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エルツ

 街道は、右手側にルーム川、左手側に巨木から背の低い灌木、鬱蒼と茂った蔓草が生い茂る森が続いていたのだが、やがて木々の間隔がまばらになると、ぽっかりと空間が開けて丘陵地帯が広がった。

 夜明けを迎えて緑が映える草原で、所々遠くに見える白い点々は、朝早くから羊や山羊を追う牧童だろう。

 草原が広がる丘の向こう側には、空にまで届こうかという高峰が連なっている。快晴だったおかげで、夏でも溶けない白い雪に覆われた山頂が、とても美しく、くっきりと見えた。

 マジル山脈だ。

 

「まるで壁のようだな」

 

 雄大な景観に感動して思わず呟いたウィンだが、マジル山脈の麓まではまだ二日も日数が掛かると聞いて驚いた。それだけの距離があるにも関わらず、マジル山脈は目の前に迫ってくるような迫力があった。


「エルツも見えてきたぞ」


 山に見とれているウィンに、隣を歩くロックが指差す。

 先程、羊たちが群れていた丘の陰から、確かに幾つかの塔のような高い建物の先端部が見え始めていた。

 エルツへと近づくにつれて大型の川船が停泊しているのも見える。

 マジル山脈麓の鉱山街から運ばれた鉄は、船でこの町に運び込まれると、様々な用途の道具――特に武具に加工されて、再び船を使って運ばれていく。

 鍛冶に必要とする豊富なルーム川の水量と、燃料源として町の周囲を取り囲む広大な森林が、エルツの町を発展させてきたのだ。

 丘の麓をぐるりと回る街道を進むと、やがてエルツの町の外壁と門も見えてきた。

 門の上には、帝国旗が朝の風を受けて翻り、全開にまで開かれた門前には、エルステッド家に仕える騎士たちが並び一行を出迎えた。



◇◆◇◆◇



 歓待に出迎えたエルステッド伯爵家の者たちに連れられて、一行は町の中心部へと進んでいく。

 ウィンたちは雑役夫の中に混じっていたため、先頭の仔細がどのようになっているのかわからなかったが、どうやらアルフレッドと文官を初めとした官吏、そして近衛騎士と宮廷騎士団の高級武官といった面々以外は、町に幾つかある広場にて天幕を張ることになるようだった。

 町の係官が兵士、雑役夫の代表者を集めるとそう布告した。

  

「やれやれ。せっかくの町だっていうのに、柔らかい寝台じゃなくて野宿か」


「仕方ないだろう。結構な大人数だし、宿は騎士様から優先されるに決まってる。ただ、飯と水にだけは困らなくて済みそうなのが救いだな」


 長い旅路を経て、ようやく大きな町に辿り着いたというのに、旅の間と同様に天幕での野営と聞いて不満の声も聞こえたが、その後の通達で、見張り等当番の者以外は町での飲酒、飲食の許可が下りたため、歓声が上がった。

 

「意外だな」


 その通達を聞いてロックが首を傾げていた。


「幾ら皇太子殿下のお付きの一行だといっても、雑役夫や兵士は町の外の人間で、そんな連中が大挙して押し寄せたら、町としては普通歓迎できないものなんだけどな」

 

 騎士はともかく、帝国に仕えている兵士たち、雑役夫たちが品行方正な者とは限らない。結局彼らは武器を持った他所者なのだ。町の住民たちは、彼らを恐れて、息を潜めているばかりだと思っていたのだが、意外なことに、町の住民たちは彼らの事を歓迎しているようだった

 町の係官が天幕等の設営場所、井戸、食糧及び物資の調達場所等を伝えてその場を去ると、大勢の町の人々が広場にやって来て早速客引きを始めたのである。

 酒場、食堂、そして鉄を扱うエルツの町らしく、様々な武具などの店主たちが、我先に商機と見て押し寄せてきた。


「さすが隊長が治めている町といったところかな?」


「帝都で聞いていた噂とはまるで違いますね」


 コーネリアがウィンの隣にやってくると、そう言った。

 帝都でコーネリアの聞いていたエルステッド伯爵領の噂は、聞くに耐えない酷いものであった。

 民たちは伯爵家の屋敷改築に伴って課せられた重税に苦しんでいるという。

 その額は、帝国の法で定められている税金の額をはるかに上回っていると聞く。税を払えない家は、男であれば労役を課せられ、若い娘がいれば、税の代わりに娘を伯爵家に召し上げられていると聞いた。 

