第二章 九 (完)
(……え?)
いつの間にか、早崎様の傍には見知らぬ人影があった。紺色の上衣に黒い袴、その両手には短刀が握られている。見慣れないはずのその人物は、どこかで見たことがあるような気がした。
「……あ」
吐き出すような声をあげると、全速力で走っていたはずのお母様が突然立ち止まった。暫くそのまま固まっているかと思えば、彼女はゆっくりと早崎様を地面へ下ろす。
「早崎様!」
その隙に早崎様の元へ駆け寄ると、早崎様はあっさりと私の腕の中に収まった。念のためにお母様と距離を取るも、その間早崎様もお母様も何も言わず、ぼんやりと硬直していた。
暫く様子を伺っていると、不意にお母様はぼんやりしたまま歩き始めた。こちらのことは一切振り返らず、ただ沈黙したまま去っていく。
(……何が起きたの? それに、この人は誰?)
目の前で起きた光景に呆気にとられながらも、突如現れた人物に視線を向けた。全身に黒をまとったその人は、静かにお母様を見送っている。その横顔には、確かに見覚えがあった。
「もしかして……二ツ羽くん!?」
学校で何度か見かけたクラスメイト。席は離れているし、いつも髪で顔が隠れているため、はっきりと顔を見たことはなかったが、そこにいる彼はまさしく二ツ羽玲くんだ。
名前を呼ばれた二ツ羽くんは、ぴくりと反応すると私の方を向いた。片目は相変わらず髪で見えにくいが、隙間から覗く瞳は、髪と同じ深い漆黒に染まっていた。
「……この二人を引き合わせたのはお前か、紬喜」
「えっ……、あ……うん」
鋭い目つき、凛とした声に一瞬身震いする。私がしたのは場所を教えたこと、その場所――自宅に送り届けたこと。ただ自宅へ送り届けただけであればよかったが、自宅は探していた場所でもあったのだ。今回の場合、術式を行っていなくても出会っていただろうが、母親がいるとわかっているのといないのとでは雲泥の差。引き合わせたも同然であろう。
「よく考えて行動するんだな」
何を、とははっきりと口にしない。が、その言葉には明らかに非難の色が混じっていた。
この事態に、彼は怒っているのだ。彼から向けられた鋭い視線に、体がびくりと硬直した。
「早崎殿」
そんな私には目もくれず、二ツ羽くんはお父様の下へ歩いていく。手に持っていたはずの彼の二本の短刀は、いつの間にか消えていた。
「ご依頼通り、娘御と元奥方との縁、断ち切らせていただきました。遂行に時間を要し、申し訳ございません」
(縁を……断ち切った?)
二ツ羽くんの言葉に、衝撃が走る。二ツ羽くんの家――二ツ羽神社は縁切りの神社。彼はその家元だ。つまり彼は、依頼を受けて二人の縁を切ったと言うのだ。
「いえ、助かりました。ところで、娘も……あいつも、 呆然としているようでしたが……」
「縁切り直後はあのように硬直するのです。暫くすれば、元に戻ります。縁を繋いでいた者との記憶も未練も、消えた状態で」
(――! 記憶も、未練も……? じゃあ、早崎様はもう二度とお母様のことを思い出すことも、会いたがることもないってこと? そんな……!)
記憶も未練も消える。それはつまり、唯一早崎様に残っていた、大切な記憶さえも彼女の中から消えてしまうということだ。
(そんなのって……!)
これが彼女のためであったとしても、一体どれほど残酷なことか 。そして、残酷だと思うと同時に、先程のお母様の傍若無人さを思うと、忘れてしまった方がいいのかもしれない、という想いも胸に抱く。
(でもそんなの、他人が勝手にどうこうしていいものじゃないんじゃ……!)
相反する想いが胸の中でぶつかる。それを言えば、縁を結ぼうとした私もきっと当てはまる。当人たちを差し置いて、術者が縁を好きに操作するなど、あってはならないことだ。
(……私がやっていることって、本当に正しいの?)
依頼人の願いを叶える――それが彼らのためになると思っていた。けれど、現実は必ずしもそうはならないものらしい。それを、今まさに目の前で見せつけられてしまった。
「……っ」
突きつけられた非情な結末に、心がざわざわと騒ぎ出した。脳裏に浮かぶのは、私を非難する彼の瞳。深く、黒い、闇の色。目の前が真っ黒に染まっていく。
はたと気が付いた時には二ツ羽くんの姿はなく、彼の背を見送ることさえ、私にはできなくなっていた。
あれから、私たちは早崎様のご家族に自宅へと招かれた。目的はもちろん、互いに知っていることを話し合うためだ。まずは今日の事件について。意気消沈した私に代わって、遥が祖父母様から話を聞き出してくれた。
話によると、今朝より何の便りもなく突然早崎様のお母様がお父様のご実家に現れ、『娘を出せ』と言ってきたらしい。事態を把握した祖父母様は急いで仕事中のお父様へ連絡、お父様が帰ってくるまで引き留めていた。しかし、お父様がご帰宅される前に早崎様が戻ってきたために、お母様が祖父母様の隙をついて彼女をさらってしまった。やっとお父様が駆け付けたときには、お母様と私たちが対峙していたところだった――ということらしい。
一旦の話を聞き終えると、今度はこちらが知る限りの事情を説明を行った。早崎様がお母様と会いたいと願われたこと、願いを叶えるため居場所を探ったこと、家庭の事情を考慮し、直接縁は繋がず場所だけを案内したこと。何もかも、包み隠さずお話した。
「そうでしたか……。それは……」
「これは、我々が未熟なままに力を使ったことによるものです。誠に申し訳ございませんでした」
「申し訳ありませんでした」
