エレーヌ2
「……アルベール殿下。わたくしのことは、ファティア、と。どうか、そうお呼びくださいませ……」
ファティアがか細い声でそう告げたとき、アルベールは心の中でどれほど歓喜したのだろうか。そして、私がこの瞬間にどれほど歓喜したか。怒りと屈辱に震えていると多くの人が誤解しているだろう中、唯一アルベールだけは、きっとわかっていたに違いないけれど。
ファティアが、ようやっと王太子アルベールと沿う人生を、ついに選び取った。ついに、ついにだ……! ついに、ファティアは人生の選択の正解を選び取った! これで、やっと、ファティアとアルベールは、そして私は幸福になれるのだ。
苦節、エレーヌの人生7回分。総計で何年かはわからないが、全部足したらちょうど100年くらいにはなるのではないだろうか。まあ、たった100年なら、思ったよりは掛からなかっただろう。
それでも、エレーヌの人生7回分だ。その7回分だけ、ファティアは強制的に不幸で悲惨な人生を味合わされていたのだから、その7回分のそれぞれのファティアには全く堪ったものではなかっただろう。
ファティアは、本当に不幸に愛されている。少しでも何らかの選択を間違えると、ファティアは不幸の道へ猛スピードで堕ちて行った。悲しい結末へ一直線に突っ走って行った。もはや、何かに強制させられているかのように、この世の創造神がそう望んでいるかのように。
ファティアは、どの道を選んでも不幸になった。語るのも苦しいほど、無残で、惨めな終わり方をした。
ただ、ひとつ不思議なのが、ファティアの人生を左右するのが、どの男性と結ばれるかという点に絞られている、ということである。まるで、恋愛物語の主人公のように。ファティアの人生の主軸は、常にどの男性と添い遂げるかという点であった。その理由は定かではないが、ともかくファティアが幸福な人生を歩むには、ファティアにとって正しい聖婚相手を選び取らなければならなかった。
だが、何度でも繰り返すが、とにかくファティアは不幸に愛されている女の子である。何故だか現れる男、現れる男、どこか何かが欠けていた。たとえ、ふつうの男に見えても、その周囲がふつうではなかったり、それこそ偶然(を装った)不運な出来事に襲われたりして、ファティアは必ず近いうちに命を落とした。
中でも、一番惨たらしい死に方は、夫がもはや弁解不可能な大罪を犯して、一族郎党皆殺しの刑に処される道である。もちろん形ばかりの妻でしかなかったファティアには何の罪もなかったのだが、何故だかファティアも関与していたという疑いをかけられ、それも主犯のひとりと目されてしまう。しかも、その当時の王が非常に残虐な性格で、とにかく残酷きわまりない方法で罰したがった。その当時の処刑方法は、首落としの刑であった。
大罪人の男の妻であるファティアも同じく首落としの刑に処されたのだが、どういうわけか処刑人がその日はすこぶる調子が悪かったたらしく、うまくファティアの首を切り落とせず、大鎌をブンブン三回も振り下ろして漸くファティアは絶命することができた……なんていう凄惨で、非常にむごい死に方をするのである。
青ざめ、苦痛に歪んだファティアの血まみれの首がころころと鞠のように転がる光景を夢に映した日は、ベッドから起き上がることができなかった。何も口にできなかったし、ファティアの顔を見ることができなかった。
他にも、残酷性の匙加減は違えど、似たり寄ったりな不運な終わり方をどのファティアもしてしまう。どの男と聖婚しても、ファティアは不幸になる。嗜虐嗜好の夫に全身針を突き刺され嬲り殺されるか、浮気性の男の愛人にジャックナイフでめった刺しにされるか、大罪人の妻として濡れ衣のまま首落としの刑に処されるか、あるいは夫自身問題はなくても新婚三日目にして暴走した馬車に轢かれてミンチ肉になるか、世紀の大火事に巻き込まれて全身火だるまになって熱さと痛みの中で焼死するか、激痛を伴いながら少しずつ身体が腐り落ちていく不治の病にかかってじわじわ死ぬか…………エレーヌが夢見できたファティアの最期は大体こんなところである。
この国の成人は18歳なのだが、どのファティアもその前に尊い命を投げ渡すように瞬く間に奪われて行った。大人になることさえ叶わずに、神の元へと旅立ってしまうファティア。ここまでファティアに纏わり付く不日の死が頑ななのは、やはりファティアは神に愛されているからなのかもしれない……ただし、残酷の不幸の神に。
