エルステッド伯爵邸
「ほあー、たかーい!」
強い風に吹かれて、髪を押さえながらリーノが言った。
「へえ! ここからならエルツの町が一望できるな。火の手が上がっても確かにすぐに発見できそうだ」
エルツの町の特徴である鐘楼は、町の住民だけでなく、町の施設として訪れた者たちが自由に登ることも出来るらしい。その話を食堂のおばさんから聞いたウィンたちは、昼食を終えて鐘楼の一つに登っていた。
鐘楼の中に入ると、螺旋状の階段が上に向かって伸びていた。
人一人がやっと通れる狭い階段をを登って行くと、頂上付近で扉へと行き着いた。
どうやら部屋があるらしい。
見張り番を勤める者が詰めている場所なのだろうか。その推測通り、扉を叩くと中から一人の老人が出てきて、ウィンたちが町の景観を見るために登ってきたと聞くと、人の良さそうなその老人は笑顔を浮かべて歓迎してくれた。
「お前さん方は、帝都から来なさったのかい?」
「はい、シムルグから。今朝、エルツに着いたばかりなんです」
「おお、おお、上から見えていたからのぉ。それは遠いところからよう来なさったわい」
老人は皺深い顔をクシャクシャにして、問い掛けに答えたレティシアに笑いかけた。
部屋の中には、小さな卓が一つと椅子が二脚。物を収納するための棚と箱。そして老人のものだろう寝台が一つある。
季節は夏を迎えたが、エルツはマジル山脈に近い位置にあるため標高が高く、昼でも建物の陰や室内にいると肌寒い。そのため壁際には小さな暖炉もあって、薪がくべられていた。
そのおかげか、四方の石壁に四角く切り取られた換気用の窓から冷たい風が吹き込んでも、部屋の中は暖かく保たれていて過ごしやすい。
寝台とは逆の壁際には、外に出られるように扉が作られている。
その扉からウィンたちは、外に出ると町の様子を見させてもらっていた。
鐘楼の外側に作られている町を眺望するための通路は、階段と同様に人が一人やっと通れる程度の狭さだった。ウィンの腰より少し高い位置に、転落防止用に石で壁が作られている。
「ああ~、俺は高いところはダメみたいだ。背筋がゾッとする。というか、ここは少し高すぎるよ。よく皆平気だな」
「皇宮には、ここより高い塔が幾つもありますよ?」
壁から下を覗き見て、半目となったロックがへっぴり腰になって、扉を開けて中へと戻って行くのを見てコーネリアが言う。
皇宮は山を削って作られた小高い丘の上に建築されている。
一番高い塔の部屋の窓から見た光景は、この鐘楼よりもまだ高い。
「皇宮は一生縁がない所だと思っていました」
「あら、私の従士に選抜されてしまった以上、私が高い所に登っても付いて来ていただきませんと」
コーネリアがいたずらっぽく笑って言うと、
「……できればそうした場所にはなるべく近づかないようにしてください」
肩を落としてロックはそう言って、コーネリアと共に鐘楼の部屋の中へと戻って行った。
リーノとウェッジはウィンとは反対側に回っていた。
帝都の方角の町並みを眺めているようで、ウィンのいる場所から二人の様子は伺えない。
「お兄ちゃんは何を見ているの?」
「マジル山脈だよ」
転落防止用の石壁の上に両手を組んで、ウィンは間近にまで迫って見えるマジルの山々を眺めていた。鐘楼から見るマジル山脈は、山の裾野に広がる森までしっかりと見える。素晴らしい眺望だった。
街の中から見上げるよりも、山の全貌が確認できて迫力が増していた。夏を迎えて平地の草木はより一層緑を濃くし、小動物や虫たちも活発に活動をしているというのに、マジルの山の中腹から山頂は未だ雪化粧が施されていた。
