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3 Agatha

 狭い室内に据えられたテーブルに、容疑者のジョン・スプリングと向かい合わせに腰を下ろしているアルフォンス・メイスフィールドは頬杖をついて灰皿に煙草の灰を落とすと、薄い唇を引き結んだきりだ。

 坊主頭の痩せた小柄な青年は、上目遣いにメイスフィールドを伺うように見上げてから、うろうろと視線をさまよわせて何度も吐息をついた。一方で、取調室をガラスの向こう側から見つめるのはオウエン・ストウだ。

「お、俺は……」

 沈黙に絶えられなくなったのか、ジョン・スプリングはためらいがちに口を開いた。

「俺が殺したんだ」

 ぼそぼそとつぶやくスプリングに、メイスフィールドはわざとらしく視線を上げた。取り調べが始まってからほとんど会話らしい会話をしていないメイスフィールドとスプリングだが、犯罪心理分析捜査官とふたりきりにされて落ち着きのない容疑者とは対照的に、メイスフィールドのほうはそんなスプリングの表情の変化と、一挙一動を逐一観察していた。

 消え入りそうなスプリングの言葉に、メイスフィールドは「そう」と言いながら睫毛を伏せた。

「あなたは彼を愛していたんですね」

「好きだったんだ。ずっと俺たちは一緒だったのに、あいつが突然別れるって言い出したんだ……。だから、ついカッとなって、俺……、俺は」

 どもりがちになるスプリングの言葉を、メイスフィールドは急かさない。

 いっぱしの刑事から見ればもどかしいばかりの生温い取り調べだったから、オウエン・ストウは苛立ちを隠せずに組んだ腕を軽く指でたたいた。これが自分だったら容疑者の胸ぐらを掴んで怒号を上げただろう。

「あいつは都合のいいときだけ、俺の繊細なところが好きだって言っていたくせに、急に好きになった”女”ができたから俺と別れるって言ったんだ……。女なんかに、俺は恋を破れたなんて認めたくなかったんだ……」

 認められなかった。

 認めたくなかった。

 何度も繰り返す青年の女々しさに、オウエン・ストウは眉間に深くしわを刻むとぴくぴくと唇の端を震わせた。

 全くもって同性愛者の頭の中など理解不能だが、ジョン・スプリングの責任転嫁的な発言には苛立ちを隠せない。

「なぁ、わかってくれよ! 刑事さん!」

「別れるって言われてかっとなったんですか? それだけ?」

 柔和な言葉で問いかけられて、スプリングはさっと顔色を変えた。警察官による事情聴取で同じやりとりを交わしていた。もっとも、刑事の取り調べとは違い、臨床心理学者は率先して話を誘導することはしない。

 メイスフィールドにとって重要なことはスプリングの自供ではないらしい。

 じっと注意深く、容疑者の坊主頭の青年を見つめている。

 どちらにしてももどかしい。

「あいつが、一年前から浮気をしていたことは知っていたんだ……」

 長い沈黙を挟んでジョン・スプリングはため息を漏らすようにそう告げた。

「浮気をやめてほしいと何度も説得して、そのたびにあいつは、もうやめるって言ったのに、あいつは何度も何度も、俺に隠れて女と会っていたんだ……」

 頭を抱えて吐きだした彼の言葉に、メイスフィールドは眉毛を上げる。もっとも彼が表情に変化を見せたところで、その内心をジョン・スプリングが読み取ることはできなかっただろう。

「それは気の毒でしたね」

 冷静に相づちを打つアルフォンス・メイスフィールドは、感傷的になってことさらに追及することもない。

「仕方なかったんだ!」

「そうですか」

 あくまでも淡々としているメイスフィールドの物言いに、スプリングは身を乗り出すようにして必死な形相で言いつのった。

 男同士の恋愛関係など、ノーマルな性的嗜好を持つオウエン・ストウなどにとってみればさっぱり理解できないし、吐き気もする。しかし同性愛者が多いロンドンのことだから、人の性的嗜好に対してどうこう言うつもりはなかった。

「あなたにとっては仕方のないことだったんですね」

 肯定するわけでもなければ否定するわけでもない。

 彼の物言いはひどく穏やかだ。

「話を聞かせてくれてありがとう」

 口元だけでメイスフィールドがほほえんだ。

「刑事さん……!」

「残念ですが、わたしは刑事じゃありません」

 言いながらアルフォンス・メイスフィールドはテーブルに手のひらをつくと立ち上がった。

「あなたが、被害者を殺したことは事実ですし、あなたは自首してきた。そしてあなたの自宅からも証拠の被害者の性器が見つかった。わたしの仕事はあなたの精神状態を分析することで、あなたの犯罪を立証し、裁くことはわたしの仕事ではありませんよ」

 俺は正直に話をしたのに!

