第30話 悪いおじさん
「お嬢様、体調に変化などはありませんか」
人ごみをかき分けるように私の手を引きながらレオが言う。
「特に。あえて言うなら喉が渇いただけ。毒物でも心配しているなら、偶然寄っただけの店でそれはないでしょう」
「万が一に備えてです」
「お姉さんがわざわざ毒見までしてくれたし、そもそも聖……私の職業って毒物に耐性があるのよ?」
「あぁ……。そういえばそうでした」
これは前世の聖女教育で習ったし、今回神殿に入る前にも伝えられた。
実際に毒を飲んで試したことはないけれど、毒見なしで食事できるのはこのおかげなのよね。
これも聖なる力の一種なのかしら。
「とりあえず人混みから出て何か飲みたいわ」
「わかりました」
レオに手を引かれてしばらく歩くと、公園のような場所に出た。
露店も公園の入り口あたりに数店出ているだけで、人通りも大通りに比べればだいぶ少ない。
露店で二人分の飲み物を買って、ベンチへ向かった。
「少し座りましょう。疲れたわ」
やっぱり私は体力がない。
ミリアのときはもう少しあった気がするのだけど。
運動不足かしら?
「人混みは疲れるものですから」
「レオンも座って?」
「そういうわけにはいきません」
騎士は護衛中には座らないのはわかっているのだけれど。
「今日は立場を忘れるはずよ」
「“お嬢様の護衛”でもお嬢様の隣には座らないと思いますけどね」
「じゃあそれも忘れて」
「……承知しました」
少し離れて座って、二人で飲み物を飲む。
私は果実水をストローで。レオはコーヒーを。
レオの横顔を盗み見ると、彼は周囲を見回していた。常にこうやって警戒してくれているのね。
私も真似して周囲を見てみるけど、誰が怪しいか怪しくないかなんてわからない。
「いつも護衛ありがとう」
「お気遣いなく、それが仕事ですから。街は楽しかったですか?」
「ええ。色々新鮮だったわ。でも次があるなら人混みじゃないところにするわね」
「令嬢時代には街に出たりはしなかったんですか?」
レオが仕事にかかわること以外で質問してくれてる。
なんだかうれしい。
「ほとんどを領地で過ごしていたし、たまに王都に来てもタウンハウスにいただけ。街に来ることはなかったわね」
親兄弟には溺愛されていたし屋敷内ではどんなわがままも許されたけれど、少しでも危険が伴うようなことはかたくなに禁止された。
大陸一美しい顔(家族談)に傷がついたらどうするんだ! とか言って。
乗馬もやってみたかったし、街にも出てみたかった。料理も覚えたかったわね。
だから時々脱走したりもしたのだけれど。
「レオンは街にはよく来るの?」
「昔は休みのたびによく来ていましたが、最近は面倒でさっぱりですね。用事があるときだけです」
「そうなのね」
レオはうなずくと、空を見上げた。
「どうかした?」
「天気が崩れそうな感じがしますね。風も少し出てきましたし」
そう言われて同じく空を見上げるけれど、まだそんなに雲もかかっていない。
「少し早いですが、神殿に戻りませんか」
予定では街で昼食をとる予定だったけれど、二度と来られないわけじゃないしまあいいか。
雨に濡れながら帰るというのも嫌だし、レオに負担をかけたくない。
「わかったわ。行きましょう」
「はい」
どこを歩いているかよくわからなかったけれど、レオはわかっているようなので黙ってついていった。
歩いているうちに、空模様がだんだんと怪しくなってきてることに気づいた。
ひとつ、ふたつと空から雫が落ちてくる。
なぜレオは天気が崩れるってわかったのかしら。
「降ってきたわね」
「少し急ぎましょう。外套のボタンを全部閉めてフードをかぶって下さい」
ようやく見覚えのある場所に出て、もうすぐ裏道への門が見えてくるな、というところで急速に雨足が強まった。
サァァア
ザアアアアアア
ドッシャアアアアアアアアアア
「う、うそ!?」
まさにバケツをひっくり返したようなと言うのにぴったりな状態。
こんな雨、何年振りかしら。
外套が持つ多少の防水機能を上回るほどの量の水が上から降り注いできて、痛いほどだわ。
目もろくに開けていられず下を向いていると、急に暗くなって体にかかる雨の量が減った。
驚いて顔を上げると、すぐそばにレオが。
私の頭上に腕をかかげ、そこにレオの外套をひっかけるようにして私を雨から守ってくれていた。
「それじゃあレオが濡れてしまうわ」
「どうってことありません。それより雨宿りを。雷も発生するかもしれませんから」
たしかにこの雨の中馬に乗って神殿まで帰るのは現実的じゃないわ。
でも、雨宿りしようにも店がある区域からは離れてしまった。
少し向こうに民家らしきものがいくつか見えるだけで、雨宿りできそうな場所はない。
仕方がない、とつぶやくレオの声が激しい雨音に混じって聞こえた。
「失礼します」
「え? あっ」
レオが私を軽々と抱き上げ、包み込むように外套をかける。
そしてそのまま走り出した。
何がなんだかわからないまま持ち運ばれ、すぐに一軒の小さな家の前に着いた。
レオがその扉を蹴るとバキッという鈍い音がして、扉がのろのろと開いた。
「レオ!?」
そんな強盗みたいなことして大丈夫!?
