第一章 九
「おわっ!!!!」
「ひぃいっ!! ちょっと! 遥、飛ばしすぎ!!」
「飛ばすって言ったでしょう! ちゃんと掴まっておきなさい!」
「いや、だからってこれはやりすぎ……ひぃいい!!」
猛スピードで車が走る。カーブを曲がる時でさえも、その勢いは弱まることはない。荒々しく山を駆け降りていく。
「連くん、糸はどう!?」
「は、はい! 変わらず真っ直ぐ差してます!」
「そう! なら良いわ。このまま進むわよ!」
「はい!」
「もう止めてぇえ~……」
運転している遥はともかく、助手席に座る連も、興奮しているのかまだまだ元気が有り余っているようだ。後部座席の私は既にグロッキー状態だというのに。
(クロちゃんのことで頭がいっぱいで、気にならないのかな)
車酔いの私に対し、連はただ真っ直ぐ前を向いている。背中は前のめりになっているし、いつでも飛び出す準備ができているように見える。ようやく愛猫に会える興奮で酔いなど感じないのかもしれない。
(とにかく早くついて……お願い……)
気分が悪くなってきた私は、ただひたすら車の窓から吹き込む風にあたりながら祈るしかできなかった。
「道が開けてきたね」
遥の爆走の甲斐もあり、山道はほんの数分で終わり、広い河川敷へと差し掛かる。このまま進めば隣町に続いているはずだ。揺れが小さくなったおかげで、ようやく景色を眺める余裕も出てきた。日の光を浴びて、川がキラキラと輝いている。
「……あれ?」
「どうかした?」
連は自分の手元に視線を落としている。そこには私たちを導いてくれる縁の糸がある……はずなのだが。
「消えかかってる……?」
儀式を終えたばかりのときは、くっきりと浮かんでいたはずの縁の糸が、今はまるで点滅するように浮かんだり消えたりを繰り返す。
「もしかして、術が切れるの?」
結びの儀は成功したはずではなかったか。それとも、術が未熟なために効力が持続できないのか。
「……いいえ。術は間違いなく成功してた。こんなに早く切れるはずがないわ」
「それじゃあ、なんで……」
「……」
遥は何も答えない。彼の様子を見る限り、何か知っているはずなのに。何か言えない理由でもあるのか。バックミラー越しに遥を見るも、遥は前を向いたまま私の視線には気付かない。
「あっ、ねぇ。糸、あの橋の下に繋がってるんじゃない? ほら」
「あら、そうね。それじゃあ、ここからは歩きね。目的地はすぐそこよ」
後部座席から身を乗り出して見てみれば、真っ直ぐを指していたはずの糸が橋の方角へと道を外れている。終着はもうまもなくのようだ。
「え、ここって……」
ぼそりと呟くと、連はあたりをきょろきょろと見回す。 何か見つけたのだろうか。
「連、どうしたの?」
「あ、いや……ここ、見覚えが……。そうだ。ここ、クロと初めて会った場所だ」
「……! そうなの?」
「あぁ。橋は昔より古くなってるし、周りの景色も若干変わってるけど、間違いない。……俺とクロは、ここで出会ったんだ」
こちらを振り返った連の瞳は、確信に満ちていた。幼い記憶と今の景色は完全に一致するわけではないようだが、何か感じるものがあったのかもしれない。
「行こう、連。きっと、クロちゃん、連のこと待ってるよ」
「あぁ。そうだといいな」
彼らが出会った場所に、クロちゃんがいる。きっとそれには何か意味があるはずだ。そう直感しながら、車を通りの端に寄せて停めて、私たちは車を降りた。
土手から河川敷へと階段を駆け降りると、速足で橋の下へと向かう。との距離が埋まるにつれ、糸が橋より先にないことに気が付く。つまり、クロちゃんはここにいるのだ。
「……っ!」
「あ、連!」
「待って、結衣」
そのことに気が付いたのか、連が突然走り出す。その後を追いかけようとしたが、肩を遥に掴まれた。
「今はだめよ」
「どうして止めるの? 私は連に術をかけたんだよ? 私にはあの子たちを見届ける義務があるよ」
見習いの身で術をかけたのだ。本当に成功しているのか、この目で確かめるまでは安心できない。
「……そうね。でも今は、あの子たちだけにしてあげましょう。……もう時間があまりないんだから」
「それってどういう……」
「……」
(……! もしかして……)
遥は沈黙する。そんな彼の様子に、鈍い私でも察しがついてしまった。なぜなら、遥があまりにも寂しそうな顔をしていたから――
(クロ……、クロ……!)
連は走った。一週間以上離れ離れになっていた愛猫が、すぐそこにいるのだ。これで、ようやく会える。
(頼むから、そこにいてくれ)
それと同時に、本当にクロがいるのかという不安が連の胸を占めた。 緊張で唾を飲み込みながら、祈るような気持ちで連は歩き続ける。彼の頭の中では、クロで出会ったばかりの頃が思い出されていた。
怯えたように震える、痩せ細った黒猫。それが初めて出会った時のクロの姿だった。今にも消えそうなほど頼りなかったけれど、自分と過ごすようになってから、クロは少しずつ元気に走りまわるようになった。
(クロ……)
家に帰れば嬉しそうに出迎えてくれることもあれば、ふてくされたように丸まって寝ていることもあった。だめだと言っているのに連のご飯を食べようとしたり、宿題のプリントを破いてみたり。散々な目に遭わされたこともあったが、連にとってクロと過ごした日々は、本当に幸せでかけがえのない日々だった。
(お願いだ、クロ。もう一度、俺と一緒に生きてくれ)
もし俺が嫌で出ていったなら、このまま自由になってくれていい。でも、そうではないのなら。帰りたくても道がわからなくて帰れないだけならば。俺たち家族と一緒に、これからも過ごしてほしい。
「あ……!」
糸が結ぶ先は、橋の下の茂みの中。確かに誰かがいる気配もする。
「クロ……?そこに、いるのか?」
そう呼びかけてみれば、ガサッと小さな物音がした。かき分けた茂みの中に、黒い塊が見える。
「クロ……!」
黒い体に橙の瞳。そこにいたのは、確かにクロだった。ようやく、会えた――!