「凄いな。山頂が空に突き刺さっているようにみえる」
「うん」
「今日は特に天気が良いからのぉ。空の青にマジルの山々が綺麗に映えておるじゃろ」
ロックとコーネリアと入れ替わりに、鐘楼の部屋の中から出てきた老人が、ウィンの隣に立って言った。
「お前さん方は、運がええ。こんなにくっきりと見えるのは、年に数回も無い」
マジル山脈の山頂部が晴れ渡るのは、年間でも数えるほどしか無い。山の天候は変わりやすく、山頂部にはほとんど雲が掛かっていて、滅多にその全貌を見ることが出来ないらしい。
老人はそう言うと、肩を揺らして笑った。
「おじいさんは、ずっとこの鐘楼の上で暮らしているのですか?」
「年に数回程、息子夫婦の住んでいる家に帰るよ。それ以外は、大体ここにおるなぁ」
エルツの町にある鐘楼は、その全てに部屋があって、町の役人となった年寄りが住んでいると老人は語った。
食糧等は、係の役人が運んで来て、見張り役に着いた年寄りたちが昼夜町の中を見張り、火事を初めとした事件を見つけた際には、鐘楼の天辺に付けられた鐘を鳴らして、下の衛士へ知らせる決まりとなっていた。
各鐘楼で週毎に見張る時間も交替で決められていて、それぞれの時間に合わせて生活をしていた。
「本当にええ景色じゃろう? これが夜になるとな、今度は町の明かりが水路の川に反射して、また違った風情の景色になる。それからのマジルの麓に、岩肌が露出しておる所が、何ヶ所か見えるじゃろ?」
老人が指さした方、木々が生い茂っている麓で、その場所だけは岩肌が露出して茶色い土の色が見えている。
「ええ、あの場所だけ木が無くて何だろうと思っていたんです」
「あそこが鉱山の入口があるところじゃよ。あの岩肌が見えている所にポッカリと横穴、もしくは縦穴があってな。鉱山の中に入れるようになっておる。坑道の入り口じゃな。あの周囲には鉱夫共の町、鉱山街があって、夜になるとぼうっと光って見えるんじゃよ」
「へぇ、見てみたいですね」
「うむ、時間があれば見に来るがええ。深夜じゃなければ起きておるじゃろう」
「ええ、時間が取れるようでしたら、ぜひお伺いしたいと思います」
しばらく外を眺めた所で部屋の中へと戻ると、老人が身体が冷えたじゃろうと、お茶を淹れてくれた。
「狭い所ですまんのぉ。椅子でもあればよかったんじゃが……」
「いえ、十分ですよ。ありがとうございます」
椅子は老人とコーネリアが、寝台にレティシアとリーノが腰掛けて、男三人は床の上だ。
床は板張りの上に、熊の毛皮で作った大きな敷布が敷かれていて、床から伝わってくる冷気を遮断していた。
「上から眺めていて思いました。ここは本当に平和な町ですね」
温かいお茶の入った木椀を両手に持って、ゆらゆらと立ち昇る湯気を見つめてコーネリアが口を開く。
「儂らが交替で見張っておるからのぉ。鐘楼の上からなら、町の中だけでなくルームが増水したことも分かるからのぉ」
「夜の見張りは辛くありませんか?」
ウィンが尋ねると、老人は呵々と笑ってみせると、
「昼はともかく、夜の見張りなど楽なもんじゃよ。何せ、火が付けば夜空が煌々と照らされるからのぉ。ここからなら、部屋の中におっても気がつくわい。ここに暮らしているだけで給金が貰えるんじゃ。これで文句を言うたら罰が当たるわい」
「へぇ、お給金も貰えるんだ~。いいなあ~」
「まあ、お嬢ちゃんのような若い人には退屈な仕事じゃし、給金が貰えるとは言っても儂一人が食べるには十分な程度じゃよ。じゃが、数年前の流行病と食糧難の時に、儂らみたいな年寄りを口減らしに見捨てずに、それどころか仕事まで与えてくださった伯爵様には、感謝しておるよ」
