4 幸せの終わる前
「少しいいか?」
ロンドン市警察本部、ウッド・ストリート警察署の署長室を訪れていたらしいアルフォンス・メイスフィールドを呼び止めたのは、オウエン・ストウだった。
「刑事さんにも興味はあると思いますから、コピーはしてあります」
小脇に抱えていたブリーフケースから玉紐のついた封筒を取り出すと、無造作に彼の胸の前に差しだした。
「ドクター……」
受け取りながら考え込むような表情をしてベージュの封筒を凝視して数秒たってから顔を上げる。
「ドクター・メイスフィールド、廊下で話をするのもなんだから、向こうで紅茶でも飲みながらどうだろう?」
そう告げられて、メイスフィールドは腕時計を眺めてから口角をつり上げると笑ってみせる。
穏やかで品の良い笑みだ。
これまで何人もの犯罪者たちも目の当たりにしてきたが、こうも品格というものは所作や口調からにじみ出るものなのだろうか、ともオウエン・ストウは思った。
「報告書を提出してきたところか?」
「はい、まぁ、普通の情痴殺人ですよ」
普通の、とこれまた特別の感慨も見せずに告げたメイスフィールドに対する違和感に、ストウは「普通」と言う言葉を考えさせられる。
「男っていう生き物は、女と違って”どうしようもない”ですからね」
オフィスに続く廊下を歩きながら、メイスフィールドはそう言った。
確かにそう言われてしまうと身も蓋もない。男と言うものは「自尊心」の生き物で、なにかにつけては良くも悪くも権力に固執する。
「別にわたしは女性が素晴らしい生き物だと言っているわけじゃありませんよ? 刑事さん?」
「あ?……あぁ」
言葉を濁すように素人考えを振り払ったオウエン・ストウは、アルフォンス・メイスフィールドにそう言葉を投げかけられて顔を上げた。
「女性人権団体に文句を言われそうですけど、わたしは別に女性の権利についてどうこう言うつもりなんて欠片もありません。現実は、男権社会ですし、女性蔑視の男性差別主義者も多く存在します」
そんな彼らの全てが「男が女よりも劣っている」と考えているわけではない。彼らの一部は、一方的な偏見で男性よりも女性が上だと思っているだけだ。もっともそんな男性心理も理解したうえで、男性優位論者も、女性権利の人権主義者も一蹴したアルフォンス・メイスフィールドがなにをストウには考えているのかさっぱりわからない。
「人間は、自分たち野生性がないとでも思っていて、まるで”神”のように、自然を……。世界を支配しようとする。”自分たちも自然の一部だということを理解していない”」
そこで彼は一度、言葉を句切った。
「野生をもっている事が野蛮なこととは違う。それは、人が自然界の一部に間借りしているということの証明に他ならないのです。それなのに、自分たちはまるで”神にでもなったような”振る舞いをして、野生性を否定することが、わたしは愚かなことだと思っています」
「……――すまないが、博士の言っている言葉の意味がわからない」
「あぁ、失礼しました」
オウエン・ストウの言葉に、メイスフィールドは苦笑した。
「そんなに難しい話じゃないんですよ。わたしが言いたいことは」
言葉を交わしながらオウエン・ストウのオフィスに着いたふたりは、紅茶を紙コップに入れてから窓際の椅子に腰を下ろすと、窓の外に流れる雲を眺めながら会話を再開した。
「……わたしは偽善者が嫌いなだけなんです」
短い沈黙を挟んで、メイスフィールドはカップに唇をつけてからそう言った。
どこまでも彼の緑の瞳は穏やかだ。
ストウの目には、まるで、悟りを開き俗世間から隔絶されてしまった修道士のようにも映ったが、結局、ストウが聞きたいのはジョン・スプリングのことであって、メイスフィールド自身のことではなかったから、彼の含みを持たせた言葉に対して追及はしなかった。
「わたしがこの仕事を始めたのは、そうした偽善者が嫌いだったからなんです」
「それで、例のジョン・スプリングのことなんだが、博士」
「あぁ、そうでした。それで、刑事さんの聞きたいことってなんだったんですか?」
小首を傾げたメイスフィールドが問いかけると、ストウは思考の谷に沈みがちになる意識を引き上げて重々しく口を開いた。
「彼が被害者を殺した理由……――、原因は君は情痴殺人だと言ったが、本当に男が男に対して、恋に身も心も灼き尽くして、結果的に我が身の破滅を招き寄せたとでも言うのか?」
オウエン・ストウは言葉を選びながら、自分の偏見を廃して犯行現場の状況を確認した。
「先日、刑事さんに説明した通り、ジョン・スプリングは被害者を誰よりも愛していたんです。たとえ、刑事さんに同性愛者の気持ちがとても理解できないものだとしても、ジョン・スプリングは男として被害者を愛していたんです」
同性愛者の気持ちなど理解できるわけがあるか……!
