#08 ズルい男は血祭りです!
夜のロッカー室の空気は緊迫していた。それは私の殺気によるものではなかった。
「え、ちょっと、やだ何? 怖いよ五味さん」
態度を豹変させた五味さんを見て、私は初めて「怖い」と感じた。
「はは、怖がらせちゃったか。ごめん。でも、今から俺の言うことを聞いたら怖いどころじゃ済まないかもしれないよ?」
「え?」
「世の中の大人ってのは皐月が考えているよりずっとずるいってことさ」
「どういうこと?」
意味深な事を言っている間も五味さんは笑顔を絶やさない。ということは五味さんは大人側にいる人ってことだ。
「俺は君のその『殺気』の強化を上から命じられているんだ……」
え……? なにそれ……?
私は毎朝、出勤前にシャワーを浴びて竹炭の石鹸を使って体臭を消す。電車に乗る時はサングラスをかけて、イベント警備の出動のない日は心が穏やかになる薬を飲んで、半年に一度はボツリヌス菌を顔に注射して表情筋の動きを抑えて……そうまでして抑え込んでる殺気を、会社は強化しろと言ってきてるって? なにそれ?
あー、ずんと来た。ひさしぶりに来た。激しい落ち込み。
それまで調子に乗っていたから落差も大きい。心のどこかで「こんな絶好調はいつか破綻する」って構えてたけど、それでも……これは辛い。
「どうして……?」
「わかってるだろう? 会社は君のその殺気が目当てで君を採用したんだ。だけど君の殺気はせいぜい30メートルくらい先までしか飛ばせない。小さい小屋でのイベント警備や少人数相手の小競り合い相手ならともかく、今後来るであろう大きな箱の仕事を取ろうとするとそれでは力不足なんだとさ」
「いつから……?」
「皐月の指導役になってしばらく経ってからかな。本部長から直々に『ぜひ、強化の方向で進めて欲しい』って言われたよ。アレをどうやって強化したらいいのかなんて見当もつかないけど、特別手当がついてたしな。まあ、俺には『やる』以外の選択肢はなかったわけだ」
五味さん、悪びれたところがない。私に悪い事したとか思ってないんだ?
「私はあなたの彼女じゃなかったの? 今までのお付き合いって全部、私を入社させて、いい気分にさせて、この殺気を育てるためだったの?」
「彼女かどうかと言われると困るな。俺、他に好きな人がいるし。あ、皐月と一緒にいたのは別に殺気を育てるためだけじゃないぞ。面白い写真もいっぱい撮れたしね。知ってる? 皐月はこの角度から撮ると別人みたいに美人に写るんだよ」
言うが早いか五味さんは私の顔の左斜上30度くらいのところにスマートフォンを掲げてパシャっとシャッターを押した。
「ほら」
五味さんは撮った写真の映った画面を私の方に向けた。私の泣きそうな顔がちょっとかわいく撮れている。だけど今は全然嬉しくない。むしろ小馬鹿にされてる分腹が立つ。
ぴろん!
ちょうどその時、五味さんのスマホにメッセージ着信のダイアログが出た。Twitterに投稿した記事にいいねがついたらしい。
「五味さん、このTwitterのアカウント名って……」
「おっと。画面に出ちゃったか。うん。@Go_wis_Me だよ」
go with me にしたかったのに先に誰かに取られてたんだろうか。でも私が気にしたのはそこじゃない。
私の右足が大地を踏みしめ、浮いた左足が着地すると連動したように腰が回転する。その回転は右腕に体重をのせ……
ぱきゃっ
私渾身の、JFH訓練所仕込の右ストレートが五味さんの顔面に炸裂! 拳に鈍い痛みが伝わると同時に五味さんは2mくらい吹っ飛んでロッカーに激突した。見たか! これだけは何故か教官からも褒められてたんだ!