◇◆◇◆◇
夕刻。
鐘楼で時間を潰したウィンたちは、エルステッド伯爵家へ赴いた。
伯爵家の屋敷は街の南側に存在し、ウィンたちが尋ねた町の北側の鐘楼からでもわかる大きさだった。
日の入りの時刻が迫って町の通路には、仕事を終えて帰路につく人々で溢れかえっていた。そんな中にあって、通路を陽気な雰囲気で歩いて行く武装した男たちは、ウィンたちと一緒にシムルグから来た者たちか。自由時間を与えられて、彼らは夜の酒場へと遊びに行くのだろう。
そんな彼らとすれ違って進んでいくと、少しずつ繁華街から少し大きめの家が建ち並ぶ閑静な住宅街へと、町並みが移り変わっていった。
エルツの町では、伯爵家の周囲に町の役所等を固めて建てているようだった。
伯爵家の門前には広場があって、向かって左手側には騎士団と兵士の兵舎、そして町の役所が、右手側にはアナスタシア教会が建てられていた。
「随分と立派な門構えだな、これは」
「ええ。私も多くの貴族のお屋敷に招かれましたが、これほど立派なお屋敷は数えるくらいしかありません」
鉄格子作りの門の奥には庭園と、その奥に大きな建物が見えた。
金持ちの屋敷を見慣れているコーネリアとロックが驚くほどに、エルステッド伯爵家の屋敷は大きかった。
門の前には警備をしている兵士たちが多数いて、屋敷を囲っている壁の周囲にも、巡回警備をしている兵士たちの姿があった。
レムルシル帝国の皇太子、アルフレッドが客人として招いているからこその警備体制なのか、それとも普段からこの警備体制なのか。
判断は付き難いが、伯爵家の敷地面積から考えても、相当数の兵士が警備を行っているだろう。
ウィンたちが近づくと、門前に立っていた兵士たちが殺気立った様子で視線を向けてきた。アルフレッドが滞在しているため、警備に付いている兵士たちはかなり神経質となっているようだった。
「そこの六名、それ以上近づくな。許可あるまで、一歩も動かないように!」
足を止めると二名の兵士が小走りに走り寄ってきた。
ウィンたちの不審な動きを僅かたりとも見逃さないよう、緊張した面持ちで視線を注いでいる。
コーネリアの身分を明かして説明しても良かったが、とりあえずウィン、ロック、リーノ、ウェッジが持つコーネリアの御印、桔梗の花の徽章を見せて身分証の代わりとした。
コーネリア皇女付親衛隊長であるロイズがつけている徽章も、ウィンたちと同じ桔梗の紋様が刻まれたものだ。
兵士は徽章を確認すると、丁寧な物腰となって六人を門へと案内する。
門の横の詰め所から一人の伯爵家付騎士が出てきた。
彼が警備担当責任者らしい。十騎長の徽章を付けている。
彼はコーネリアとレティシアの素性を知らされていたらしく、二人に対して先ず非礼を詫び、それからウィンたちにも謝罪をすると、すぐに鉄格子の門を開き、中へと迎え入れてくれたのである。
庭園の中、白玉砂利の道を進んでいくと、庭木に隠されていた屋敷の全容が見えてくる。
二階建てづくりの屋敷は、左右対称の形に作られているようだ。ただ、正面から見て右手側は、噂で聞いていたように改築中らしく、職人用の足場が組まれている。
屋敷の扉を開けると、エルステッド伯爵家に仕える侍女たちがウィンたちを出迎えた。
「コーネリア皇女殿下、メイヴィス公爵公女閣下。従士の皆様。ようこそお出で下さいました。殿下と閣下に、我が主君からの歓迎をぜひ受け取っていただきたいと仰せでございます。恐縮ではございますが、私めが晩餐の席までご案内させていただきます」
侍女長なのだろう、最も年長と思われる侍女が一人進み出ると先に立って歩き、それ以外の侍女は廊下の端へと控えた。
