貧民街
禿頭の男の後から入ってきた初老の男を見て、ケルヴィンは内心の驚きを必死で隠しながら立ち上がった。
(この男は確か、ドリアの村にいた……)
「申し訳ございません。お待たせしましたね」
「ケルヴィンです」
「クラウスです」
握手を交わし、初老の男に薦められるままに椅子へと再び腰掛けると、ケルヴィンはこのクラウスと名乗った初老の男を観察するように見た。
一見、厳格かつ真面目そうな人物。背筋をピンと伸ばし、貧民街には似合わない燕尾服を着込んで、貴族の執事といった印象を与える。
恐らくその印象は正しいのだろう。クラウスはどこかの貴族に仕える執事的な役割を持つ人物。
だがケルヴィンの記憶に間違いがなければ、この男はドリアの村でペテルシア軍と思しき騎士と、山賊たちを纏めていた人物である。
ということは現在、レムルシル帝国とペテルシア王国の仲が剣呑な関係となっている状況を作り出した側、それも恐らくは中核に位置する重要人物。
(ちょっと予定外ではありますが、思った以上に大物が掛かりましたかね)
「まさかクラウス殿自らがお出でになるとは……」
どうやら禿頭の男にとっても、予想外に上位の者が来たようだ。
クラウスがとりあえずの世間話にといった感じで、禿頭の男が持って来た葡萄酒――今度は先ほどのような安物ではなく、貴族でも滅多に飲めないような上等な物だった――の品評をするのに対して適当に相槌を打ちながら、さりげなく周辺の気配を探る。
部屋の中にはケルヴィンとクラウス、そして仲介人である禿頭の男。そして部屋の外には、すくなくともケルヴィンがわかる範囲では人の気配はなかった。
(ここでこの二人を制圧するべきか――)
このクラウスが誘拐事件に関わっているかどうかわからないが、帝国の騎士としてはペテルシアとの緊張に関わる重要人物であるこの男を捨て置くことは出来ない気がする。
だが、とケルヴィンは考え直した。
禿頭の男は軽く制圧できる。
《雷招》の魔法でも使えば、助けを呼ぶ間も与えず意識を奪うことは可能だろう。
しかし、目の前に座って葡萄酒を舌の上で楽しんでいるクラウスが放つ雰囲気。
今感じている気配から読み取れるクラウスの力量は並の騎士程度。もちろんケルヴィンならば、十分に勝てると思える程度。
しかし、与えられる印象とは裏腹に、ケルヴィンの勘が「こいつはヤバイ」と激しく警鐘を鳴らしていた。人の皮を被った化物――ケルヴィンの知己では、剣を交える機会を得た勇者と同じ匂いを感じたのである。
「さて、あなたは雇い主から解雇されて、新しい職場を探していると聞きました」
まず姿勢を正し、話を切り出したのはクラウスだった。
「ええ、お恥ずかしい話で所属した傭兵団の上役とは価値観の違いがありましてね。
ついに我慢できず殴り飛ばしてしまった所、そこを追い出されてしまいました。そこで、私の腕を高く買って頂けるところを探しているというわけです」
ケルヴィンの返答を聞いたクラウスは、禿頭の男にちらりと視線を送る。
「君の腕が確かだということは、そこにいる彼から聞いています」
「それはどうも」
禿頭の男へ一瞬目を向けると、お前との約束は守ってやったぞと言わんばかりに胸を張られ、ケルヴィンは苦笑を浮かべた。
「それで早速本題に入りますが、我々が求めている人材は――」
「こういう場所に来て、あなたのような方が求める人材は限られるでしょう。そして恐らく私はあなたが求める人材だと思いますよ?」
「なるほど。ふ、ふふふ……これは頼もしい限りですね」
喋っている途中でケルヴィンに遮られた形となったクラウスだったが、気分を害した様子もなくむしろ愉快そうに笑った。それから目を細めると、
「良いでしょう。君を雇うとしましょう」
「ありがとうございます。ところで、私のような正規ギルドから弾かれた者を雇ってまで戦力をかき集めるなんて、いったい私の飼い主となるお方は誰なんでしょうね?」