そのまま中に入り、そっと床に下ろされる。
広くはないその家の中には、誰もいなかった。
暖炉の前に丸いテーブルとそれをはさむように設置された二脚の椅子、チェストのようなものが一つあるだけ。
あとは壁の棚にお酒。
あまり物がなく、生活感がない。
レオが扉を閉めるけれど、金具が壊れたであろうそれは吹き込む風で再び開いてしまい、小さく舌打ちしながら木箱を扉の前に置いて扉が開くのを防いでいた。
「もしかしてレオの家ですか?」
「はい。さすがに他人の家はぶっ壊して入りません。あいにく鍵は持ってきていなかったもので」
濡れた髪をかき上げながらレオが言う。
水滴が頬や首をつたう様子に胸がざわざわと落ち着かない。
「男の家について行くなと言っておきながら無理矢理連れてきてしまい申し訳ありません」
「この事態ですから、謝罪など不要です」
「ありがとうございます。濡れた外套は脱いでください。今暖炉に火を入れます。お寒いでしょう」
そう言われてみれば寒い。
体温を奪っているびしょびしょの外套をまず脱いだ。ボタボタと水が垂れる。
レオが暖炉に薪を投げ入れ、手をかざして火をつけた。
火の紋章術って便利よね。だから一番人気なのかしら。
レオは私から外套を受け取ると、「お掛けになっていてください」と言いながら奥へと消えた。
言われたとおり椅子に座り、暖炉から暖かい空気を感じてほっと息をつく。
少しして戻ってきた彼の手には二人分の外套とタオル。水滴はもう垂れていない。
浴室かどこかで水分を絞ってきたのかしら?
レオは私にタオルを渡すと、コートハンガーを暖炉近くに持ってきて二人分の外套をかけた。
「ひどい雨ですわね」
「ええ。そう長くは続かないと思いますが、止むか小降りになるまではここで我慢してください」
「何から何までありがとう。レオも座ってくださいね。座らないとわたくしも立ちますから」
レオが微笑む。
いつもはあまり見せない柔らかな笑みに、鼓動が早くなる。
どうしちゃったの、私。
「ではお茶の用意ができたら座ります」
レオが再度奥に行く。
今のうちに髪をどうにかしよう。
ふたつに分けて編んだ髪からはポタポタと雫がたれてきて冷たい。
ルカがせっかくきれいに編んでくれた髪だけれど、ボサボサになってきてしまったしほどいて髪をふいた。
「どうぞ。こんなものしかありませんが」
湯気が立ったカップがふたつ、テーブルに置かれる。
レオのはマグカップ、私のはちゃんとソーサーに置いたティーカップ。
「ありがとう。レオは着替えていらして。わたくしよりもずいぶん濡れてしまったでしょう」
「お気遣いなく」
レオがタオルでがしがしと頭を拭いて座る。
レオの家なのだから着替えのひとつやふたつあるでしょうに、私が着替えられないから気を遣ってるのかしら。
彼はどこまでも騎士なのね。
寂しいような気もするけれど、今日はいつもよりも素に近いレオが見られたから嬉しい。
「もうすぐ昼食の時間なのに何も用意できず申し訳ありません。家に酒か紅茶くらいしか置いていないもので」
「お腹は空いていませんし大丈夫です。街に出ないのならこの家に戻ることも滅多にないのですか?」
「ここ数年は休みの前の日にたまに戻るくらいですね。家でボーッと酒を飲んで頭の中をリセットします」
「今も飲んでもいいのですよ」
「任務中は飲みません」
レオが苦笑してカップに口をつける。
あち、とつぶやきながら飲むレオを見て笑みがこぼれた。
もうそんなに熱くはないのに。昔から猫舌なのよね。
「そういえば、このカップかわいいですね。……こ、恋人のとかですか?」
何言ってるの私。
でも、知らないのよね。レオやセティに恋人がいるかなんて。
「ただの来客用ですよ。今は特にそういう相手もいません」
「そうなのですね」
今はということはかつてはいたっていうことよね。
この椅子に座って、こんなふうに暖炉の火にあたっていたのかもしれない。
そう思うと、胸がチクリと痛んだ。
でも、そういう相手が過去にいたって当然よね。レオももうすっかり大人なのだから。
自分をごまかすように、紅茶を飲み干した。
「もう一杯お淹れしましょうか」
「いいえ。おいしかったわ、ご馳走様でした」
レオの顔をなんとなく見られなくて、テーブルの上に視線を固定する。
カップを持つ、ごつごつとした大きな手。この手はいつからこんなに大きくなったのかしら。昔は小さくて柔らかかった。
レオに対する自分の感情がよくわからない。
ミリアの意識が勝ってレオを子供のように思う時もあれば、男性として意識してしまっている時もある、気がする。
ミリアだったこと。リーリアであること。
その二つが、いまだに自分の中でうまく整理ができていない。
「聖女様。どうかしましたか?」