「ねえねえ、若い女の子ばかりだよ? たいちょー、ほんとに女の子を囲っているのかな?」
「さあ? まだそうとは限らないだろう? 仮にも伯爵家なんだ。女性の使用人がいること自体はおかしいことじゃない」
案内をしてくれている侍女長も、まだ三十に届いていない年齢だ。ロックとリーノが、廊下の端で並んで頭を下げる侍女には聞こえないよう、小声でやりとりを交わしている。
二人がそう思えるくらい、エルステッド伯爵家に仕えている使用人は若い女性が多かった。客たちの先頭を歩く二人の女性が、帝国の皇女コーネリアと勇者レティシアだと知らされているのか、彼女たちは一様に緊張した表情を浮かべていた。
(こっちまで息苦しさを感じてしまうな……)
そう思うウィンだったが立場を逆にしてみれば、自分もきっと同じような態度になるだろうと思い、彼女たちには同情の念を覚える。
「皇女殿下、公爵令嬢閣下。こちらの部屋が晩餐の会場となります」
侍女たちが通した部屋は、伯爵家が客の饗しのために使う部屋なのだろう。
部屋の扉を入って見える正面の壁には、レムルシル帝国の国旗と伯爵家の紋章旗が張り付けてある。
二十人が軽く着席出来るだけの長い卓と、それに見合っただけの数の椅子が置かれ、卓の上には季節の花が活けられていた。
部屋の中ではアルフレッドと、ロイズ、それからケルヴィン、そして八名の女性が待っていた。
「ようこそお出で下さいました。皇女殿下、公爵令嬢閣下。本来、当主であるこの私がお迎えに上がらねばならない所、家中の者に案内させたことをお詫び申し上げます」
そう言ってロイズが頭を下げてみせた。
「お飲物は何を召し上がられる?」
一同に着席を促した後、ロイズは侍女たちに飲み物を運ばせる。
それぞれの手に飲み物の注がれた銀杯が渡ったことを確認すると乾杯し、エルステッド伯爵家主催の晩餐会が開かれたのである。
「話には聞いていたけど、君は本当に恋多き男だねぇ……」
「いえ、別にそのつもりはなかったのですが。結果的にはこういうことになってしまいまして……」
晩餐会が終わると和やかな空気の中で歓談へと移っていた。
アルフレッドが早速話題にしているのは、晩餐会に同席している八名の女性の事である。彼女たちの歳頃はみな若く、十代後半から二十代といったところ。八名全員がロイズの妻たちと紹介されて、ウィンたちは驚いた。
すでに彼女たちは全員、この部屋から下がっていたため、部屋にいるのはアルフレッド、コーネリア、レティシア、ロイズ、ケルヴィン、そしてウィンたち従士の四人である。
ロイズが八名もの妻たちを娶ることになった経緯は、エルツを含めたこの地方一帯を襲った作物の不作と、流行病に関係があった。
当時、対魔大陸同盟軍で千騎長としてザウナス将軍の幕僚を勤めていたロイズは、エルステッド伯爵家当主だった父が流行病に倒れて急逝したと報せが届き、急ぎ所領へと戻ることになった。
所領へと戻ったロイズは、エルステッド伯爵家を継ぐと代々の家宝、家屋敷全ての財産を処分して、食糧と薬を買い込み飢えと病苦に喘ぐ領民に放出した。
治安も悪化していた。
人心の荒廃は飢えと病苦だけではなく、魔物の被害を恐れて大陸北部と東部から疎開してきた難民たちもまた原因であった。
エルツの町にいた住民は飢えと病苦から解放されれば、仕事を再開し生計を立て直すことが出来たが、疎開してきた人々には仕事の当てがあるはずもない。
そこでロイズは悪化した治安の回復も兼ねて、仕事を失った男たちを町の衛士として雇い、年寄りには鐘楼に登って町を見張る仕事を与えた。
