掌
ときおり、人嫌いの私たち夫婦は街の喧騒から逃れるように、鹿児島の離島に遊びにいくのでございます。
夫が司法書士現役時代に建てた別荘で羽をのばすのは、日ごろ凝り固まった肩をほぐすにはもってこいの場所でございました。
高台にある別荘はコンクリート造りの白亜の建物で、装飾が小洒落れた佇まい。屋上は見晴らしのいい展望台となっており、紺碧の海が見渡せ、すがすがしい風がツバメの滑空飛行のように吹き抜けていくのでございます。カラッと晴れた日は藤色のパラソルを広げ、その影で椅子に腰かけ、キンキンに冷えた紅茶でも傾けながら、岬の向こうに見える岩礁を眺めるのを、もっぱら日課としたものでございます。
私は双眼鏡で覗きこみ、岩礁のてっぺんの窪んだところを食い入るように注視しました。
柱状節理による変形で生まれた岩礁なのでございましょう。マグマなどが急速に冷却されて定着したり、地殻変動の際に生じた多角形の柱状が、あたかも蓮の花のような空間となり、ぽっかりとあいているのでございます。なんとも風変わりな眺めなのでございます。
このように私は、物事を観察するのが好きでございました。幼少のころなど、父親にねだって買ってもらった鑑識キットにはまり、いまでも指紋採集はお手のものだし、ルミノール反応だって検出できる自信があります。
そのとき、パラソルの影に男が背をかがめて入りこんできました。……おお、なんと哀れなる人相。顔半分に紫色のあざが広がり、それを気にしてか、男はどこか憂いを帯びた表情をしているのです。身なりは粗末で、猫背になっていますが、服のうえからでも筋骨たくましい身体つきが見て取れます。この男、別荘に出入りしている、雑用をやってくれる老境に達した者。地元の人だと言います。買い出しや別荘の掃除をやってくれる神経の細やかさと、重機のような屈強さから、なにかと重宝しておりました。顔のあざを気にしてか心の鎧戸を閉ざし、未婚をつらぬいているとか。無口でしたが、それゆえ二枚貝のように口がかたく、私は信頼をおいていたのでございます。
男はペコリと頭をたれ、「奥さまの言われたとおり、昨晩運びました。むろん誰にも見られておりません」と、言いました。
私は着物の懐から茶封筒を出し、「これは、お礼です。受け取ってください。百万あります」と、すばやく相手の手に押しつけました。
「もらうわけにはまいりません。奥さまのため、言われたとおり忠実に働いたまで」
「それでは納得しません。危ない橋を渡っているのですから。むしろ少なすぎるかも」
「かまいません、とにかくおさめてください」男はうつむき、熱っぽく言いました。「もしや、私の気が変わり、恐喝するつもりではないかとお疑いではないでしょうね? ご心配なく。そんなこと、考えられません。それほどまで、あなたに忠実なのですよ」
「労働や、口封じのための謝礼ではありません。これで昨夜のことを忘れてください。忘れるためのお礼です」
「忘れるため」と、言うと、あざのなかの片方の眼から涙がこぼれ落ちました。「……奥さまが、そこまでおっしゃるのなら、根負けしたことにしましょう」
思えば私も子供のころはいささか悪趣味すぎたものでございます。
あれは私が小学一年生の夏だったでしょうか。ある日、学校への通う道すがら、トンネル内の隅で、野良猫の死骸を見つけたのでございます。猫は誰にも片づけられることなく、しばらく放置されていました。私は登下校のたびに、猫の死骸が徐々に腐りゆくさまを眺めたものでございます。日を追うごとにそれはメタンガスで膨張し、いつしかウジが湧くようになりました。私はランドセルを背負ったまましゃがみこみ、つぶさにその様子を観察したものです。日増しにウジの数がふえ、死骸は濡れそぼったように汚らしくなり、トロトロと臭い粘液をあふれさせました。あのときの私の心理は、病理学者のそれと同義でございましょう。
夫がいけなかったのでございます。私の言い分は女の身勝手でしょうか。
あの人は、海を眺めながら思索にふけりたいという名目で一人で浜辺に行っていたのですが、そのじつ、ビーチへ泳ぎにやってきた観光客の娘に声をかけては、若い尻を追い、金にものを言わせて、ねんごろになっていたのでございます。
すっかり老いさらばえ、枯れる一方なのを嘆き、他人の若さを呪っていたにもかかわらず、私の見ていないところで好色さを露呈していたのでございます。それを知ったときの私の憤りはいかばかりか、あの人は存じているのでしょうか。
夫が司法書士の現役のころこそ、私は裏方に徹し、忍従の生活を送ってまいりましたが、今度の今度はゆるすまじ。私の方が五つ上の姉さん女房として、掌で夫を転がしてきたつもりでしたが――それこそお釈迦様の手の内で孫悟空を転がしたように――、まさか私が関知していないところで、こんな不貞を働いていたとは……。夫の裏切りと、自身の不甲斐なさに、私は我を忘れたのでございます。
別荘で滞在してから二週間目の深夜、夫が寝ているところを絞殺いたしました。