現在レムルシル帝国とペテルシア王国の国境付近は非常にきな臭いものとなっている。そのため傭兵ギルドには続々と人材が集結しつつある。
わざわざ貧民街へと足を運ばずとも、真っ当な手段でいくらでも人を集めることは出来るはずだ。
しかし、ケルヴィンはすぐに頭を下げると自身の発言を撤回した。クラウスの放つ雰囲気が微妙に硬質化したのを感じ取ったからだ。
「申し訳ございません。余計な詮索はしないほうが身のためでしたね」
ケルヴィンがすぐに謝罪したため、クラウスが纏った不穏な空気は一瞬で霧散する。
「まあ、いいでしょう。あなたの言うとおり、私兵を集めて領地の防衛力を上げたければ、傭兵ギルドで真っ当な人材を集めたほうが手っ取り早い。
ではなぜそうしないのかと、警戒するのは当然のことでしょう」
「つまり?」
「我々は真っ当な手段で集められる人材ではなく、あなたのような技量もあり、金で黙って働いてもらえる人材を求めているのです」
クラウスの口調は淡々としていたが、目線はケルヴィンを試すか、観察するかのようにじっと見据えていた。ケルヴィンは軽く笑みを浮かべて頷くと、手を差し出した。
「いいでしょう。私としては剣が振るえる場所と報酬を頂ける場所さえ与えて頂けるのなら、それで結構ですから」
◇◆◇◆◇
昨夜はどうやら雨が降ったらしい。
朝早く、日課の鍛錬を行うためにウィンが起きだした時には、雨はもう止んでいたものの、分厚い雲に空が覆われていた。
騎士学校男子寮の中庭は、石畳の舗装ではなく土で固められている。所々にできた水溜まりを避けつつ、身体をほぐしている合間にレティシアも顔を出す。
「おはよう」
「おはよう、お兄ちゃん」
互いに朝の挨拶を交わして、鍛錬を行っていく。
いつもどおりの朝。
その後、寮の食堂で朝食を済ませた後、ウィンは皇宮へ出仕するのだが――。
「おはようございます」
「あれ? コーネリアさん」
鍛錬を終えようかという頃、コーネリアが護衛の近衛騎士と共にやって来た。
「お邪魔でしたか?」
「いや、ちょうど終わったところだから大丈夫」
レティシアから汗を拭くための手拭いを受け取ると、素早く汗を拭う。
「お兄ちゃん、私は水浴びしてくるね」
「ああ」
手を振るとレティシアは自分の部屋へと戻って行く。
近衛騎士がさっと敬礼した。三十手前くらいの男だが、レティシアを見て、顔に緊張と憧れの色が浮かんでいた。
汗を拭き終えてコーネリアに断ってから一度寮の自室へと戻り、身だしなみを整えて再び外へと戻ると、ウィンはコーネリアの傍で待機していた近衛騎士に向けて敬礼する。
ここからはコーネリアの専属従士であるウィンが、彼女の護衛の任に就くという意思表示。騎士もウィンへ返礼すると、コーネリアに敬礼してから踵を返して戻って行った。
「皇宮の外で襲撃があったから、しばらくは出られないものと思ってたよ」
「あの……肩のお怪我は?」
「大丈夫、全然問題ないよ」
レティシアとの鍛錬で確かめた。
怪我を魔法で癒してもらった直後にあった肌の引き攣ったような違和感は、今朝のレティシアとの鍛錬ではまるで感じられなかった。
ウィンが頷くのを見て、コーネリアがほっとしたような表情を浮かべる。だが、それでもまだ彼女の表情にどことなく暗いものを感じて、ウィンはそれが気になった。
コーネリアも朝食がまだだと聞いて、レティシアが戻って来るのを待ってから学生用の食堂へと誘う。
早朝だからか、まだ食堂に他の学生の姿はなかった。
汗をかいたウィンとレティシアは水、コーネリアには熱いお茶を用意してもらい、朝食に粥を人数分注文する。
粥は米に玉子と野菜が煮こまれたものだった。
ウィンはかき込むようにして、レティシアとコーネリアの二人は上品に匙で粥を掬って食べる。
汗をかいた後なので、塩気の効いた粥が旨い。若い騎士学校の生徒たちのために量も多めである。
「今日の調査の方はどうされるんですか?」
食べ終えて人心地つくと、コーネリアが今日の予定を聞いてきた。
