ルーム川
2月28日発売の三巻についての情報(サウンドドラマ等について) を活動報告に上げています。
クライフドルフ侯爵領、領都ルドルフ。
およそ百年前、帝国によって滅ぼされた、クライフェル王国の首都だった町で、人口はおよそ三万人。
帝国の南部では最も大きな町だ。
そのルドルフのほぼ中央に、かつての王宮跡に建設された城館がある。
領主であるクライフドルフ侯爵の館だ。
館の敷地には、かつての王宮だった名残りとして、石材で建てられた幾つもの離れが残っている。
その中の一つに向かって、ジェイドは歩いていた。
「わずか数日だというのに、中の住人が戻ってきただけで、こうも雰囲気が変わるものなのか……」
一歩一歩塔へと近づくに連れて、空気が纏わりつくように重くなった。
嫌な汗が吹き出てくる。
城館の敷地内は、侯爵家に仕える者たちによって、隅々まで手入れを行き届かせているはずなのだが、その塔の一角だけは不思議と荒涼としているように感じられる。
その一角だけ鳥も虫の気配も感じられない。
離れの扉を潜り、廊下を進んで行くと地下へと降りる階段があった。
壁の燭台に灯された明かりだけを頼りに、ジェイドは一歩一歩慎重に階段を降りて行った。
最深部の扉を開く。
途端に、ツンと来る刺激臭に、思わずジェイドは鼻を覆い、目尻からにじみ出た涙をハンカチで拭った。
「ち、ち、ち、やあ、ジェイド。遅かったね」
声を掛けてきたのは相変わらずゾロリとしたローブを身に着け、フードを目深に被った老齢の魔導師レイナード・ヴァン・ホフマインだった。
机の上に建てられた燭台の灯火が逆光となって、ジェイドからはレイナードの表情を窺うことができない。
「……いい気なものだな。シムルグの研究塔を襲撃された上に、ノコノコとここまで逃げた身で……。
よくもそこまで堂々とした態度でいられるものだ」
騎士たちによって、皇宮内に立てられた塔の地下研究室に踏み込まれたレイナードは、追撃を逃れて行方をくらませた後、クライフドルフ家から与えられていた研究施設に戻ってきた。
そして、何くわぬ顔で以前と同じように過ごしているのである。
ジェイドの糾弾にも、レイナードはクスクスと笑うだけで悪びれもしない。
「ち、ち、確かに帝都での研究を妨げられたことは、残念至極だったけど、研究自体は随分と進んでいたからね。帝都での研究を望んだ理由は、ここでの素材調達が厳しくなったことにあった。だが研究にある程度満足できる結果が見られた今、あの場所に拘泥する理由はないよ」
「満足できる結果だと? 騎士たちによって、貴様の木偶人形が全て斬り伏せられたにも関わらずか?」
「ち、十体で騎士小隊二つを全滅させたよ?」
「たった二個小隊だけを全滅させただけだ! 貴様の触れ込みでは、コンラート・ハイゼンベルクの遺産を用いれば、木偶人形一体で、騎士団一個小隊以上を相手にできるということではなかったのか!? あれだけの金を使い、この体たらくに対して、何か反論はあるか?」
「ククク……」
しかしレイナードは、ゆったりとした動作でジェイドを一瞥すると、椅子へと腰掛けた。
「ち、ち、ち、まあ、落ち着きたまえ」
椅子に座ったレイナードがスッと手を上げると、壁に備え付けられた燭台に、一斉に火が灯った。
部屋の中が一気に明るくなると、闇が隠していた部屋の中の凄惨な様子が、ジェイドの目に飛び込んできた。
「うっ……」
ジェイドは思わず口元に手を当てると、こみ上げる吐き気と戦わねばならなくなった。
気勢をすっかり削がれてしまったジェイドの様子を見て、レイナードが笑う。
「ち、ち、コンラート様の生み出されたこの魔法は、本来は魔王を相手にするためのもの。本来であれば、一体で騎士団一つを相手にするどころか、国一つを滅ぼすことも余裕のはずなんだ。ただし、それは最高の素材と長い儀式を用いての話だ。残念ながら、帝都で用意した素材は、確かにこれまで使用した中では質の良い物だったが、それも限界はあるね。所詮は試作品だ」
「……貴様が豪語する程の性能を発揮できない原因は、素材のせいにあると?」
「ち、まあ、それだけじゃない。遺産に欠けている部分もあって、そこの解析が進んでいない。まあ、魔王を相手にしようと思わなければ、別に必要がないんだけどね」
肩を竦めてみせたレイナードは、一冊の分厚い本を広げる。