そしてあざの男に命じ、岬の岩礁まで夫の遺体を運ばせたのでございます。男は私と共犯になることを、微塵も恐れることなく従ってくれました。むしろ、奥さまと一蓮托生になれるなら喜んで、とさえ嬉し涙を流すほどだったのでございます。
それはそうと、男いわく、あの岩礁ではかつてこんな風習が残されていたそうです。地元の人間が亡くなると、遺体を舟に乗せ、あの岩礁まで運んだとか。岩礁のてっぺんには窪地があり、そこに遺体を置き去りにし、風葬にさらしたというのです。
風葬……昼間は鳥類が肉をついばみ、夜になると甲殻類が海から現れ、身体の内側にもぐりこみ、削ぎ取っていったとか言われているのでございます。当時はコスト面から火葬施設もなく、土葬をするにせよ墓地を拡張するとなると、ただでさえ狭い島のことですから、耕地面積が少なくなるという理由により、このような葬送儀礼が根付いたと言います。もっとも、それも明治十年まで続き、明治十一年に鹿児島県が風葬禁止令を発令し、やむなく土葬になり、のちに火葬へと変遷していったとのことでございます。
「昔々のことです」パラソルの影で、男はひざをつき、思いつめた声で言いました。「あそこはかつて、聖なる島、ニャデと呼ばれておりました。というのも、ニャデは不思議とヤドカリが大量に集まる場所で、そこへ遺体を置いておきますと、ヤドカリ――内地のそれとはちがい、殻やカニ自体大ぶりの、オカヤドカリという別種のものです――が群がり、骨だけを残して食べ尽したという話があったのです。ニャデは『天に通じる島』と神聖視され、そこでヤドカリに分解された者の魂は、天に昇っていくと信じられていたそうです」
「考えるだけで怖気をふるいますわ。ですが、さすがに現在は行われていないわけですね」と、私はアイスティーを口に含みながら言いました。「『私に考えがあります』と、あなたがおっしゃったのに合点がいきます。絶好の隠し場所というわけね」
「せいぜい島の古老が知ってるぐらいですから、ふだん島民は、ニャデのことなど鼻にもかけますまい」
「ヤドカリが夫の遺体を隠滅してくれるまで、どれぐらいかかるでしょうか。長すぎてもいけませんわ」
「数週間から、場合によっては数ヶ月かかるかもしれません。ですが、この建物の屋上以外に見おろせる場所はありません。わざわざ覗きこむ酔狂な輩がいるとは考えられない。それまで気長に待ちましょう。旦那さまの遺体が骨のみにされるまで」
「それまで私は良心の呵責に身悶えるわけね。よろしいですとも、それぐらい甘んじて受け入れましょう」
「なに、よそからオカヤドカリを生け捕りにしてきて、さらに岩礁に追加してさしあげましょう。そうすれば速く処理できるやもしれません」
「おまかせします。いずれにせよ、お礼は惜しみません。罪もないあなたを巻きこんでしまったのですから」と、私は言い、テーブルの双眼鏡を手にいたしました。「でしたら、夫の身体が崩れていくまえに、せめて眼に焼きつけておかなくては」
いつの間にか日が傾きかけていました。夕陽が海を緋色に照り返しているのでございます。
私は双眼鏡に眼を当てました。
対物レンズを岩礁に向け、てっぺんの窪地を捉えると、焦点を絞り、鮮明にしました。柱状節理によりできた、蓮の花を思わせる永遠の褥。それは古より天に通じる島とされ、特別な霊廟でもあります。同時に窪地は、指を折り曲げ、遠慮がちに開いた巨人の掌をも思わせるのです。その掌底に夫を安置した秘密は、私たちだけが知っているのでございます。すなわち私の掌に握っているも同義でございましょう。
どれどれ……いた。
夫の遺体が大の字に寝そべっていました。
あらあら、すっかりカラスについばまれ、むごたらしい姿に変わり果てて。じきに鳥から甲殻類にかわる時間です。ワシワシと音が聞こえてきそうなほどの、おびただしい数の紫色のオカヤドカリが群がり、いましも夫の肉体を分解しようとしているところなのでございます。
夫の顔にレンズを向けると、なんとグロテスクなことでしょう。半開きの口からフナムシが出入りしているのですから。私に痛罵を浴びせた口からは、いまやフナムシの群れが吐き出されているほどの体たらくなのでございます。これには溜飲を下げずにはおられますまい。
私はあなたのマニア。これからも、あなたが朽ち果てていくさまを、とっくり見守ってあげますから。
了
★★★あとがき★★★
画像掲示板『明和水産』のオカルト板『怖い島・いわくつきの村・総合』http://bbs50.meiwasuisan.com/kaiki/1303097760/『続・怖い島・いわくつきの村』http://bbs50.meiwasuisan.com/kaiki/1381658275/において、長文タレ流したのは僕の仕業です。
ヤドカリ葬である奄美大島のニャーデバナのことについては『続・怖い島~』の>>228~>>233にかけて考察しております。よければお目汚しを。