「はぅがぁは?」
「あんただったのか上野公園の動画! よくも私を笑いものにしてくれたわね! 百歩譲っても殺気の強化は上からの命令ってことで許しても、こっちは許せない!」
「待て! 待ってくれ!」
私の怒りは止まらない。五味さんと一緒に吹っ飛んでいったスマホを拾うと、私はその場でそのスマホを工場出荷時リセットをかけてやった。
画面が暗転し、メーカーのマークが浮かび上がるのを見た五味さんは慌てて起き上がった。さすがに激しく怒っている。五味さんは私の胸ぐらを掴み、言葉にならない何かを一言二言喚いた後、どうやら自我を取戻した。
「お前なあ! なんだかんだ言ってお前だって楽しんでたろうが!」
うん、清々しいクズっぷり。こんな男を信じてたなんて一生の不覚。でもまあ怒るよね。そこまでやるかって感じもするし。だけど私だって悔しいし、怒ってるんだ!
「あーおっしゃるとおり私も楽しんでましたよ! 私が一方的にあんたを彼氏だと思ってたって知らずにね! まさかあんたがウケるためなら盗撮だってやる人間とは思いませんでしたーーっ!」
あとはもう、グダグダだ。でも、圧倒的に私に分が悪い。
手を出したのは私。泣き叫んだのも私、スマホをリセットしたのも私。恨み言を言いながら、それでもそれまでの付き合いを忘れられず、捨てられたくない気持ちを矛盾たっぷりに喚き散らしたのも私だったのだから。
◇◆◇
夜のロッカー室に響き渡る私の嗚咽がようやく収まった時には五味さんはいなくなっていた。判ってはいたが情が薄い。
というか……私は五味さんに捨てられたんだろう。当然か。捨てるにも捨てられるのにも十分な理由あったもんな。
「どう?気が済んだ?」
腫れぼったい目で見上げた先には私の上司、久保田課長の姿があった。社内では数少ない女性の管理職。その中でもぶっちぎりに若いがやり手と評判の33歳。噂では直属の上司をセクハラの告発で追い落とし、自分がその課長の席に就いたとかナントカ。
で、どうも私と五味さんの話が終わるまでの間、ロッカー室の前で他の人が入って来ないようにしていたのは久保田課長らしい。
「どうして……?」
「理由は2つ。あなたが今までにない精神状態になりそうだったから。そのせいであなたの殺気に変化があった場合、他の人に危険が及ぶ可能性もあった。もう一つはまあ、こんな形じゃなくてもいつかはしなければいけない話だったからってとこかな?」
げ。聞かれていたのか。でも問題はそこじゃない。
「久保田さんも、私の殺気がパワーアップすればいいと思ってるんですか?」
私は震える声で問いかけた。この震えが怒りなのか、他の何かなのかは良く解らないけど、しばらく止まりそうにない。泣きはらした顔を見られたバツの悪さ、彼氏を失った悲しさ、会社の黒い目論見を知った悔しさ、いろんなものが無い混ぜになってるんだろう。
「上はそうしろと言ってるみたいだけど、私はそう思ってないよ」
「でも……強化しなくちゃいろんな人に迷惑がかかるんでしょう? 会社も辞めないといけないかもしれないし、五味さんだって責任を取らされるんじゃ」
「まあ、上だって五味君一人に押し付けて何の具体案も出さなかったわけだしね。彼が責任を取らされることは無いわよ。部署異動くらいはあるかもしれないけど。それに、何かに失敗した時に責任を取るのは管理職の仕事よ。彼じゃないわ。ほら、これ飲んで落ち着きなさい」
久保田課長は気を遣ってくれたのか、バリスタでコーヒーを入れて私に持ってきてくれた。うう、人の情けが身に染みる。
「久保田さん……私、これからどうすればいいんでしょう? なんかもう、会社のことも嫌になりそうで……」
紙コップに入ったゴールドブレンドの水面を見つめていた私の口から、ぽつりとそんな言葉が出た。
「そうねえ。たぶんあなたが普段やってる努力。あれを突き詰めればいいんだと思うわ。それで誰も損をしないし傷もつかない日々が来るわよ」
「え?」
久保田課長はにっこり笑いながら右手の人差指を立て、軽くウィンクをして顔を私に近づけた。
「あなたのその殺気を、管理するのよ」