは何か。
かつて体験した経験をもとに作者なりに考察してみました
よろしければ『Another Dystopia』も読んでみてください。よろしくお願いします!
『いじめ』。作者が小学生の頃に味わった苦い思い出である。そして同時に社会の問題でもある。
今回はこのいじめについて考えてみたいと思っている。
最初に言っておくが、作者は両方の経験がある。簡単に話を纏めると、いじめが始まった当初はいじめられる側だった。物を隠されたり、校庭でズボンを下ろされたり、廊下のすれ違いの際に腹パンされたりとまあ、色々あった。
だが、その当時はいじめられているということに気が付かず、物を隠された時は頑張ってものを見つけ、ズボンを下ろされそうになったら逆に抵抗したり、すれ違い様の腹パンは腹筋を固めてダメージを防いだりとあれこれしているうちに楽しくなった。
するといじめている側の人間は作者に対して興味を失ったのかあるいは退屈になったのか、別の人物に標的を変えた。無論、作者はそんなことを知らずにその対応をしてしまった。
結果、もう一人いじめられていた人は先生に告発し、教室内で大問題。その時知った話だが、他のクラスにも伝播していたらしい。そして俺も知らないうちに加害者になってしまった。
そんな経験もあって作者は女性が苦手になり、基本的に誰にも加担せずあくまで平等な立場というスタンスを造った。そのおかげで中高大と彼女すらもできなかったが。
さて、本題に入ろう。いじめるものといじめられるもの。この根本的な問題は一体何だろうか。作者はこの経験を通してなんとなく理解した。
単純であり、残酷な話しだが、要は楽しいから。理由はそれだけである。
その一つな理由なだけに相手を傷つけ、その反応を楽しみ、笑う。被害者のことは何も考えずに。加えて、その楽しみは新しい遊びのように周りに伝播する。それがいじめる加害者が増える最大の要因だろう。
では、標的となるいじめられる人間はどうやって選ばれるのだろうか。その理由も単純。いじめる標的は自分以下の立場の人間を対象にする。自分以上のものだと逆に周りから孤立してしまうからだ。
このことから、作者は一つの仮説を考えた。それはいじめる人はどんな人間なのかということだ。特徴として三パターン。傲慢型、臆病型、無邪気型。何故そう思ったのか簡潔に説明しようか。
傲慢型は所謂ガキ大将という奴だ。そんな人物が一人いれば自然と弱者は強者に怯える。だがこの三つの中では実はまだまともな方だと考えている。ガキ大将型はよくも悪くも周りをちゃんと見ている。どれほどいじめていいのか、これ以上いじめたらまずいのかなど引き際を理解している。そしてやらかしたときは素直に謝罪する。そういう罪の意識をしているうちはまだ問題ない。
臆病型は先の傲慢型と違い、かなり人が悪い。というのもいじめる理由は恐れているからである。何を恐れているのか。それはよくあるクラスのカースト制度のランクを下げたくないという一心だからである。(もしカースト制度を知らなければ調べてほしい)
その結果、いじめの加減を知らず大体はやりすぎる。そして自分は悪くないと言いつけ身を守る。反省も後悔もしていないただ逃げるだけの臆病である。
そして三つ目の無邪気型だが、おそらく三つの中でも一番質が悪い。理由を尋ねても楽しかったからやった。それだけである。このタイプの一番の問題は罪悪感が一切ない。作者の小学校でもそんなタイプの人間がいたが、他人の作品を壊したかったからという理由で破壊し、欲しかったからという理由で人の所有物を盗ったりする。このタイプの人間は作者の頭脳ではもう改善の余地なしとして諦めるしかない。
最後に結論としていじめとは子供にとっては過度が過ぎた遊びであり、いじめる側にとっての過剰な防衛本能であり、ただしてみたいという好奇心からなるものである。
だが、作者はそんなふざけた結論を否定したいと考えている。いじめの根本的な解決をすることは不可能に近いが、それでも何故いじめるするのか、いじめられるのかという原因を正しく解明しなければこの問題を解決することは不可能に近いだろう。
いじめを解決する方法があればいいなと考えてしまいますが、そう簡単に思いつくものではありません。
ですが、これを読んで何故いじめているのかということを理解できたら幸いです。
最後に『Another Dystopia』も読んでみてください。