「ち、ち、ち、コンラート様の魔法に必要とした素材は、あの『聖女』だよ? わかる? それに匹敵する素材を用意してくれれば、今の僕でも相当な強さの木偶人形を創り出すことは出来ると思うね。さすがに魔王を倒せる程の強さとは言えないだろうけど」
「今ある素材では、そこまでの物はできないと?」
「ち、ち、ああ、無理無理。ずっと弱いよ。でも、君の部下の、ええっと、何て言ったっけ? ……まあ、いいや。狩って来てくれた素材を使えば、前よりもずっと強い木偶人形が創れることだけは保証するよ」
「……確かに強い物が出来るに越したことは無い。だが、時間も資金も無制限にあるわけではない。そしてすでにその結果を見せるべき時は来ている。貴様にはすでに大金を投資しているんだ。そして貴様は、その大金に見合うだけの成果を、我々に見せる必要があるとは思わないか? いい加減、試作品ではない、我々が納得できるだけのものを見せてもらいたいものだ。そうでなければ……」
「……わかったよ。さっきも言ったけど、今ある素材を使えばそれなりの木偶人形はできるだろう。きっと君も納得出来るだけの物に仕上がっている筈だよ」
「そうあってほしいものだ。お互いに……」
返事を聞き、ジェイドは鋭い視線でレイナードを睨みつけると、バタンと大きな音を立てて部屋を後にした。
レイナードは鋭く舌打ちをすると、扉を睨みつけた後に、再び本へと目を落とした。
(やはりコンラート・ハイゼンベルクの遺産が全部揃っていない状況では、完全な魔法の再現は難しいか)
レイナードは本を広げたまま立ち上がると、壁際に山と積まれた書物の山から何冊か手に取って机の上に積み上げた。そして再び椅子に腰掛けると、凄まじい勢いで書物に目を通していく。
(コンラートは魔王の肉体であるメルヴィック四世の血統、セイン王国の王女を器として使うことにした。『聖女』として列聖されるくらいだ。器として優れているのは、それだけでもわかる。
しかし、器とする条件が魔力の強い者であるとするなら、わざわざ王女を使わずとも良かったのではないか?
例えばエルフや翼人。絶滅したとされる翼人はともかく、人よりも魔力があるとされるエルフ族を使わなかったのはなぜだ?)
リアラ・セインは『聖女』として名高いが、勇者の仲間だったから列聖されたわけではない。勇者メイヴィスの仲間となる前から、彼女はすでに列聖されていたのだ。
それは、リアラの治癒魔法が、奇跡と呼ぶに相応しい域にまで達していたからである。
彼女の治癒魔法は失った四肢を蘇らせ、死の淵にいる重傷者をも回復させた。
己自身ではなく、他者の傷をである。
本来、魔法は他者へ行使するのがひどく難しい。
被術者の魔力が、掛けられる魔法に対して抵抗してしまうためだ。
しかし、リアラの治癒魔法はその魔力抵抗を受けて尚、絶大な効果を発揮する。
伝え聞く所によると、リアラは、己自身の傷であれば即死でないなら、自己治癒魔法で大抵の傷を癒やすことが出来るという。
治癒魔法だけなら、『大賢者』の称号を持つティアラですら、彼女には及ばない。
だが、リアラが天才的に優れているのは治癒魔法だけだ。魔導師としても確かに優秀なのだが、魔力自体は人間の中では優れているというだけだ。
例外はあるが、種族的には人間よりも魔力が強いとされるエルフ族。その中でも特に優れた者には、リアラの魔力は到底及ばない。
エルフの貴種、ハイエルフとなら比較にすらならないだろう。
もちろんエルフの都、世界樹の麓へと侵入を果たし、ハイエルフを攫って来るよりも、まだ人の領域であるエメルディアの修道院からリアラを攫ったほうが、簡単なのは確かだ。
しかし、ただのエルフならば、リアラを攫うよりももっと容易いことだったはずなのだ。
人の身で『大賢者』の候補となったコンラート・ハイゼンベルクならば、抵抗するエルフの里を一つ程度、正面から焼き払うことも可能だろう。
そんなコンラートがリアラ・セインに拘り、贄とした理由。
コンラートにとってリアラは主筋であって、敬愛すべき存在だったはずなのだ。
残念なことにレイナードは、コンラートがリアラに拘る部分を記した遺産は、手にしていなかったのである。
(ならば、『背教者』はどういう方法を試みたのか)
書物の頁をめくる手を早めながらも、レイナードは思考を巡らせる。
レイナード以外にも、コンラードの魔法を復元させようとした者がいた。
