2 アニマ
全体の修正をかけました。
ロンドン市警察のウッド・ストリート署に戻ってきたオウエン・ストウは改めて捜査本部に設置されたホワイトボードを腕を組むと凝視した。
被害者は白人男性。
名前は、今のところどうでも良くはないが、どうでも良い。犯人らしき人物も自首をしてきた。
「俺がやった」と。
自首してきたとは言え、正直な捜査陣の気持ちをストウが代弁するなら「俺がやりました」では話にならない。しかも取り調べの最中に脈絡のない発言を繰り返し、心神喪失状態にあるのではないかとも疑われ、結果的に刑事たちの考えの及ぶ範囲ではないということになり、ロンドン警視庁に詰める、心理学者の協力を仰ぐに至った。
ロンドンは世界に名だたる大都市で、その流動人口は一日にして三十万人にも及ぶ。
華やかな光に満ちた大都市だからこそ、そこに隣り合う闇は深く暗い。
容疑者は白人男性で、気の弱そうな垂れ目が印象的だ。
ネオ・ナチスにでも所属していそうな坊主頭で、一見しただけでは弱気そうな容疑者と極右思想とは無縁にも見えるが、人間というものが一瞬にして豹変してしまうものだということもまた、ストウはこれまでのそれほど長くはない刑事生活の中で学んできた。
人の業は限りなく深い。
良くも悪くも人は見かけによらないものだ。
あんなに良い性格のお隣さんが実は殺人犯だった、なんてことは殺人課の刑事にとっては日常茶飯事だ。
人の薄暗い面にばかり直面させられる。
オウエン・ストウの仕事とはそういったものだった。
思考の淵に沈んでいたストウを現実に引き戻したのは、捜査本部のオフィスの扉が開く音だった。
時計を見れば、二時間ほど経過していてすでに夕方に近い時刻となっている。入ってきた顔に首をすくめたオウエンは、軽く肩を回してから「あぁ、先生か」とつぶやいた。
まだ、青年心理学者に対する不信感は拭えない。
彼は本当に捜査のために必要な情報を探り出してくれるのだろうか?
もしやロンドン警視庁は役立たずを押しつけてきたのかも知れない。そんなとりとめもない不審に捕らわれていたストウに、緑の瞳の心理学者は穏やかに笑った。
「どうかしたんですか、刑事さん」
やはり、とストウは彼の口ぶりに、最初に出逢った時に感じた違和感を再確認して眉をひそめる。
フェラーリに乗った男と対する時と、ストウに対する時とではメイスフィールドの口調もどこかぎこちないものがある。
ぎこちないと言うよりも不自然だ。
なにがどう不自然なのかと問われれば、それはまだストウにはうまく答えられなかったが、なにかが不自然だとオウエン・ストウは思った。もっとも、まだ知り合ったばかりだったから、人間関係が手探り同然であるのは当たり前だろうが、そういったものともまた違う。
このアルフォンス・メイスフィールドという男はなにかを隠している。ストウは直感的にそう思った。
「考え事だ」
「そうですか」
答えながら安物のパイプ椅子に腰を下ろした青年は少し伸びてきた金髪を額の前で指先に巻きながら、捜査ファイルに視線をおろす。
しばらくそんなメイスフィールドの横顔を見つめていたストウだったが、やがて壁際の椅子を引き寄せて腰かけると、おもむろに口を開いた。
「なぁ、先生」
「なんでしょう?」
まだ彼を頭から信頼したわけではない。
信頼するには情報が足りない。
素っ気なくストウに呼び掛けられて。メイスフィールドは金色の睫毛を揺らして瞳を上げる。
森の緑を思わせるグリーンアイズ。
考え事でもするかのように、ファイルを触れた指先が中空で踊った。仕草のひとつひとつにどこか、表現できない育ちの良さを感じて、ストウは言葉をさがす。
「先生は、やっこさんをどう思う?」
「ジョン・スプリング?」
どう思うか、というストウの率直な問いかけに、青年心理学者はじっと眉をひそめると考え込んだ。
「ナイフで、気が違ったみたいにめった差しにして、それから衣服を全てはぎ取って、次にきれいに被害者を洗浄してから局部を切り取って保存した。それからまた血の汚れをきれいに洗って、あの廃ビルの三階の奥の部屋に”置き去り”にした」
それが犯行の全てだ。
容疑者の供述を全て信用すればそういうことになる。
だが、本当に?
犯人が気が狂っている可能性は全くゼロなのだろうか?