ファティアが歩む可能性のある人生の、そのすべてが、ファティアが生きて幸せになることを許さない。花開くことさえ叶わず、恐ろしい死の両足にぐちゃくちゃに踏み潰されて、死んでいく悲しい花。何度、生まれ直す機会を得ても、その度に新しい残虐に足を取られて死の底に引き摺り込まれてしまう。
けれど、ひとつだけ、たったひとつだけ、ファティアが大人になれる、しあわせになれる道が用意されていたことを、私は夢に見たのである。
そもそも、何故それを知っているかというと、エレーヌには夢見の能力があったからである。夢見の能力、通称『時読み』。
『時読み』とは、隣国のベルジュラック一族の持つ稀有な能力で、過去を、未来を夢に映して見ることのできる預言能力である。ただ、世界の筋道というものは決して一本ではなく、数多の分岐点から幾多にも枝分かれしていくもので、必ずしも運命はひとつではない。よって、その枝に宿った無数の可能性をも読むこともできるわけだ。
まあ、時読みできる者の中でも、それぞれ条件と制限がさまざまであるので、一概には言えないのだけれども。
何故、エレーヌに時読みの能力があるかというと、数代前にベルジュラック一族の娘がゴシントン子爵家に嫁いだことがあるからであるらしい。この能力が現れるのに、血の濃さはあまり関係がないらしいので、まあエレーヌはきわめて運のいい娘だということだろうか。
そんなわけで、エレーヌには時読みの力があった。そして、ファティアの人生を何度も夢に見た。繰り返し、繰り返し。
時読みは、万能ではない。エレーヌが夢に映すことのできるのは、ファティアに関するのみだった。それが、エレーヌの時読み上の制限なのだろう。
もしも私に時読みの能力がなかったら、私はどうなっていたのだろうと思うことがある。ふたりを除いて、誰にも打ち明けたことはなかったが、このようにして私はファティアの人生を知ることができたからこそ、この意味のわからない恐ろしい枠組みと、否が応でも戦わなければならなかった。
何故、複数回にも及ぶエレーヌの人生を繰り返し消費し続けることができたか? 何故、ファティアが人生の正解を選び取るまで繰り返しやり直し続けることができたか?
私は知っていたからこそ、苦しかった。繰り返し巻き戻る人生の中で、私は見て、知って、生き直して、だからこそ戦わなければならなかった。
ファティアの人生が間違われる度に、エレーヌの人生は巻き戻った。ファティアがむごい死を呷る度、全てが巻き戻り、そして再び生と死が繰り返された。ファティアが正解の選択をするまで、何度でも。
ファティアの人生の選択の正解、それは王太子アルベールという男と結ばれること。アルベールという男だけが、ファティアをしあわせにする。ファティアは大人になれるし、かわいい子どもだって生める。ファティアと結ばれたのち、王太子アルベールが国王に即位すると稀に見るほどに国は平和になる。優秀な子どもに恵まれ、ファティアも王太子もその手がしわくちゃになるまで長生きし、美しい生き方で大往生をするのだ。これを正解と言わずして何と言う。
けれど、ここで大変に大問題になってくるのが、間違われた六度の人生の中で、彼が存在したことなど、一度もなかったというこである。そう、彼は存在しなかった。王太子アルベールなんて男は、何度探しても、どこにも存在しなかったのである。
どの人生も、王子はたったひとりだった。王太子の肩書きを持っていた、そのたったひとりの王子とは、ジョンという名で、夢に映る王太子アルベールとは似ても似つかない凡庸な男だった。
国王の兄は既に亡くなっていて、その世が世ならば王太子になるはずだった王兄の遺児も既に薨去していると言われていた。でももしかしたらどこかで生きているのではないかと思い、必死に方々探してはみたけれど、やっはりこの世界のどこにも見つからなかった。
だからって諦めるなんて決してできなかった。一度目の人生も、二度目の人生も……そのあとの全ての人生で、私は存在しないアルベールという、ファティアをしあわせにできるはずの、ただひとりの男を求めて、この閉じた輪の中、たったひとりであがき続けてきた。
そのためになんだってやった。人を陥れ、人を操り、人を裏切り、人の心奪って捨てた。ファティアの不幸な人生を、今度こそ奪い取るために。たくさんの人を騙し、脅し、蹴落とし、踏みにじった。心も、身体も、なんだって売り渡した。自分の全てを切り売りしても、私にはどうしてもほしいものがあったから。