第二章 二
「うーん、ちょっとのぼせたかなぁ」
今日の修行を終えて暫く。夕食を終えた私は、修行で疲れたを言い訳に、どうやら長湯しすぎたらしい。このままでは暑すぎて眠りに就くことも難しそうだ。そう判断すると、涼みを兼ねて境内を散歩することにした。
人気がなく、照明もない境内を照らすのは、月と無数の星から注ぐ明かりのみ。しかも少し曇っているのか、視界はさらに薄暗い。それでもさほど警戒することなく散歩できるのは、もちろん慣れもあるが、この場所が精霊たちに守られているとわかるからだろう。人の気配はしないが、それ以外の気配は常に感じられる。足元に注意しながら境内の中を当てもなく練り歩くと、ふと誰かの気配を感じた。
「……誰かいる?」
神社の入口、鳥居の方から精霊のような気配がする。しかし、それは明らかにこの地に住まう精霊とは違うもの。そして決定的に違うのは、精霊の気配の中に人の気配を強く感じられるということだ。
「……よし」
周囲にはこの地の精霊の気配がある。何かあればすぐにでも清に知らせてくれるだろう。意を決して恐る恐るその見知らぬ気配へと近付くと、向こうも私に気が付いたのか、足音を立てながらゆっくりとこちらへやってくる。
「……このような夜更けに、どちら様でしょうか」
暗闇に白い人影が浮かんでいる。気配との距離が数メートル程になると、私は足を止めた。相手も同じく立ち止まる。
近くまで来ると、その姿がようやく視認できるようになった。私の頭一つ以上の身長に、所々汚れた白い上衣に袴。ぼさぼさで長い髪のせいで、顔ははっきりとはよく見えない。
「……縁結びの、お願いに参りました」
ためらうかのような一瞬の間の後、その人物は口を開いた。どうやら言葉は話せるらしい。やや高めの、落ち着いた男性の声だ。
「生憎、家元はお暇を頂いておりまして。不肖ではございますが、後継者の私、紬喜結衣がお伺いいたします。しかしながら、既に本日は夜が更けております。また日を改めて、お話をお聞かせ願えませんか?」
「日を改めるなど、それでは貴方様にさらなるご迷惑となってしまいます。なに、私の願いは今すぐにでも叶えられるものなのです。どうかお聞き届けいただけませんか?」
言葉遣いはとても丁寧だが、要はすぐにでも願いを叶えてほしいということらしい。見た目もみすぼらしいままにやってきたということは、整える時間さえも惜しかったと言うことなのだろうか。
(何か裏がある? ……にしては、精霊たちが大人しいし、どちらかといえば歓迎している様子もある……?)
感覚を研ぎ澄ませ、霊力の流れを辿ると、この地に宿る霊力が目の前の人物へと溶け込み始めているのがわかった。もしもこの地に害をもたらすような存在であれば、溶け込むのではなく、逆に弾きだそうとするはずだ。
(この人は私たちに害成す人じゃない、ってこと? うーん、どうするべきか……)
「ふっ、ふふふっ……」
どう対応するのがいいか悩んでいると、不意にその人は耐えられなくなったように笑い声を漏らした。
「あぁ、いえ、申し訳ございません。そう警戒なさらないでください。決して貴方様を笑っているわけではないのです。ただ、嬉しくて」
「……嬉しい?」
「はい。貴方様に再び相見えたことが嬉しくて。私が縁を結んでいただきたかったのは、結衣お嬢様、貴方様なのですから」
「お嬢、様……?」
その呼び方に心当たりがある。誰かいなかったか、私を〝結衣お嬢様〟と呼ぶ男の子が。
その人物はふっと小さく笑うと、髪をかき上げた。その髪の隙間から覗く薄い色の瞳と、目が合う。
私はこの瞳の色を、知っている――
「紫乃……?」
「はい、結衣お嬢様」
「あ……」
サァッ……と風が吹いたの同時に、辺りが明るく照らされる。見上げると、雲に覆われていたはずの月が顔を覗かせていた。
「お嬢様」
目線を再び目の前の人物に戻すと、彼はうやうやしくひざまずき、柔らかな笑みを浮かべて私を見上げていた。幼い頃と変わらない、愛らしい笑み。それは、私のよく知る紫乃の笑顔と寸分違わず重なった。
「お久しゅうございます、結衣お嬢様。この氏家紫乃、只今お嬢様のもとへ参上つかまつりました」
月下に浮かぶ彼の笑みはとても美しく、――そして同時に、なぜか儚さのようなものを感じさせた。