 召し上げられた娘の多くが、エルステッド伯爵の妾とされているらしい。

 そのエルステッド伯爵こそ、コーネリアの親衛隊従士長となったロイズ・ヴァン・エルステッドだ。

 

「え~? たいちょーってば、そんな酷いことをしていたの~?」


 若い娘を妾にしていると聞いた、リーノが自分の身体を抱きしめると、顔に嫌悪の表情を浮かべる。


「そういえば、ふくちょーもたいちょーには奥様方が大勢いるって言ってたね~」


「ああ、言ってた。その奥様方というのが、借金の方として召し上げたという女性たちなのかな?」


「あの顔と身体つきだからな~。……隊長、お嫁さんが来なくて、借金の方に女の子たちを囲ったとか~?」


「ありそうだ」


 本人がいないのをいいことに、ロックとリーノは言いたい放題だ。


「お兄ちゃん!」


 コーネリア、ウェッジの二人と共に、ロックとリーノの話を聞いていたところへ、レティシアがやって来た。


「レティ、隊長の家に行ったんじゃなかったの?」


「抜け出して来ちゃった」


 リーノと入れ替わる必要がなくなったレティシアは、アルフレッドと共にロイズの屋敷へと招待されていたはずなのだが、アルフレッド殿下たちに断って抜け出してきたらしい。

 主賓ともいうべき人物が、訪れた地方の領主の歓待を断って抜け出すなど、領主の面目を潰す行為なのだが、ロイズは許してくれたらしい。


「ちゃんと晩餐会には参加するつもりだけどね。あの襲撃事件の事に関して、アルフレッド殿下とロイズさんとで会議を行いたいから、お昼は参席しなくてもいいみたい」


「そっか。じゃあ、俺たちと一緒にいよう」


 ケルヴィンは捕虜とした襲撃者を連れて、エルステッド伯爵家の騎士詰め所に行った。そこで尋問の続きが行われるのだろう。捕虜たちから情報を聞き出した上で、アルフレッドとロイズは何らかの対策を講じるようだった。


「うん。あ、それとロイズさんから伝言」


 レティシアはそう言うと、コーネリアに夕刻くらいに屋敷へと来て欲しいというロイズからの招待を伝えた。


「わかりました。それではエルツの町を見て回りましょうか。私たちがこの場所にいてもお邪魔になるだけですし」


 広場ではすでに大勢の兵士、雑役夫たちが天幕の設営を急ピッチで行っていた。彼らは、ここでの作業を早く終えて、町へと繰り出したいのである。

 そんな彼らの邪魔にならないよう、ウィンたちは広場を抜けだした。

 コーネリアを中心にして、前を歩くのがウィンとレティシア。左右をロックとリーノが。後背をウェッジが歩く。


「町の連中から歓迎の意思は伝わってきたけど、やっぱりそれなりの警備体制はされているようだな」


 ロックが一同にだけ聞こえるような声で言った。

 町角の至る場所に、エルステッド伯爵家に仕える騎士、兵士が立っていた。歩いていると、巡回している町の衛士隊と頻繁にすれ違う。

 違う土地の者同士、何が原因で喧嘩等が発生するかわからない。

 今はまだ、広場で作業を行っているため、町の中で争いの声が聞こえないが、天幕設営の作業が終わって、彼らが町の繁華街へと繰り出せば、少なくない諍いが起こる可能性を考えているのだろう。


「この町の人たち、騎士や衛士隊に対して悪い感情を抱いてないみたいね」


 レティシアがその様子を眺めながらポツリと言った。


「悪い感情?」


「うん。ほら、エルステッド伯領って悪い噂が流れていたでしょう?」


「ああ、さっきもその話をロックとリーノがしていたところだよ」


「住民に重税が課せられている町に行くと、大抵は領主の騎士や兵士の人たちに、恐怖や怒りといった住民の悪い感情が向けられているから」


「ああ、そっか」


 レティシアの説明にウィンも頷いた。

 領主が強権を発動している場合、騎士や兵士は体制側として住民から税を徴収し、強制労働などで酷吏として加担することになる。

 悪政が行われているならば、町の人々の視線は、怯えや怒りの混じったものとなるはずだ。


「確かに、そんな様子は見られませんね。こうも警戒態勢が取られているなら、もっと町全体が物々しい雰囲気に包まれそうなものなのに、この町の人たちは日常通りの姿でいる……」