遥に続いて、私も深く頭を下げた。はっきりと口にしたはずの謝罪の言葉は、想定以上に小さかった。
(私は、何を……)
自分の口で伝えることができないだけでも情けないのに、遥が説明をしてくれている間も、私はご家族の顔をまともに見ることができなかった。
「いやいや、顔をあげてください」
しかし、そんな私に対し、お父様は優しい声をかけてくれた。
「まさかこんなことになるだなんて、お二人も思わなかったでしょう。こちらこそ、娘が迷惑をかけました。そして、助けようとしてくださって、ありがとうございます」
「そんな! 我々は叱責をいただくことはあれど、お礼を言われるようなことは、全くございません。どうかそのようなこと、おっしゃらないでください」
「いいのです。これも元々、まだ幼いからと娘へきちんと説明していなかった私たちに落ち度があるのです。ですから、どうかお気になさらないでください」
何度お伝えしても、お父様たちは私たちを責めなかった。それどころか、彼らは自身たちに問題があったと言って引かないのだ。
もしかしたら建前なのかもしれない。見栄を張っているのかもしれない。けれどそれでも、なんと懐が大きな方々なのだろうと思わずにはいられなかった。そして、彼らのご恩情に感謝すると同時に、責められないことが、己の情けなさに尚のこと拍車をかけた。
それから、今度はお父様が改めて事情を説明してくださった。想定していた通り、早崎様が幼い頃、お母様は他の男と不倫をしていたらしい。その上、まだ幼い早崎様が邪魔であったらしく、お母様は早崎様に殴る蹴る食事を与えない等の虐待行為をしていたのだという。お父様は多忙な仕事ゆえになかなか家に帰ることができず、ようやく帰れた時に衰弱した早崎様の姿を見つけ、急ぎお母様から早崎様を引き離した。
ご実家で祖父母様と過ごし心身ともに回復し始めた頃、不意に早崎様がお母様に会いたいと言い始めた。きっかけはおそらく学校の同級生との生活によるもの。同級生の家に遊びに行けば、優しい母親が出迎えてくれる。参観日には綺麗な母親が見に来てくれる。そんな日々の積み重ねにより、早崎様は母親が恋しくなったのだろうと、お父様は語る。
早崎様の記憶には、幸か不幸か虐待されていた過去は残っておらず、一緒に遊んだ楽しい思い出だけが残されていた。そして『ぬいぐるみで遊んだ』記憶が鮮明に残っているようだが、実際は言うことを聞かないからと、お母様がむりやり奪い取りぬいぐるみで早崎様を殴りつけるなどしていたらしい。記憶が全く別のものになったのは、幼く純粋な心を守るために、彼女自身が無意識に辛い思い出を美しい思い出にすり替えたからではないか、と彼女の担当カウンセラーが推測していたそうだ。
離婚の理由について話すには、早崎様はまだ幼すぎる。理解できるとは思えなかったし、思春期真っ盛りの彼女に本当のことを話して、傷つかずにいられるだろうか。そう思うと、お父様は話せなかった。
そんな困り果てたお父様のもとに、ある噂が届く。それは、願えば記憶も未練もなく縁を切ってくれるという縁切り神社について。お父様は、これは天の助けと思い、急ぎ噂の二ツ羽神社へと縁切りの依頼に向かったのだった。
「ん……お父さん?」
「おぉ、美央。目が覚めたのかい?」
長い話を終え、席を立つと、目を覚ましたらしい早崎様が玄関に姿を現した。どこかすっきりした様子の彼女に、胸の中がちくりと傷んだ。
「うん。なんか、いい夢を見てたような気がする……」
「ほう、どんな夢だい?」
「うーんと、悪者を倒す話! 美央をいじめるおばけを、お父さんがやっつけてくれたの!」
「おお、そうか。お父さんが美央を助けられたんだね。よかった」
「うん! お父さん、ありがとう!」
早崎様が抱っこをねだると、お父様は嬉しそうに目を細め、腕に抱き抱えた。すると、早崎様が私たちの方を向いて、にこにこと笑った。
「お姉ちゃんも、ありがとう!」
「え?」
早崎様には怒られることはあっても、お礼を言われるようなことは何もしていないはずだ。固まっていると、早崎様は笑みをさらに深くする。
「お姉ちゃんも、美央を助けてくれたの! えへへ~、だから、ありがとう!」
「……そ、っか。早崎さ……美央ちゃんのためになったならよかったよ」
お母様に関する記憶は全て消えている。ということは、早崎様は願いにきたことすらも覚えていないのだろう。だがそれは、彼女にとってきっと望ましいことだ。だから私は、あくまで知り合いのお姉さんとして彼女に接する。
「それでは失礼します。……美央ちゃん、バイバイ」
「失礼いたします」
またね、とはどうしても言えなかった。彼女が母親以外の誰かとの縁を願いに来ない限り、きっともう関わることはないからだ。
「ありがとうございました、紬喜様、鷲宮様」
「うん! お姉ちゃん、ばいばい!」
元気いっぱいに笑う早崎様に見送られ、私たちは家を後にした。
「……遥」
「いい人たちでよかったわね」
「……うん」
遥はハンカチを私に手渡すと、それ以上何も言わず、静かに車を走らせた。きっとこれが、遥なりの優しさなのだろう。そのことに感謝しながら、ハンカチを涙で濡らした。
(もっとよく考えなきゃ。本当に、皆を幸せにしたいなら)
今回は運がよかっただけだ。優しい人だったから許された。二ツ羽くんが来てくれたから助かった。それだけだ。
私はもっと強くならなければならない。もっと先のことを考える力を鍛えなければならない。
自分の無力さが悔しくて涙を流すのは、これが最後だ――
縁の管理人 第2章 終