#009 経営資源は非可換です!
久保田課長の提案「殺気の管理」は、紗栄子の提案の延長にあるものだ。紗栄子は「殺気を知れ」で、久保田課長は「殺気を己が制御下に置け」だからね。
問題はそれを実行する道筋が今の私に見えているかどうかなんだよ。だって、木に引っかかった風船を取るのに「空飛べばいいじゃん」って言われても「なるほどー」とは言えるけどそこから先には進まないよね?
「管理するって言ってもどうやって……私、今までも精一杯自分の殺気を抑え込む為の努力はしてきたと思うんですけど……」
「それは認めるわ。安くない費用もかけているみたいね」
「ええ」
ほんとにそう。高い石鹸使ってるし、ボツリヌス・トキシンの注射だって結構な金額が……。と言っても学生の時ほどは辛くないけどね。
「でも、あなた一人の資金と努力では限界があるでしょう? 会社の命令でやるとなると、今まで出来なかった、それなりに費用がかかる方法も取れるし、人だって動員できるわ」
「え?」
一枚目の鱗が目からぽろりと堕ちた。
「そんなものがいるかどうかわからないけど、専門家の意見だって聞けるでしょうし、もしかしたら今飲んでいる薬よりずっと殺気に効く薬もあるかもしれない。組織的な捜索を展開して、あなたと同じ能力を持つ人間を見つけることだって出来るかもしれないわ。まあ、予算次第だけど……」
「でも、私一人の個人的な資質に会社がお金を出すなんて信じられません」
「それだけ、芸能方面のイベント警備の案件が増えているって事なのよ……あなたが入社したおかげでね。でも今後、同時に二箇所以上でそれ系の仕事が入った時、あなたを真っ二つに割って持っていくわけにも行かないでしょう? そこで、あなたの殺気を定量的に分析して他の警備員にも使えるようにしたら素敵だと思わない?」
ぽろぽろと目から鱗が落ちていく。なるほど、確かにそうやれば会社とはウィン=ウィンの関係になれるし、私は唯一無二の特異体質持ちの怪奇女では無くなっていく……。
「私の負担が減るだけでなく、そういう人が何人も現れると私自身の特異性が薄まると言う事なんですね……」
「そういうことね。それに、あなたが思っている以上にあなたの殺気の管理方法は会社として見つけ出す価値も意義もあると思うの。あなたの出す殺気の7割、いや5割くらいの効果が他の人にも出せるようになったらウチの会社はしばらくは大儲けよ」
「しばらく?」
「そりゃ、あなたを含めての話だけど、殺気を纏えるようになった人がうちの会社を去る可能性もあるからね。それに、その管理方法を悪用する輩が出現したらやはり使いにくくはなるでしょうし。ま、うちはそれまでの間にシェアを伸ばせればそれでいいのよ。恒久的に優位性を持つ経営資源なんてのは求めてやしないわ」
「ということは、私の殺気は短期的には有効な経営資源という見方をされているんですね」
「そうよ。とっても貴重な、ね」
これは経営戦略の二大派閥の片方、RBV派って方の考え方かな。優秀な営業、天才エンジニア、熱意あふれる経営者なんてのは実はどの会社にでもいるけれど、「この会社の廊下を一番綺麗にしてみせる」って言う清掃員はなかなか居ない。そういう人こそが実は他社に対する優位性の根拠となりうるって言うやつだね。ゼミでやったわ。うん。
頭の中で舌噛みそうになっちゃうけど要するに、私の能力みたいなのが学歴エリートや体力エリートよりも会社にとっては本当の競争優位性に繋がるってことだ。
「じゃあ、その競争優位性の維持や拡大のための予算を会社が出すのは当たり前ですね」
「そうよ。さっきからその話をしてるんじゃない」
就活中によく読んだ「自分の理想を実現するために上司や会社を上手く使え」って感じの雑誌記事とはかなり趣が異なるけど、これってそういうことだよね?
「えーと……それって私にとっては凄く良いことだと思うんですが、その……」
「その話を持ちかけた五味君をぶっ飛ばしたことについては不問にしてあげる。だってぶっ飛ばした理由は盗撮とつまみ食いだったんでしょう?」
「つまみ食い……というか、他に好きな女性がいるのに私と、その……」
「その辺は深く追求しないわ。しても碌なことになりそうにないし。五味君もまさかあなたに殴られたなんて周りに吹聴しないでしょうよ」
しばらく泣いたからだろうか。不思議と五味さんへの未練や怒りがなくなって、久保田課長の話がスイスイと頭に入ってくる。
あれだけの勢いで殴ったんだから五味さんもそうそう無事では居られないと思うけど、久保田課長がそう言うんならこの件が問題になることはないだろう。きっと久保田課長の息のかかったまともな人が後任になって、私の能力制御に力を貸してくれるに違いない。
「しかし、五味君の後任選びは実際、大きな問題よね……」
「え?」
「あなたの研修の時の教官ね、元ラグビー全日本に選抜されたこともある方だったんだけど、あなたと向かい合っただけでオールブラックスのハカを目の前で見るより恐ろしかったって言ってたもの。五味君はあれで、特別な『鈍感力』とでも言うものがあったのよね」
私の殺気は試合前の気合が入りまくったニュージーランド代表以上に恐ろしいのか……嫌な評価だなあ。でも、ホラー映画とかを引き合いに出されるよりはマシだわ。五味さんも、今となっては恋心は流石に失せたけどまさかヤツにそんな力があったとは……。それをきちんと把握している上の人達もちゃんと人を見ているということなのね。
「他に、五味さんくらい鈍感な人って居ないんですか?」
「こういう警備会社ってのはだいたいがスポーツや武道でそれなりの成績を上げた人が多いのよね。だから実行部隊の人達はむしろあなたの出す気配に対しては一般の人より敏感な筈よ。相手の出方や気配を感じ取る努力を積んできた人達なんだもの」
言われてみればその通り。高校の時に交通安全指導に来てくれた警察官で剣道の達人って人がいたけど、私を見てひっくり返ってひきつけおこしてたっけ。
「だから必然的に事務方から選ぶってことになるんだけど……」
「何か問題が?」
「要するに、鈍感っていうか……日頃から相手の顔を見ずに話したり、相手の表情を読まない習性を持つ人となるとね、畢竟、対人スキルが低い人ってことになるのよ」
……何となく分かるな。学生時代を思い返しても、私に気安く話しかけてくる人ってのは結局、自分が何かを話したいだけの、相手のことなんかどうでもいい人が多かったもんな。
「つまり、ウザい人になると……?」
「その通り。しかも、エース級にウザいやつを選ばないとたぶんあなたとコンビは組めないと思うの」
なんてこった。ゴミの後釜はエース級のウザい人だなんて。
「ま、人格には期待しないで。それよりは会社のバックアップが生み出す結果に期待しましょうよ」
ここまで課長が言ってくれてるんだ。多少ウザい人が来てもしばらくは我慢するしか無いんだろうな。
……帰って紗栄子に相談しよう。