 コーネリアが感心したように頷いた。


「物々しいといえば、さっきから気になってたんだけど。あの鐘楼は見張り塔だったんだな。上に人影が見える」


 ウィンが近くに見える鐘楼の上を指さした。

 エルツの町が他の町で見られない特徴として、この幾つも建てられている鐘楼があった。

 町の技術力と富を誇示しているのか、鐘楼は全て石造りのようだ。

 町へと入る前、丘陵の陰から真っ先に見えていた建物がこの鐘楼群である。

 高さは建物の高さに直せば十階くらいあるのではないだろうか。そこに人影が立って町を見下ろしていた。



◇◆◇◆◇



「ああ、あの鐘楼はねぇ。火事をいち早く発見するためのものなのさ!」


 昼の刻を回った頃、休憩も兼ねて適当な食堂へと入ったウィンたちは、食堂のおばさんに鐘楼について尋ねると、そう教えてもらった。

 幾つも建てられているその鐘楼には、普段は兵士ではなくて役人が詰めているらしい。エルツは火を扱う鍛冶工房が多いため、火事の早期発見のためにこうした鐘楼がいくつも建てられたのである。

 帝都と比べて、多くの建物の高さが高くても二階から三階までにされているのも、鐘楼からの見晴らしを妨げないためのものだった。


「同じ帝国なのに、所変われば町の作り方とかも変わるもんだね」


 ウィンは卓の真ん中の大皿に盛られた巨大な魚の肉を、自分の取り皿へと切り分けながら言った。

 全長が1メートル強もあるこの巨大な魚は、ルーム川の源流となるミンガル湖で取れる魚らしい。マジル山脈の中腹から船で送られてきたのだ。

 腹わたを取り出した後、葡萄酒とバター、香草と香辛料で味付けした後、パイで包み込み、窯で焼いたこの魚の料理がエルツの名物料理の一つらしい。

 ホロホロと口の中でほぐれる魚の肉は、葡萄酒にとても良く合いそうだ。

 

「鐘楼も凄いなって思ったけど~、それよりもあたしは町が思ってたよりも綺麗だったことに驚いたよ~」

 

「確かにな。もっと、体格の良いおっさんがウロウロしている印象を抱いていたよ」


「そりゃあ、あれだ。この町はあくまで鉄を加工する工房が主だからだろ。リーノやウィンが想像している町は、マジル山脈の麓にある鉱山街に行かねーと見られないぜ?」


 口に豚肉の腸詰めを頬張りながら、ロックが教えてくれた。

 

「町の中に張り巡らされている水路沿いに、水車がある石造りの建物が幾つもあっただろう? あれが工房さ。このエルツで鍛えられた武具は魔物との戦いでも大活躍してたんだ。俺の実家でも、このエルツで作られた武具を取り扱っている。武具を買い付けた商人は、川に浮かんでいる船でクレナド、更にその先の帝都へ、そして海へと出て外国へと売るんだ」


「へぇ」


 ウィンは頷いて見せたものの、話の規模の大きさにいまいち想像が働かず曖昧な返事となってしまった。

 目の前に迫ってくるかのような雄大なマジル山脈の麓から、削り取られた鉱石から、鉄が精錬されて、エルツで加工。そしてそれらの品がルーム川を下って、帝都、果ては見知らぬ異国へと運ばれていく。

 生まれてこの方、帝都からほとんど出ることがなく、この旅が現在進行形で最長距離の旅路となっているウィンが、すぐには理解できなかったのも無理はない。


「ウィンの腰にある騎士剣。それもここエルツで作られた物かもしれないな」


 ロックが付け足すようにそう言って、ウィンの腰元にある剣を指し示した時、ウィンの顔が少し明るくなったのは、仕方がない話なのかもしれない。人は自分が理解できない話を聞いても反応のしようがないし、逆に自分でも理解できる話であれば、良い反応を示すのは当然の事だ。

 ロックの言葉にしっかりと頷いてみせた。


「それにしても、帝都で聞いていたエルステッド伯爵家にまつわる悪い噂は、やはり嘘だったようですね」


 ルーム川で採れるという、これも名物であるエビを油で揚げて塩をまぶしたものを食べていたコーネリアが、食堂の中を見回していった。

 食堂内にいる者たちの表情も、噂で聞いていた搾取されている民たちとは、かけ離れたものであった。

 客層の多くは町で商いをしている商人と、工房の職人たちなのだろう。彼らはパンとスープの他に肉か魚の一品、それと麦酒を頼み、急いで腹ごしらえを済ませると慌ただしく仕事へと戻っていく。