サラ・フェルール。
列聖の候補に挙がりながら、その忌まわしき邪法の研究で、『背教者』の烙印を押された者。
「ち、確か……リヨンだったかな? 足を伸ばしてみる必要がありそうだ。だけどその前に、ジェイドの注文を片付けるとしようか」
本をひとまず机の上に放り出すと、更に奥へと繋がる扉へと向かう。
(形だけとはいえ、クライフドルフが飼い主だからな。少しは働いておかねばならないか。ペテルシアからもそう言われているしね……)
◇◆◇◆◇
レムルシル帝国の南方国境にそびえるマジル山脈。
その中腹にあるミンガル湖を水源地とし、帝国を東西に分断して北の海へと流れこむ大河の名前をルーム川という。
帝都シムルグ市街の中にも流れるこの川は、古くから沿岸地域の物流の大動脈だった。
水上運輸が可能となる豊富な水量は、肥沃な大地を育み、豊富な鉱脈を持つマジル山脈からは、鉱物資源と森林資源を都市部へと運ぶ。
薪が豊富に取れる森林、豊富な水量、良質な鉱山と揃えば、鍛冶産業が発展するには十分な理由となる。それらを背景にした良質な鉄から生み出された武具は、周辺諸国を圧倒する精強な騎士団を生み出した。
帝国が大国へとのし上がるために、ルーム川が果たした役割は非常に大きい。
そのマジル山脈の麓一帯を治めているのが、エルステッド伯爵家だ。
伯爵領の領都エルツの人口は五千人。
十四、五万という人口を抱える帝都シムルグと比較すれば随分と小さいが、シムルグは大陸でも最大級の都市の一つだ。五千人の人口を抱えるエルツは、大陸諸国の主要な町と比較しても、かなり大きな都市である。
その領主であるエルステッド伯爵こそ、ウィンたちの上官であるロイズだった。
「だから、隊長さんは一緒にいなかったのね」
「ああ。騎士じゃなくて伯爵領の領主として出迎えるために、エルステッド領へ先に行って待ってるらしいよ」
「エルツか。鉄鍛冶が盛んなところなんだよね? 私がエメルディアにいた頃、エルツ製の剣を持っている人をいっぱい見かけたことがあるよ」
「良質な鉄が取れるらしいからね。あ、レティ。この辺りでいいかな」
森の中を伸びていた街道は、クレナドの町を抜けたあたりで川沿いに続くようになり、リヨン王国親善訪問団の一行は、明日にもエルステッド領に入るというところまで来ていた。
夕方前の三時に逗留予定の村へと到着した一行は、これまでの旅路でずっとしてきたように野営の準備を始める。
村から借り上げた家屋にはアルフレッド、レティシア(リーノ)、そして貴族の文官、騎士たちだけが入り、兵士や雑役夫たちは村の外に天幕を張った。
そしてルーム川から早速水を汲んでくると、煮炊きの準備を始める。
そんな彼らに混じって、ウィンとリーノ――に姿を扮したレティシアがいた。
二人は背中に背負っていた籠を、川べりに下ろした。
籠の中には大量の芋が詰め込まれている。
「さ、ここなら水が汚れても大丈夫だろう。さっさと洗っちゃおう」
「うん」
上流では飲水、鍋に張る水を汲んでいるため、二人は、一行が野営している場所よりも随分と下流に来ていた。
二人の左右では同様に、食事担当の下働きの女性たち、下っ端なのだろう年若い兵士が野菜を洗っている。
ウィンとレティシアの二人も川べりにしゃがみ込むと、さっそく仕事に取り掛かった。
「レティは洗ってくれる? 俺は皮を剥くよ」
「はーい」
レティシアが次々と芋を洗い、彼女から芋を受け取ったウィンが皮をナイフで剥いていく。
二人の手つきは非常に慣れたもので手際がよく、隣の下働きの女性も手を止めて少し見ていた。
二人は作業する手を止めること無く、小声で話していた。
「中身はレティだとわかっているんだけど、リーノと一緒に仕事しているようで、何だか変な感じだな」
「私はいつも通りなんだけどね」
「魔法を使いっぱなしだけど、疲れないのか?」
「付与強化魔法を自分に掛ける場合の維持は、それほど魔力を消費しないから大丈夫。それにお兄ちゃん。私の魔力は人よりも随分と多いから、このくらいなら呼吸をするくらいに簡単だから大丈夫。それよりも、私はリーノさんが心配かな」
「ああ、リーノは大丈夫なのかな」
付与強化魔法の一つ、《幻装》。
効果は、自らを幻覚で覆って違うものに見せる魔法だ
騎士や兵士が潜伏する際に、周囲の自然物に偽装する目的で開発された。