当座の生活費のために、娘や子どもを人買いに売ろうとした者には、伯爵家で身請けすると布告を発令した。
つまり、伯爵家に仕えている侍女の多くが、人買いに売られようとしていた娘たちなのである。
やがて、伯爵領の領民たちの生活は持ち直し、多くの者が元の生活に戻るか新しい生活を始めたが、帰る所のない者たちはそのまま伯爵家で働き、中にはロイズに好意を抱き結ばれた者たちもいたのである。
「なるほど。君の近辺に流れていた噂の要因がようやくわかったよ。売られそうになっていた娘を大量に身請けしていた話が歪められて、近隣の町や村から若い娘を囲い込んでいるという話になったんだな」
「正直申し上げまして、我が伯爵家の財政は火の車ですから。そのような事をして遊んでいる余裕はございません」
「その割には、随分と大きな邸宅じゃないか?」
「この家屋敷は一度手放したものを、町の者たちが取り戻してくれたものです。屋敷を売った際、町に小さな家を借りて住んでいたのですが、領主を小さな家に住まわせていては領民の肩身が狭くなるそうです。余計な経費も掛からず、私はそこでも良かったんですがね……」
「なるほど。だが民たちの気持ちもわかるかもしれないな。領主が自分たちの生活よりも質素な暮らしをしていては、領民たちも贅沢をしづらくなるだろう」
「町の者たちは改築までしてくれています。この屋敷は我が伯爵家にとって、家宝となるでしょうな」
照れくさそうに、ロイズは大きな身体を揺すらせるように笑った。
「さて殿下、我が家のことは置きまして、そろそろこれからのことを話しましょうか」
それから真面目な顔に戻ると、ロイズが話を切り出した。
先ほどまでの和やかな部屋の空気が一変し、張り詰めた緊張感に包まれた。
ロイズは席を立って歩いてきたケルヴィンに書類を渡すと、目頭を揉んでいる。その横に立ったまま、ケルヴィンは上座に座るアルフレッドを見て、報告を始めた。
「我々を襲撃してきた者の背後にいる敵はクライフドルフ侯、それとノイマン皇子殿下、レティシア様の姉君であるメイヴィス公爵家のステイシア嬢でございます」
「うん。ステイシア嬢に関しては、襲撃に関与した侍女を直接レティシア様に付けた時点で、無関係とは考えられないからな」
アルフレッドが頷いて、レティシアを見た。
ウィンはレティシアの反応が気になって、彼女をちらりと見た。幼少の頃より疎遠だったとはいえ、同じ血を引く姉が妹に明確な危害を加えようとしていたのだ。姉との間にある亀裂がレティシアにはどうしようもなく深く、それを思い知らされた彼女の辛い気持ちは如何程であろうか。
レティシアは口を引き結んで表情を変えず、話しているケルヴィンに目を向けている。ただ、彼女は隣に座っているウィンの手に自分の手を重ねてきた。
コーネリアが痛ましげな視線でレティシアを見る。
「狙いはレティシア殿の暗殺か?」
「いえ、少し違いますね」
アルフレッドの問いにケルヴィンはリーノを見て、彼女に発言を促す。
リーノはわざわざその場に立ち上がると、アルフレッドに向き直って口を開いた。
「あたしの見立てでは、眠り薬とか幻惑薬の類じゃないかなと思います。朝食と昼食には何も混入されていませんでしたが、夕食の時に出される幾つかの食べ物に仕込まれていました」
「レティシア様を正面戦力で打ち破ることはまず不可能だ。だが、敵に回したとしても、その力を失ってしまうには惜しい。だからこその生け捕り。眠らせて意識を奪った後で、言いなりにしてしまう薬を使う方法は、古典的だが実に有用な方法だ」
「はい、あたしにもそうした用法に使う薬に関して、幾つか心当たりがあります」