 のんびりと食事を摂っているのは、ウィンたちが囲んでいる卓と、奥のほうで商談をしているらしい二人組の商人ぐらいのものだった。

 商人も職人も、慌ただしさこそ漂わせているが表情は暗いものではなく、仕事に対する情熱と誇りを感じさせるものだ。

 とても暗い印象を覚えない。


「でもなあ、隊長の家。エルステッド伯爵家は俺の実家、マリーン商会に多額の借金をしていることだけは間違いないんだぜ?」


「そうなのか?」


「ああ。隊長と皇宮で初めて会った時に、俺が親父に直接聞いた話だから間違いない」


 ロックの実家、マリーン商会は帝国でも有数の規模を誇る大商会。外国にも多くの支店を持つ。会長のロックの父親は、その莫大な資本を持つ財界の大物だ。

 並の貴族では会うことも出来ないと言われるほどの力を持っている。その人物が言うのであれば、確かにエルステッド伯爵家には莫大な借金があるのだろう。


「返済が滞っているといった事情は無いようだから、実際に結構な税金が課せられているとは思う」


 そう言うと、ロックは口の中にパンを放り込んだ。


「そもそもその噂って、貴族や上流階級の間に流れている噂なんだよね? 『渡り鳥の宿木』亭で働いていた時、エルツのそんな酷い噂は聞いたことがなかったよ」


「そういえば、あたしたちも聞いたこと無いよね~?」


 リーノがウェッジに尋ねると、無言で魚の肉をフォークで口に運んでいたウェッジが手を止めて首を横に振った。


「まあ、シムルグに住む人々からしたら、エルツなんて遙か遠方の縁の無い街だからじゃないか? せいぜいが鍋釜、包丁の産地として聞いたことがあるくらいで、実際にエルツって町がどんな景観をした町で、人々がどんな暮らししているかなんて、普通は興味ないだろう?」


 言われてみればそうかもしれないとウィンは思った。

 鍋釜、そして刃物など、ランデルのような料理人でもなれば、その包丁の品質、産地、工房などにもこだわりを覚えるのかもしれないが、普通の平民は気にしないものである。

 武具にしたって、その品質の良し悪しが生死を分かつ傭兵、冒険者でもあればともかく、騎士となったウィンは、基本的に武具は官給品で済ませていたため、産地等にこだわったことはない。

 いずれ金を貯めて自分だけの一品物の剣を買い求めたいとも思っていたが、その時でも産地などにこだわらず、自分で見て感を頼りに剣を購入するだろうと思う。

 しかし、ウィンと違いリーノはロックの説明だけでは納得できなかったらしい。リーノは、ウェッジと一瞬顔を見合わせると、口の中の食べ物を飲み込んでから口を開いた。


「う~ん、でもね~? エルツに住んでいる人たちに重税が課せられているとか~、女の子たちがたいちょーの妾にされているとかいった話があれば~、あたしの耳にも入ると思うんだよね~」


「そうか。リーノの実家も薬師だからか」


「そう~」


 マジル山脈で採れるものは、何も鉄鉱石などの鉱物資源だけではない。魔物や危険な幻獣種が跋扈するマジル山脈の奥地へと分け入り、貴重な薬の原材料となる草や木の実、木の根等を求めて冒険者が挑戦する有名な場所でもあった。

 更に冒険者たちの目的は、そうした薬の原材料だけでもない。

 マジル山脈の中腹付近にあるドワーフ族の集落を目指す者もいた。

 襲い来る魔物と幻獣、野生の獣といった試練を乗り越えて険しい山中の道を踏破し、ドワーフ製の武器を求めてだ。

 ドワーフ製の武器は一振りで、一財産が築ける程の価値がある。

 人間よりも優れた鍛冶技術を持つという彼らが作った武器は、発展した魔導技術でアルファーナ大陸全土を支配した、レントハイム王国の遺跡から見つかる魔剣、そして近代最高峰の技術力を誇った、セイン王国製の武器に優るとも劣らない品質だ。

 強力な魔剣が眠るレントハイム王国の遺跡、そして遺失技術となってしまったセイン王国製の武具を手に入れるよりも、ドワーフ製の武具のほうが手に入れるまだ難易度は低い。

 エルツという町は、そうした目的を持ってマジル山脈を訪れる冒険者や傭兵たちにとっての中継点的役割を持った町なのだ。

 そうしてマジル山脈に分け入った冒険者たちが持ち帰った物は、エルツの町を経由して帝都へと持ち込まれる。

 そうした過程を経てくる以上、帝都で薬師として店を構えているリーノの実家に、エルツの悪い噂が入ってこないのはおかしい。

 所々の説明をウェッジに補足を入れてもらいながらも、リーノがそう指摘した。


「マジルのような高山地帯にはね~、煎じて飲めば解熱剤や鎮痛剤として効果が高い薬草が生えているから、うちの店でも冒険者に採集依頼を出してるんだよ~。だからエルツで何かあれば、あたしの耳にも入って来ると思うんだよね~」