自己へ付与するため魔法の持続時間も長い。また、リーノがレティシアに化けているように、外見を変えるのにも使用できる。
リーノは《幻装》の持続時間を長くするために、効果範囲を化粧で誤魔化すのが難しい、目鼻立ち周辺のみに魔法を使用している。しかし、魔法維持を簡単にできるようにしているとはいえ、長時間の使用は疲れるはずだ。
村に到着した際にウィンは、レティシアに化けたリーノが馬車を降りてくる姿を見たが、その足取りはどこか力ないように見えた。
化粧をやや濃くして誤魔化してはいたが、疲れの色は隠せていないようだった。
うつむき加減で歩くその姿は、本来のレティシアを知る者からしたらバレたりしないかとハラハラするものだったが、ステイシアの侍女を含め、一行のほとんどがレティシアとそれまで接したことがない者ばかりだ。
「お労しい、旅の疲れが出たのだろう」
おかげでリーノは、馬車の中と寝る時と、一人にして欲しいという望みを簡単に叶えられた。
寝ている時はさすがに《幻装》の魔法を維持できないのだ。
「私とリーノさん。こんなに早く入れ替わる必要があったのかな?」
「レティとリーノが入れ替わる時期が遅くなれば遅くなるほど、周囲へ与える違和感が大きくなるからね。旅に出たらすぐに入れ替わったほうが気づかれにくいって、隊長が言ってた」
レティシアよりも身長が低いリーノだが、周囲がレティシアを見慣れる前に入れ替わったおかげで、背丈までは誤魔化さずにすんだ。
「さ、芋も剥き終わったし、戻ろうか」
「うん」
両隣の女性に挨拶をしてから、上流に向かって歩き出す。
まだ日は地平へと隠れてはおらず、西日が二人の横顔を照らす。
ウィンはルーム川の雄大な流れを眺めていた。
一隻の大きな川船が、下流へと向かって進んでいる。
「あの船は、エルツから来たのかな?」
「エルツから出て、クレナド、シムルグを経由して海まで行くのかも」
「海か……ルーム川も大きいけど、海って更に大きいんだろう?」
「うん。こんなものじゃないよ。船ももっと大きいよ」
「レティは、海で船にも乗ったことがあるんだ」
「カシアートっていう遠い国から、リヨン、レムルシル、クイーンゼリアの沿岸沿いを航海して、更に北へと行ったから」
「海か……見てみたいな」
「リヨン王国の首都リヨンは、海に面しているから、そこで見れるよ」
「へえ! 楽しみだ!」
「うん、きっとびっくりするよ!」
弾んだ声を出したウィンに、レティシアは楽しそうに笑顔を向けた。
「海の食べ物って、とっても美味しいんだよ。お魚も貝もいっぱい種類があって、焼いてもスープにしても美味しかったなあ」
「はは、レティは食べ物には目が無いからな」
「そ、そんなことないよ。もう、ひどいなあ」
レティシアが拗ねた表情を浮かべる。
リーノの姿をしているが、その仕草は確かにレティシアの物で、ウィンは笑った。
そんなウィンの顔を下から見上げて、レティシアは目を細めた。
(あの頃でも美味しいと思ったけど、お兄ちゃんと一緒ならきっと、もっと美味しく感じるだろうな)
レティシアがリヨンを初めて訪れたのは十歳の時。
ラウルは旅の連れになったばかりでまだ余所余所しく、ティアラも旅に出て大分経ったと言えど、心から信頼している訳ではなかった。
そんな状況で町へと出た時のことだ。
リヨンの港前の通り。
市場では見たことのない海の魚や貝が売られていた。
露店の鉄板の上で焼かれる新鮮な巻き貝が、ぶくぶくと泡を吹き、食欲をそそる匂いを周囲に振りまいている。
王宮の宴でも碌に食べ物を口にせず、それ以上に普段から食が細くなっていたレティシアですら、その匂いには抗えず、先に購入して食べていたラウルの真似をして、焼かれていた巻き貝を食べた。
あの時の巻き貝の味は、鮮烈な思い出として残っている。
いつかウィンにも食べてもらいたいと思っていた。
(リヨンに行ったら、絶対にあそこにお兄ちゃんを誘って行こう)
楽しそうな表情を浮かべているレティシア。
リーノの外見をしているが、中身はレティシアなのだとホッとしたウィンは、グイっと背中に担いでいる籠を持ち直す。
「さあ、日が暮れて暗くなる前に食事の支度を終えなくちゃな。急ごうか」
「うん」
しかし、二人が足を速めようとしたその時――。
まずはレティシアが、そして一拍遅れてウィンが足を止めた。
何者かの気配。
二人は川とは逆の茂みに向かって身構えた。