1.服役
――例えばこの世界に人が居なければ。
そんな在りもしない仮定を想像する。在ってはならない、道理から外れた妄想だと自分で侮蔑した。
いや、それでも考えるべきなのだと、今度は正当化した。でなければ、この世に居る者へ対して失礼だ。
どうであろうと、地球は回るし、世の中も回る。絶えず人は歩き続け、交わり続け、進んでいく。
誰かが立ち止まろうと関係なしに、その他大勢は足を止めない。一人が止まろうと、世界には関係のない話なのだ。一部とも言えない塵のような”物体”が止まるだけの話。それこそ、洗い物の隅にこびり付くカスの一部のようなものの話である。
「くだらないなあ」
「なにが?」
ため息交じりに呟けば、返答が返ってきた。私としては独り言のつもりであったから、返事がきたことに驚く。そもそも人が居たのか、と二重に驚いた。
既に時計の針は5時を過ぎていた。
グラウンドからは運動部の声、各教室からは楽器を鳴らす音が響いていた。先ほどまでの生徒たちによる賑やかさはなく、人気の引いた雰囲気から、今は放課後であることを語る。教室の窓に差し込む光は黄金色で、某ドラマなら「夕日に向かって走れ」的なことを言うんだろうなと思う。
――とはいえ、私は其処にゃ居ないんだけど
学校に居て大半は過ごす教室、ではなく風が吹き付ける屋上に来ていた。普段使われることのない場所に、もちろん人が居るはずもなく。
ならば何故入れたのか。そんなのは簡単、見せかけの閉鎖だったからだ。屋上前のドアには南京錠がかけられ、ドアノブをチェーンでグルグルと封鎖されている。だがそんなものは、ただのお飾りにすぎなかったのだ。鍵がかかっていることもなければ、チェーンはただ巻かれているだけであったのだ。いとも容易く外れた封印をよそに、なんでもないように中に入り込んだ。
広い場所へ出ると自分がちっぽけな存在に思える。目に飛び込む対象が大きいほど、私がいかに小さな物であるのかを思い知らされるからだ。
足は自然に、端から落ちないようにつけられたフェンスへと向かっていた。一歩一歩歩くたび、心地よい風が私の髪をなびく。
金網の向こう側へと行き、フェンスと屋上の端の間に立った。カシャンと網に手をかけ、真下をのぞき込む。なんてことない、いつもの放課後の風景が展開されていた。
本当に何気ない事だった。
ポツリと湧き上がった感想を口にすれば、後ろから声がかかったのだ。
「え」
思わず気の抜けた声を出してし振り返る。反射的に出した音は、だらしなく空気へ溶けた。そんな私の様子を黙ったまま見据えている。
黒い髪を風で揺らしながら濃紺の瞳で、そこに少年は居た。
泣きボクロにスラリとした身体は、酷く美しく見えた。風に吹かれていながらも乱れていないのは髪質だろうか。どこか陰のある少年であった。薄暗い瞳の下には、何の感情も読み取れない。頭の横に狐のお面をつけており、妖美な雰囲気を更に醸し出していた。しかし、風貌に妙に合っており、違和感を覚えることはなかった。
「えっと、なにか用?」
突然の来訪者に、用件を尋ねる。わざわざ放課後の屋上へ上る人は少ない。ましてや、フェンスの外側の人間に声をかけるなど、よほどのことがない限り。
「……キミはひとりごとを言っていたのでしょう?」
「え……?」
「ひとりごとに、用も何もないよね」
でもさっき声をかけたじゃないか、と目で訴える。非難するでもなく、思っただけの事だったのだが。
そんな私の気持ちを読み取ったのか、補足するように言葉は紡がれた。
「個人のものは他人まで縛らないよ」
意味がつかめず、思考の海に放り込まれた。
個人のものだの他人を縛るだの、訳が分からない。話の流れで、ひとりごとの話の続きであることであろうか。
ひとりごとを言っているという個人的なことに、他人は巻き込まれない。ひとりごとは、ひとりで言っているからこそ成り立つものであり、そこに他人が関わると、ひとりごとではなくなる。だが、ひとりごとを言っているときに、第三者が何か言ってようが、互いに関与しなければいいだけの話ではあるが。