「そういえば昔、冒険者ギルドの掲示板でマジル山脈での薬草採集の依頼は見たことがあるよ。ポウラットさんが受けようとしてて、リッグスさんに止められてたな。報酬が高い仕事には、それに見合う危険度があるんだって」

 

「ドワーフ製の武具が高価な理由も、品質の良さだけじゃなくて、流通が難しいことも要因だって親父が言ってたよ。まあ、そんな話はともかくとして、見た限りでは、この町にはそうした暗い印象は感じられないな」


「ああ、でもさ~」


 リーノがついでに何かを思い出したとでも言うような感じで口を開いた。


「エルツって、何年か前に熱病が流行したことがあるんだよね~。その時に天候不順も重なって不作の年も続いて、多くの死者を出したことがあるんだよね~」


「あ……」


 リーノがそう言った時、レティシアが声を上げた。


「どうしたの、レティ?」

 

 自分が思ったよりも大きな声を上げてしまい、注目を集めてしまったレティシアが、少し恥ずかしそうにして口を開く。


「私がまだ魔物と戦っていた頃、対魔大陸同盟軍に参加していた帝国軍から、指揮官の一人が領地で起こった禍事に対処するために、帰るって話があったことを思い出したの」


「じゃあ、その領地に帰った人が隊長なのかな?」


「多分そう」 


 ウィンが聞き返すとレティシアは自信が無さそうに頷いて見せた。


「ロイズさんのことだと思うけど、彼が前線から下がるだけだったらまだしも、帝国はそれに合わせて他にも何名もの上級武官を含めた、一部の軍を後方へ下げることを決定したの。その事で対魔大陸同盟軍の間で、帝国軍への不信の声が大きくなってたことを覚えてる」


「あの頃、魔物との戦いでは多くの貴族も指揮官として赴かれていたはず。その指揮官となった貴族が、任務中に領地で起こった出来事に対処するため、一時的に軍務を解かれることは珍しいことではなかったはずです。レティシア様、その事を良く覚えていらっしゃいましたね」


「うん。その指揮官が抜けて領地へと戻ったすぐ後に、彼が支えていた戦線が破られてしまって、残された帝国の軍が大きな被害を受けたから」


「たった一人が抜けただけなのに!?」


「大陸北部が完全に制圧されて、東部、そして中央部にも食い込み始めた魔物たちとの戦いは、戦線が広がる一方だったから、各前線で指揮官の不足も顕著だったの。前線では戦闘できる騎士、兵士はまだまだたくさんいたけれど、その人たちを指揮できる人材を、神出鬼没な魔族が集中的に狙って殺害していたから」


 レティシアはそう言うと、当時の各地の状況を説明した。

 大陸西部ではクイーンゼリア女王国が敗北して、レムルシル帝国の北部に戦火が迫りつつある状況だった。

 帝国の上層部は、対魔大陸同盟軍に派遣していた軍を、一人の貴族の事情にかこつけて、呼び戻し始めた。

 大陸でも列強の一つとされ、対魔大陸同盟軍でも大きな軍事力を背景に存在感を示していた帝国が軍を引き始めたものだから、すでに交戦状態だった大陸東部と中央部の小国の多くから、帝国は自国を守るために同盟諸国を見捨てる気なのかと、帝国への不信の声が上がった。

 そこで帝国は同盟国からの非難を回避するために、軍全体を引き上げずに一部を残すことにしたのだが、その撤退を始めた直後に魔物による大規模な侵攻が行われた。

 撤退中だったために、他国との連携がうまく取れなかった帝国軍は惨敗を喫した。その戦いで司令官だった帝国の将軍が一人、命を落とした程である。

 亡くなった帝国の将軍は、帝国軍の撤退後も対魔大陸同盟軍に残って司令官を勤める予定だった人物だ。その司令官が亡くなってしまったため、指揮系統が混乱し、帝国軍を含む対魔大陸同盟軍の戦線の至る所が壊乱状態となり、戦線が魔物によって後方へ押し込まれたしまったのである。


「あの戦いは、四十年近く続いた人と魔物の戦いの歴史の中でも、最悪に近い程、無残なものだった。私も含めた全軍が、一時的に後退をせざるを得ない程の惨敗を喫した戦いだった。だからよく覚えていたんだよ」  

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