思わずそう言いかけてから、言葉を飲み込んだストウはあきれた様子で両方の肩から力を抜いた。
「少なくとも現代社会において、権力を握る一部の人々は、自分の利益の邪魔になるからという理由だけで、人々の権利と利益を損なう”犯罪ぎりぎり”の行為を行っている。それが、今の現代社会では黙認されている。それが許せなくてわたしはこの仕事をやっているんです」
紅茶を口に含んでから、メイスフィールドはかすかに笑った。
「もちろん……」
ゆっくりと順を追って説明するように言葉を綴るメイスフィールドは、どこか女性的な所作で足を組み直した。
青年心理学者の育ちの良さを感じさせる。
「もちろん、本来人殺しというやり方は、現代の法治国家において許される行為ではありません。わたしが、個人として人の野生性を否定していないからといって、野蛮であることを良しとしているわけでもありません。ですが、彼の行為はどうあれ、ジョンのほうが人間らしいと思いませんか?」
「犯罪者を肯定するのか?」
「だからそういう意味ではありません」
「人には誰しも宿る心の闇……、影の部分だと言っているだけですよ」
誰だって憎たらしい人間に悪意に近い害意を抱くこともあるだろう。
死んでしまえばいいとか、殺してやりたいとか。
もしくは、殺されてしまえばいいとか。
相手が死んでしまえばいいと夢想することだってあるだろう。
特に多感な青少年期では。
そうやって多くの青少年達が道を踏み外すのだ。
「ジョンの事件は、特に計画性のない突発的な殺人。計画殺人じゃありませんし、彼の余罪はなし。ただ、世間の目を隠れて生きてきた”隠れゲイ”だというだけです。ゲイだということだけで、人の目をはばかられなければならないなら、これほどの人権侵害はないのではないですか?」
いずれにしろ、同性愛者、あるいは両性愛者という存在は、世間一般的には少数派なのだから、多少、偏見に満ちた眼差しを向けられるのは覚悟しなければならないのではなかろうか。
オウエン・ストウはやや常識的に思考を巡らせるが、メイスフィールドにとっては対象者の性的嗜好には関心がないようだ。
「個人の権利を主張されるとつらいところだが、俺の性的嗜好はノーマルだから仕方ないだろう。それとも博士はなにか? 男から博士のことを愛しているからケツを貸せと言われればケツを貸すのか?」
つっけんどんなストウの台詞に、メイスフィールドは静かに笑った。
「恋愛関係というのは、互いに双方向からの愛情があって成立するものであるはずです。仮に、わたしが男性から好意を持たれたとしても、わたしがノーマルの性的嗜好しか持っていない以上、そこに恋愛関係は成立しない。ですから、わたしがボランティアで男性とベッドを共にするということはないんですよ。刑事さん」
真面目な顔で言葉を返されて、オウエン・ストウは面食らった。
あなた方、警察官は同性愛者に対して偏見を抱いている。
遠回しにメイスフィールドはストウの一方的な見解を非難した。
そうして、ストウのところに殺人犯、ジョン・スプリングの精神分析の報告書を残してウッド・ストリート警察署を出て行った。
アルフォンス・メイスフィールドがストウの机のあるオフィスを出て行こうと背中を向けたときに、心理学者の懐で携帯電話の呼び出し音が鳴った。
「メイスフィールド……」
――あら、ローズ。どうしたの? こんな時間に。病院に行くって言ってたけど……。……え? 本当?
嬉しげな彼の声音が響いた。
「嬉しいわ。お祝いにおいしいケーキでも買っていくわね」
目尻を下げた優しげな横顔が、印象的でストウはつい尋ねてしまった。
「どうかしたのか」と。
「ローズ……。妻がね、妊娠したのよ」
弾んだ声で、にこやかにメイスフィールドはそう言った。