まるで歌でもうたうようにそう言葉を綴った心理学者は、ややしてからしかめ面のままで写真に視線を落とした。
「これを……」
――この事件を、あなたは猟奇的だと思う?
逆に問いかけられる形になってオウエン・ストウは面食らって言葉に詰まった。
「少なくとも”普通じゃない”」
うなるようにストウが告げた。
「普通ねぇ……」
ともすればその柔らかい物言いに騙されそうになる。しかし、ストウは獲物を狙う野生の狩人のように警戒を解くことはない。
刑事としての第六感がなにかをストウに訴えていた。
メイスフィールドという青年の中には、底知れぬ激しさが秘められているような気がして、ストウはじっと目の前に座る上品な物腰の精神科医を観察した。
「”女性的だ”と思いませんか?」
不意にメイスフィールドがそう切り出した。
この犯行のどこが女性的だ、と彼は言うのだろう……!
不意打ちのような青年の言葉に、ストウは慌ただしく思考を巡らせた。
「すまないが言っている言葉の意味がわからない」
ナイフでめったざしにして、局部を切り取るような犯行のどこが女性的なのだろう。メイスフィールドの言わんとしていることがわからなくて、刑事の青年は視線をさまよわせた。
「……――だって、”わざわざ殺した後に、性器を切り取って保存したあげく遺体を病的な潔癖さで二回も洗ったんですよ?”」
「だから……、自分の痕跡を残したくない犯人なら当たり前の行動だろう」
「自首までしてきたのに?」
メイスフィールドは追及の手を緩めない。
そう言葉を返されて、ストウはハッとしてから顔を上げた。
瞠目する。
「ちょっと待ってくれ、先生」
「ふたりが同性愛関係にあったことは確かなんでしょう。でも、彼はあくまでも男であって女じゃない。女として、”彼”を愛していた訳じゃない。男として、男を愛した。だけれども、男の精神には女としての精神も奥深くに眠っているものです。歪んだ愛情の果てに、彼は自分を見失った」
容疑者、ジョン・スプリングは男として被害者を愛していたのだ、とメイスフィールドは言った。
「彼は血に汚れた被害者を、愛していたから汚れたままにはしておきたくなかったんです。彼を殺した後に、ジョン・スプリングは激しく後悔した。愛した男を、血まみれにして、傷だらけにして、命まで奪ってしまったこと。ふたりの間に、確かに愛は存在していたのかもしれない。まだ資料は途中までしか読んでいないけれど、被害者が浮気でもしたのかもしれません。それとも、被害者が女に目覚めたか。まぁ、両性愛者だって少なくはないから、被害者が両性愛者だったという可能性もある。いずれにしても恋に破れた男の中に存在する女の意識が、それを受け入れる事なんてできなかったということです」
「ちょ……、ちょっと待ってくれ。男の精神に女の精神が宿っているっておかしな話じゃないか」
突然、メイスフィールドの話が観念的なものになって、オウエン・ストウにはついていけない。
「おかしくなんてありませんよ。男性にはアニマが宿っていて、女性にはアニムスが宿っている。簡単に言うと、男性には女性的な側面があって、女性には男性的な側面があるということなのだけれど、男にだって女々しいところがあるじゃないですか。たとえばいつまでたってもママのおっぱいが忘れられないとか」
男性の女々しさ――。
ばっさりとメイスフィールドに切って捨てられて、ストウはわずかに不愉快な気分になった。
それは男ならば誰しも認めたくないものだ。
「……――つまり、この事件は彼の中にある女性性が暴走したとでも言うのか?」
「少なくとも、ジョン・スプリングは猟奇殺人者でもなければ快楽殺人者でもありません。だから当然連続殺人犯なんかじゃない。ジョン・スプリングは、被害者が”彼”だったからこそ犯行に及び、殺害した後に激しい後悔に襲われたんです。だから悩んだ末に、自首をしてきた」
黙々と資料を目で追いかけながら言葉を続ける心理学者の青年に、少しばかり年上の刑事は絶句した。
「明日、彼と話をしてみたいんですが、構いませんか?」
「……先生、本当に奴が殺したのはひとりだけなんだろうな」
信じてもいいのかとストウがメイスフィールドに詰め寄った。
「もちろん。ジョン・スプリングにとって意味があるのは、あの被害者だけですから」
彼は連続殺人犯などではない。
余罪を追及するだけ無駄だと、暗にメイスフィールドは告げた。