 悲鳴のようなジョン・スプリングの声が狭い取調室に響いたと同時に、テーブルを挟んで立ち上がったメイスフィールドにつかみかかろうとして、男は腰を上げて腕を伸ばす。

「勘違いしているようですが、わたしに捜査権はありません」

 つかみかかってきた男の手をさっと片手で振り払ってメイスフィールドは、踵を返した。



  *

「どうだった?」

「イライラするって顔をしていますが」

「……理解できんからな、イライラするだけだ」

 オウエン・ストウの捨て台詞に、アルフォンス・メイスフィールドは苦笑した。

「確かに」

 そう相づちを打つ。

「わたしにも同性愛者の感情的なところはさっぱり理解できません」

「俺はてっきり心理学者の先生というものは、同性愛者の関係にも通じているもんだとばっかり」

「でも、もっとシンプルに考えれば理解できますよ。ジョン・スプリングが男だからとか、女だからとかそういった感情はとりあえず横において、ストウ刑事、あなたが別の誰かを人間的に好ましいと思う事と同じです。本来、種の保存を考えれば男は女に、そして女は男を好ましく思うようにできています。あなたやわたしが女性に対して好ましいと感じることと同じです」

「……同じ」

 同じと言われても男が男を恋慕の感情を抱くことと、男が女に対して愛情を抱くこととでは天地の差があるような気もする。メイスフィールドに「同じ」だと言われてもオウエン・ストウにはさっぱり理解ができなかった。

「とりあえず、数日のうちに報告書を出しますので」

 心理分析とやらはそんなに簡単なものなのか?

 内心でストウは小首を傾げた。

 全くわけがわからないことばかりだ。

「もちろん、刑が確定してそれからが本番ですけどね」

「……はぁ?」

 感じの良い笑顔をたたえたメイスフィールドは胸ポケットからタバコを取り出しながら歩きだすと、捜査本部のテーブルの上に置かれた自分のカバンを取りあげた。薄給な若者らしく安物のカバンだ。

「心理分析というものはそんなに簡単なものではありません。とりあえず、警察の捜査の手助けになるような分析結果を出さなければなりません。わたしの仕事は、ここで終わりというものではないんですよ」

 彼は何人もの「患者」を抱えている。

 隠された真実を暴き、その心の奥底にあるものを引きずり出し白日の下にさらすことこそ、心理学者の仕事だった。

「わたしにもあなた方のやり方がさっぱり理解できないように、あなた方もわたしのことなんて理解できるわけもない」

 言いながら勝手に歩いて行くメイスフィールドの会話についていこうとして、横を並んで歩くオウエン・ストウは、青年心理学者がタバコに火をつけようとしたところで第三者の存在を感じ取って現実に意識を引き戻された。

 事件現場で会ったフェラーリの男だ。

 華やかな金髪碧眼が印象的だ。

「タバコは体に悪いと言っているだろう、アガサ」

 アガサ……――?

 火をつけようとして、口元にくわえたメイスフィールドのタバコを取りあげて、さっと自分の口元に押し当てた男がともされたライターの火を灯す。

「そう言って自分もタバコを吸ってるんだから人のこと言えた義理じゃないんじゃない?」

 この軟派野郎……――。

 しかも相手が男だ。

 毒気を抜かれてオウエン・ストウは肩を落とした。

 それにしても「アガサ」ってなんだ?

 ストウは自問自答してメイスフィールドとフェラーリの男を見やった。さりげなくメイスフィールドの腰に手を回して、警部補の青年を眺めやってにやにやと笑っているのがさらに腹が立つ。

 だいたいこいつらは、結婚指輪を見る限りどちらも既婚者でパートナーがいるはずだ。額に青筋を浮かべた男はひくひくと唇の端を震わせて、鼻白んだ様子で完全無欠な美貌を持つ男を眺めた。

 こいつはいったいなんなんだ。

「君の”捜査”も一段落ついたようだし、食事でもどうだね?」

「ごめんなさいね、今日はローズと食事の約束をしているの」

「ならうちで一緒に食事でもどうだろう? 君が来るならハナも喜ぶ」

 ローズとハナ、それは彼らの妻の名前だろうか。

 もっとも執拗に彼を食事に誘うフェラーリの男は、メイスフィールドの腰を馴れ馴れしく抱いていてそれがストウの嫌悪感を煽った。互いに女性のパートナーがいるのに、その妻に対して裏切りをしているのではないかと思うとはらわたが煮えくりかえるような嫌悪感がこみ上げる。

「だから、わたしは今夜は家に帰って、報告書も仕上げないといけないし、ローズも待っているからダメって言ってるでしょう」

「そうか、……それは残念だ」

 心底残念そうに肩を落として、フェラーリの男は名残惜しそうにメイスフィールドの腰に回していた手を離した。

「ジョージ、あなたはいつもそうやって冗談ばっかり。わたしはあなたのことをよく知っているからいいけれど、わたしを独占したいあなたの気持ちもわかるけど、そんなんじゃハナさんに幻滅されるわよ」

 人差し指の先でフェラーリの男――ジョージの鼻の頭を軽くつついてから穏やかな笑顔を浮かべて見せた。

「わたしのベッドの相手はローズだけよ」

「はいはい、君がローズを誰よりも愛しているのは知っているよ」

 両手の平を上に向けて首をすくめたフェラーリの男は、車のイグニッションキーを投げてよこした。

「早く帰ってあげたまえ。最愛のローズのところに」

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