ロイズの言葉にリーノは神妙な表情で頷く。
「だが、あらかじめ薬に詳しいリーノ従士がレティシア殿と入れ替わっていたおかげで、敵の目論見は外されたわけだ。ふむ……騎士でありながら、合わせて薬師としての才能も持つ、か。お手柄だな、リーノ従士」
「はぅ……はっ、いえ……光栄であるます!」
アルフレッドが称賛の眼差しを送られて、リーノは目を見開くと、顔を赤くしてしどろもどろになって縮こまってしまった。
アルフレッドが言う通り、リーノが食事に含まれた薬を見破ったからこそ、敵は方針を変更して、ステイシアの侍女二名の手引の元、夜襲を仕掛けざるを得なかったのだ。
「ロイズ隊長――エルステッド伯爵の領内で皇太子殿下の身に危害を加え奉れば、領主である隊長の責任が追求されるということでしょうか?」
発言を終えてようやく席に座ったリーノに代わり、身を乗り出して言ったウィンに、ロイズは顎を撫でて言った。
「そのとおりだ。私の失脚に付け加えて、勇者メイヴィスが同行していたにも関わらず、皇太子殿下が弑逆されたとなれば、それを防ぐことが出来なかったレティシア様の失脚も、狙うには良い口実となるだろう」
「では、その夜襲を完全に防いだので、後はこの件を企てた奴らを告発してやれば良いわけですね!」
しかしそう勢い込んで言ったロックだが、アルフレッドは逆に愉快そうに笑みを浮かべて口を開いた。
「ロック従士の言うように、話がそう簡単に進んでくれたら良かったんだけどね。だけど、そういうわけにもいかないらしいよ」
◇◆◇◆◇
帝国の第二皇子ノイマンと、メイヴィス公爵家第一公女ステイシアの婚約披露宴は、リヨン王国親善訪問団が出立してから丁度三週間後に催された。
皇族と帝国でも屈指の貴族、その二つの家が結ばれる。
ノイマンの母方の家であるガウナヘルツ伯爵家もまた、クライフドルフの門閥で大きな権勢を誇る家。派閥の勢いを証明するかのように、大勢の貴族たちが披露宴に訪れた。
婚約披露宴が行われたのは、メイヴィス公爵領の領都メールにある、公爵家の居城の大ホールだった。
国内外の珍味、高級料理がふんだんに盛られた卓が幾つも並び、集まった貴族の間を従僕や侍女たちが飲み物を持って回っている。
その様子を壁際に立って、ジェイドは眺めていた。ジェイドはクライフドルフ領に戻っていたのだが、メイヴィス公爵家の招待を受けてメイヴィス公領へと赴いたのである。
保守派であるメイヴィス公爵家と、軍閥のクライフドルフ侯爵家の結びつきは、平民を積極的に登用する皇太子アルフレッドに対抗するためではないかとの噂が立っていた。
この披露宴を、アルフレッドが帝都を留守にしている間に催されたことも、噂に信ぴょう性を持たせている。
披露宴へと参列した貴族たちは、その盛大さと、訪れている多くの有力貴族の顔を見て、興奮した面持ちで囁き合っていた。
今日の主賓であるノイマンとステイシアの二人は、大ホールの中央付近で祝辞を述べる貴族たちに囲まれている。
そのすぐ脇にはメイヴィス公レクトールとその夫人、そしてジェイドの父であるクライフドルフ侯ウェルトとガウナヘルツ伯爵夫妻が立っていた。
主賓の二人に挨拶を終えた貴族たちは次にレクトール、ウェルトへと挨拶をし、それからガウナヘルツ伯に挨拶をする。
レクトールはともかく、ウェルトが挨拶を先に受け取るのは変に映るかもしれない。だが、皇子の母方の生家であるガウナヘルツ伯家よりも先に、その親族でしかないウェルトが先に挨拶を受け取る事こそが、派閥の中での力関係を示していた。