「え? いえ。少し疲れただけ」
「ならいいのですが」
あまり考えすぎても仕方がないわね。
前世も今世も関係なく、今はこの時間を楽しもう。
外の雨はまだ止みそうになくて、窓を叩く強い雨音が聞こえてくる。
でも悪天候のときにこうして温かい部屋の中でゆったり過ごすのは好きだわ。
暖炉の薪がパチパチとはぜる音が心地いい。
耳を澄まさないと聞こえないレオのかすかな呼吸の音、カップをテーブルに置く音も。
ああ、なんだかいい気持ち。
「聖女様。寝ないでくださいよ?」
「……え? 寝ていましたか?」
「うつらうつらしていましたよ」
「そうですか。暖かくて気持ちがよかったからかしら」
なんだか体の中がくすぐったいような、ふわふわしたいい気持ち。
聖女様、と呼ぶ低い声も心地がいい。
「また目をつむっている」
「寝ていません。ちょっと瞑想中です」
「聖女様の瞑想は頭が揺れるようですね」
レオのちいさな溜息と、立ち上がる気配。
そのまま私の横を通り過ぎていく。
……。
ふっと目を開けると、レオが毛布を持って近くに立っていた。
「少し前に屈んでください」
言われたとおりにすると、背中と椅子の背もたれの間に毛布を差し込んで、私の体を毛布で軽く包んだ。
「あったかい……」
「聖女様にはまだお昼寝が必要なようですので、雨が止むまで寝ていてください。止んだら起こしますので」
子供どころか幼児扱いだわ。
さすがにむっとする。
「レオにはわたくしが子供に見えるのですか?」
「いいえ。十六歳の少女に見えますよ」
十六歳の少女という言い方に、どこか含みを感じる。
言外に十歳も年下の子供だと言われた気がするわ。
たしかに自分がレオくらいの年齢の時は、十六歳なんて子供に見えたものだけど。
でも、どうしてかしら。特にレオには子ども扱いされたくない。
ここで子ども扱いして、とすねて何も言わないのではまさに子供よね。
受け身はやめようと決めたんだから、言いたいことはちゃんと言わないと。
「わたくしはレオに子ども扱いされたくはありません」
「子ども扱いなど」
「十歳の差は縮まりませんが、それでもちゃんと一人の大人として見てほしいと思っています。レオには大人として扱ってほしいのです」
レオは少し驚いたような顔をして、目をそらした。
「……聖女様を尊敬していますし、ちゃんと大人として見ています」
「なら目をそらさずわたくしを見てそう言ってください。それと、嫌でなければ、公の場以外では聖女様ではなく名で呼んでいただけると嬉しいです」
レオの瞳が、揺れる。
炎に照らされて、琥珀色が赤みを帯びて見える。
なんてきれいなのかしら。
「リーリア様」
まただ。
名前を呼ばれるだけでドキッとしてしまう。
「……とお呼びしてもいいのですか」
「え、ええ。もちろんです」
「リーリア様は、俺に子供扱いされていると思っているのでしょうか」
「ええ」
「俺はあなたが思うほどあなたを子供だと思っていません」
どう答えるのが正解かわからず、少し首をかしげる。
「特に今日のあなたは大人びて見える。いつもと違うこの髪も、……唇も」
さっき塗った口紅のことよね。
飲み物も飲んだし、もう落ちてしまったと思っていたのだけれど。
レオの目には、私がいつもより大人びて見えるの?
私を見下ろす瞳が、赤い。
レオの手が伸びてきて、軽く頬に触れた。
禊の間のときのような不快感はないけれど、ひどく緊張している。
レオが私の顔にかかっていた髪を指ですくいとり、そっと耳にかけた。
ああ、もうだめ、心臓が――
「……クソッ」
またクソって言う。
レオがその場にしゃがみこんだ。
レオのいじけポーズ。なぜ今?
「これじゃあ俺はただの悪いおじさんです」
「悪いおじさん?」
「雨のせいとはいえあなたを無理やり自宅に連れ込んで、挙句いつもより大人っぽく見えるとか。ただの変態おじさんじゃないですか」
「レオはおじさんではないし」
「……」
いじけポーズのまま黙り込むレオ。
「……あなたは俺を信用しすぎだと思います」
「そう言われましても。信用できる人だと思いますし」
だってレオだし。
「人を疑うことも大人には大事です。あとほんの数年で聖女様は……リーリア様はもっと女性らしく美しくなられるでしょう。それまでにもう少し人を疑う心と危機感を養っておいてください」
いじけポーズのままでそんなことを言われても。
「雨がやむまでまだかかりそうです。お疲れでしょうから、遠慮なく寝ててください」
ようやく立ち上がって、暖炉に薪を足しながらレオが言う。
まだこんなにドキドキしてるのに眠れるわけがないわ。
眠れるわけが……暖かい……。
……。
沈んでゆく意識のなかで、「危なかった……」というつぶやきが聞こえた気がした。