「……みぃ」
「……クロ?」
抱き上げた腕の中で、クロは小さな声で鳴いた。擦り寄るように頬を寄せてきたクロの体は、最後に抱いたときと比べて、随分小さくなっていた。
「な……なんだよ、お前。腹、減ってんのか? メシ食えてなかったんだろう? なぁ、クロ……」
言いながら、声が震えてしまった。こんなに軽いのは、食事を取れていないから。食べればまた元気になる。
――そう思うのに、なぜだか胸がバクバクとうるさい。言いようのない不安が襲ってくる。
「……み」
クロの返事は、小さく頼りない。慰め程度に俺の頬を舐めた舌は、以前よりもザラついていて、ひんやりと冷たかった。髭は力なく下を向き、慈しむように細められた瞳には、まるで生気を感じられない。
――そう、〝生気〟が、感じられないのだ。
「え……?」
クロの左前足には、俺についているものと同じ糸が結ばれている。はっきりと俺の目に映っていたはずのそれは、気付けば細く薄い色になっていた。
「まさか……」
「……その、まさかだよ」
足音とともに、女性の声が聞こえた。振り返った先にいたのは、結衣と遥だった。
「……その子はもう、間に合わないわ」
「――!!」
「かけたばかりの縁の糸が消えるということは、効力が切れる寸前……つまり、繋いだ者が死ぬということ。術を発動させたときには、その子の縁の輝きは既に弱っていた。……死期が、近いのよ」
受け入れがたい現実を突きつけられ、連は頭をガンッと強く殴られたような気分がした。遥が説明している言葉も、連の耳には全く入らない。
本当は、遥に言われずとも連には察しがついていた。だが、受け入れたくなかったのだ。大切なクロを失うということが、連には理解できなかった。
「はっ……ははっ……」
乾いた笑いが零れる。間に合わなかった。クロはもうすぐ、死ぬのだ――
「俺が、俺が遅かったから……!早く、クロを見つけ出せていれば、こんなことには……!!」
「それは違うよ! 連が見つけられなかったから死ぬんじゃない。元々、その子にはもう時間がなかったんだよ。……だから、連の元を去った」
「どういう、意味だ?」
「聞いたことない? 皆が皆ではないけれど、猫は自分の死期を悟ると、飼い主の元を去る習性があるそうよ。クロちゃんも自分が死ぬことがわかっていて、連くんの元を去った。……クロちゃんが何を思って去ったのかはわからないけど、もしかすると大好きな飼い主の連くんを悲しませたくなかったから、かもしれないね」
「……そして、クロちゃんが最期にここを選んだのは、連と出会った場所で逝きたかったから、なのかも」
「――っ!」
大好きな飼い主。悲しませたくなかった。最期を思い出の場所で過ごしたかった。遥と結衣の言葉が、連の胸に突き刺さる。
クロはどうして、自分の元を去ったのだろう。悲しませたくなかったのだろうか。死ぬ姿を見れば、苦しむとわかっていたから。会えなくても、せめて思い出の場所にいれば寂しくないとでも思ったのか。
(俺のことが大切だから……? そんなのっ……、俺は、ずっとお前の傍にいたかったのに!)
「なぁ、あんたたちの力で、クロを助けることは出来ないのか!?あんなすごいことが出来るなら、クロを元気にすることくらい、簡単じゃないのか!?」
すがりつくように、連は二人に詰め寄る。けれど二人の表情は暗く曇っていた。
「私たちにできるのは、縁を繋ぐこと。消えゆく命を留まらせることは、できないよ」
「――!!」
二人にそんなことができるはずない。そんなこと、わかりきっていた。
それでも、連はどうしても聞かずにはいられなかった。二人に、こんな表情をさせてしまうとわかっていても。申し訳なさそうに唇を噛む二人に、連は何も言えなかった。
「み……」
クロは小さく鳴くと、俺の頬を舐めた。
「ごめんな……。俺じゃあ、お前を救えないみたいだ」
「……み」
「ごめん。ごめんな……」
次から次へと、瞳から熱いものが零れ落ちる。クロの体に落ちてしまわないように涙を拭うが、止まることを知らないように、ぽろぽろと雫が零れていく。
「みぃ……」
弱々しい鳴き声と共に、小さな前足が頬に触れた。視線を落とせば、クロと目が合った。
〝泣かないで〟
「――え?」
クロから、そんな声が聞こえた気がした。だがもちろんそんなはずはない。実際には鳴いただけだ。けれど、優しく細められた瞳は、確かにそう告げているように連は感じた。
〝大好き、連〟
連の腕に、クロは静かに頬を寄せた。すりすりと腕を撫でる様は、連のことが大切だと言っている。
勘違いかもしれない。ただの自分の願望かもしれない。それでも、クロの行動は連にそう信じさせるだけの力があった。
「クロ……、俺も、お前が大好きだよ」
「みぃ……!」
クロが望まないのなら、もうクロの前で泣かない。必死で涙をこらえて、出来る限りの笑顔を浮かべると、クロは満足そうに笑って、
「みぃ……」
〝またね〟
「……クロ?」
――静かに、眠りについた。