招いた貴族の人数はそのまま派閥の力だ。この披露宴の規模を見れば、どちらの閥に所属する事もなく、日和見を決め込んでいる貴族たちも、雪崩を打つようにしてジェイドたちの派閥に加わることになるだろう。
そう、ジェイドが待ち続けている一報が届けばすぐにでも――。
その一方は宴もたけなわとなる頃に届けられた。
宴に参列している貴族たちの下へ、外で宴が終わるのを待っていた従者たちが駆け寄っていく姿が方々で見られた。
(来たか……)
「ジェイド様」
「クラウスか」
燕尾服に身を包んだジェイドの従者、クラウスが耳打ちをする。
「皇太子殿下の御料馬車が、エルステッド領に入った所で、手はず通りに夜襲を。ですが、アルフレッドの殺害と勇者の拘束は失敗に終わったようです」
「そうか」
「そのため、第二の策を進行させてございます」
それはアルフレッドが例え生きていたとしても、生死不明であると各方面に通達すること。
努めて冷静な態度を取りつつ、ジェイドは会場を一瞥する。
皇太子の生死不明。
連絡を受けた貴族たちが青ざめた表情で近くにいるものと囁き始める。
小さな囁きが波のようになって、ホールの中はざわめきでいっぱいとなった。
事が事だけに、誰もが大きな声で発言をすることが出来ない。貴族たちは互いの出方を窺うように、自らの親族、従者とのみやりとりを交わしている。
万が一誤報の類であれば、噂と言えど皇太子の生死不明という流言飛語を口にしたとなれば、不敬罪となりかねない。
うろたえている貴族たち――冷静に落ち着いているようにみえるのは、ジェイドも含めウェルトとステイシア、そして――。
「うろたえるな!」
野太いノイマンの声がホール中に響いた。
「まだ兄上が生死不明という情報が確かなものなのかは定かではない! それで、賊による襲撃を受けたと聞いたが、それは何者の手によるものなのか?」
「い、いえ……まだそこまではなんとも」
ノイマンに問いかけられた貴族が小さな声で答える。
「まずは情報を集めよ! 帝都におられる父上とコーネリアの体調が優れない以上、この件に関しては私が指揮を取る。クライフドルフ卿!」
「は!」
「すぐに卿の中央騎士団を帝都各所に配備! 情報の真偽について情報収集させよ! そしてすぐに現場に騎士を派遣! 偶発的な事故か、考えたくもないがあるいは外国の手の者による暗殺も考えられる! それから現場の領主であるエルステッド伯爵家にも召喚状をしたためよ! エルステッド伯の所領内で起きた事だ! エルステッド伯爵の責任は追求せざるをえないだろう! 要求に応えない場合は、兄上の暗殺について第一の嫌疑が掛かると思え! 良いか、各自最悪の事態に備え、最大限の警戒に当たれ!」
「拝命いたしました」
ウェルトはすぐに踵を返すと、ホールの外へと出て行く。
「陛下には私から報告する!」
ノイマンはそう言って馬車を表に回すよう指示を下すと、小太りな体型に合わない颯爽とした足取りで、ウェルトに続いてホールの外へと出て行った。
後には予想外の事態に呆然としていた貴族たちが取り残された。
誰もがノイマンの見せたキビキビとした態度に驚いていた。
「あれが、アルフレッド様に較べて凡庸だと言われていたノイマン様なのか?」
「不測の事態に陥って、初めて能力を発揮されるお方なのかもしれない」
あちこちからそう言った話が聞こえてくる。
「アルフレッド殿下がお亡くなりになられた場合、次の皇帝は第二皇位継承者のコーネリア様となるのか?」
「いやいや、ノイマン様とステイシア様の披露宴の規模を見ろ。皇族とメイヴィス公が後ろ盾となるんだぞ? これはノイマン様が至尊の座に就かれるやも知れぬ」