――でも、話しかけられて無視するなんて、そんな。
大抵の人は声をかけられると、反応してしまうものだ。ひとりごとを言っていても、喋っている事柄に関与されると余計に答えようとする。少年は、それでも応えたという責任と同時に、今まで構築した自分の世界は壊れると言う。個人の世界は、個人のみにて保護されるということを。
――それにしても。
彼の透明な声を聴いたことがあった。同じ学校なのだから当たり前ではあるのだが、妙に、ストンと直に心に響いた。
「そちら側へ行くの」
語尾は疑問形だったか、それとも。
何かを発することもなく、頭を傾かせ再度説明を求める。
これも、単に少年の独り言に過ぎないのかもしれない。それでも踏み込む行為をするのは、私が”ひとりごと”として受け取らなかったからだ。
彼は腕を伸ばし、向こう側の景色を指さす。もしかして、フェンスを越えて風にあおられてる私を見て、自殺しようとしていると思ったのだろうか。
「その世界は何もないよ」
行動するかどうかはともかく、この世には起源となる力や素材がある。転げ落ちている材料が、形の有無を問わず存在しているのだ。大半は無駄にしているわけだが。死には何もない。意志や想いさえも。どこまで広がっているか分からない、無限の無が存在するだけである。
「……使わないのなら、生きていても死んでいるみたいじゃないの?」
スラリと言葉が零れる。
だから変わらないのではないかと。だから、くだらない、のだと。
少年は返答することもなく、黙って私をジッと見つめていた。変わらず瞳は濁ったままだった。
――目、乾かないのかな。
そんなどうでもいいことを思った。思わず引き込まれてしまいそうな瞳だった。底が分からないほど深く、光を感じない暗さである。
私は急に怖くなり、外側へ向きなおった。さっきと、さほど変わらない人の量が行き交っている。彼ら彼女らはパーツに過ぎないのだと思った。
――私も、所詮は一緒だけど。
私が私であることには何も変わっていないが、視野が広くなったことにより、自分が大きくなった気分だ。しかし、そんな私を小さいと上から見ている誰かも居る。そう考えると、ちっぽけな存在であるのに変わりはないのだ。考えてもどうしようもない事を、悶々と考えてしまう。
突然大きな風にあおられた。
それは本当に突拍子もなく、前触れもなく急な風であった。強い力で体を押されたのだ。
ぐらりと世界が揺らぐ。
視界の端に儚い色が映る。
声も上げる間もなく、無意識に手で空をかいた。
「おっと」
言葉の割には、淡々とした様子で腕を掴まれた。次いで、長い指で絡めとられ、引っ張られたのだ。
全てがスローモーションに見え、他人事のようにも見て取れた。
地面に足が着いた瞬間、重力のまま、その場でくずおれる。意識は刹那、私の元へと帰ってきた。心臓の音が異様にうるさく鳴っている。耳元で鼓動しているようだ。呼吸も荒くなり、息絶え絶えながらも酸素を取り入れていく。まるで全身で呼吸しているみたいだ。
あのまま助けられなかったら、もしかしたら、死んでいたのかもしれない。今更ながら恐怖心があふれ出し、ジワリと涙が滲む。頭が真っ白になりながらも、冷静な私が「やっぱり行く気はないんだね」と呟いた。
「怖い?」
「……」
窓の外は真っ赤に燃えていて、下のほうは既に暗くなっていた。太陽が大きくなり、空に浸透するような赤色は世界を輝かせている。
日差しが少年の顔に薄暗く影を落とす。
「怖いなら笑っていなよ」
ボロボロと泣く私に、無感情のまま告げる。
無感情と無関心は結び付けられるわけでもない。感情を押し殺すことで、関心が無いように見えるから。
「笑っていれば、何か変わるの?」
答えに縋りたかった。恐怖でいっぱいとなった心を安心させたかったからだ。そして何よりも、自分ではない誰かに答えをゆだねれば楽だから。
「さあ、変わろうとするならね」
無慈悲にも、それは叶わなかった。人のせいにしようとしたエゴを見抜かれたのだろうか。
下を向いて表情を隠す私を見て、少年はようやくクスリと笑った。