「ガウナヘルツ伯爵家の本筋はクライフドルフ侯だ。三軍のうち、近衛、中央の両騎士団と、最近では宮廷魔導師団の中でも力を増していると聞く。対してコーネリア様の母方、ラウ公爵家は子飼いだったザウナスらの失敗で風向きが悪い。これはひょっとするかもしれん」
「どうやら我々も、態度を決めねばならないようですな」
「勝ち馬を逃すわけには参りませぬ」
笑いが止まらない。
ジェイドは内心では嘲笑しつつ、表面上は深刻さを取り繕いながら、悠々とした足取りで大ホールを後にした。
すでに手はず通り、ウェルトの私兵化した中央騎士団たちが、帝都の重要箇所に配備されているだろう。
クライフドルフ領からも私設騎士団が進発し、ペテルシアもまた軍事行動の用意を始めたはずだ。
ペテルシアの名目は、隣国レムルシル帝国の皇太子を弑逆したエルステッド伯爵家は、先の遭遇戦を偶発的にではなく故意に導いた疑いがある。隣国皇太子殿下の弔いも兼ねて、帝国騎士団の長にして有力貴族であるクライフドルフ侯の下で、懲罰のために参戦する、というものになるだろう。
後は一刻も早く皇帝とコーネリアの身柄を抑えなければならない。
「我々も帝都に向かうぞ」
迎えの馬車に乗ったジェイドは、大きく息を吐いた。
夜襲では皇太子を始末は出来なかったが、例え生きていたとしても替え玉であると主張すれば良いだけである。
社交界に流れたエルステッド伯爵家の悪い噂が、その主張を後押ししてくれる。悪徳貴族であるエルステッド伯が、所領内での皇太子暗殺の件から責任を逃れるために悪あがきをしていると。
子飼いの新聞社等も使って、そうした噂を流して真実にしてしまうのだ。
◇◆◇◆◇
「もっとも、父上は現在、帝都を離れて別邸におられるはずだ。それにクライフドルフ侯が押さえておきたかったコーネリアは、こうしてここに無事でいるのだけどね」
今頃、空の部屋に踏み込んで焦っているだろうな、とアルフレッドはクククッと小さく笑う。
「それにしても、兄上。遠く離れた帝都の様子が、良くお分かりになりますね」
「僕くらいになれば、帝国内で起きている事柄を見通すくらい、訳ないんだよ」
「まさか……」
「なんてね」
アルフレッドはコーネリアに笑ってみせると、懐から水晶の欠片を取り出して見せた。
「答えはこれさ」
通信用の魔導水晶。魔法を付与した後に水晶を二つに割ったもので、それぞれの欠片を持つ物同士で会話をすることが出来る、貴重な魔道具だった。
これを使って帝都に潜ませている部下とやりとりを交わしていたらしい。
「さて、恐らくはクライフドルフ侯に踊らされているとはいえ、我が不肖の弟はは、どうやら勝負に出たようだ。ノイマンはロイズに召喚状を出すつもりのようだが、こちらに応じるつもりはない。何しろ私は死んではいないのだからな。まあ、私が生きていることを伝えようが偽物に仕立て上げる気でいるようだけどね」
アルフレッドは目を細めて、口元を笑みの形に歪めた。
「いずれ、エルステッド領へ軍が派遣されるだろう。中央騎士団を掌握しているクライフドルフ侯が命令を下せば、街道も封鎖されてしまう。そこで、エルツが完全に包囲されてしまう前に、君たちにはここから脱出してもらいたい」
アルフレッドはそう言うと、コーネリアから順番に卓に座っている面々の顔を見回し、最後に再び自分と同じ血を引く妹へと目を向けた。
「前にもいったように、コーネリア。君とレティシア殿にはリヨン王国へ向かってもらう。このエルツからマジルの坑道を抜けてリヨンの国境にね」
次回からはウィンの視点でリヨンへの旅路を描写する予定。