「ロックの話を聞いてからだけど、俺としてはローラさんが紹介してくれた人を訪ねたいと思ってる」
紋章院で調べ物をしていたロックは、昨夜遅くに寮の部屋へと戻って来た。
しかし、そうとう疲れていたのか、帰ってくるなりベッドに倒れこむようにして眠ってしまった。
普段であれば、ウィンとレティシアが鍛錬を終えた頃に顔を出し、食堂で朝食を一緒に摂るのだが、ウィンが着替えのために部屋に戻った時には、まだぐっすりと眠りこけていた。
「ということは、今日は貧民街に行くの?」
「うん。犯罪が多発する場所だし、前にも言ったけど、できればコーネリアさんは行かないほうがいいと思うんだ」
「私なら大丈夫です」
ウィンとしてはこの一件、冒険者ギルドからの依頼でもある。彼自身は従士任務の時間外で貧民街を訪れるつもりだった。
だが、その提案をコーネリアが断った。
帝国の為政者側の人間として、どうしても貧民街を一目見たいと主張。そしてその意思は固く、ウィンも渋々了承する。
ただ、気になっていたのは襲撃された後から見せるコーネリアの表情。
戦闘時に動くことが出来ず、足手まといになってしまったこと、そしてそのためにウィンが怪我をしたことを気にしているのは明白だった。
帰り道から今までにかけて時折コーネリアの様子を窺っていたのだが、例えば角を曲がる時、声をかけるまで真っ直ぐに進んでしまったり、また、その曲がり角で肩を不用意にぶつけたりと、心ここにあらずとなっている。
この朝食の席でも、粥を口に運ぶ手は遅く、たまにじっと匙を見つめては深い息を吐いていた。
責任感の強い彼女のことだから、無理をしかねない。立ち直るまではよく注意を払っておこうとウィンは思った。
◇◆◇◆◇
ロックが起き出してきたのは、騎士学校の鐘が始業の時刻である午前九時を告げた頃だった。
「悪ぃ、遅くなった」
謝りながらウィンたちと合流したロックは、食堂でパンにハムと玉子、野菜を挟んだものを注文した。
すでに授業が始まったこの時間、朝食として用意されたメニューは完売し、厨房では昼の仕込みに入っている。
そこを無理を言って簡単なものを作ってもらったのだ。
記憶を頼りに目撃した紋章を、膨大な量の資料の中から見つけ出すのにはさすがに苦労したらしく、ロックの顔にはいまだ疲労の色が残っている。それでも食欲は失せてないらしく、あっという間にパンを平らげてしまった。
ロックが食べ終わるのを待ってから、まずは彼が調べてきたことを聞く。
「調べてみたんだけど、俺が見たのはどうやらホフマイン子爵家の紋章だったみたいだ」
「ホフマイン? それって、あの宮廷魔導師の?」
「ウィン、知ってるのか?」
「知っているというか、何度か皇宮で会ったことがあるんだよ」
ウィンは自身がコーネリアの従士へと配属された日に出会った、一人の若き宮廷魔導師の事を話す。
「そうそう、そのレイモンド・ヴァン・ホフマイン子爵公子だ。この春に任官した宮廷魔導師なんだよな。昨日部屋に戻る前に隊長にも報告したんだけどさ、難しい顔をしていたよ」
「すぐに調べるわけには行かないの?」
ロックの思案気なつぶやきにレティシアが訝しげに聞いた。
それを見たウィンが、レティシアへ教えた。
「騎士団と魔導師団は何かと反目しあうことが多いからね。俺たち騎士が魔導師団内部の事に関わるのを嫌うんだよ」
「でも、ロイズ隊長。宮廷魔導師筆頭のマイセン老師にお力添えを頼んでいませんでしたか?」
コーネリアが不思議そうに言った。
反目しあっているのなら、中央騎士団に所属する騎士小隊長であるロイズの要請へと応えるだろうか?
「あれは、コーネリアさんの事があったからだとは思うんだ……騎士団としてではなく、隊長個人の要請なんじゃないかな。どうも隊長の人脈の広さは不思議でよくわからないんだよね」
ウィンは首を振って見せる。
ロイズは貴族間の勢力争いでは、表向き大きな力を持っていないのだが、まがりなりにも伯爵だからか、皇太子アルフレッドを始めとして少ないながらも強力なコネを持つ。
隊にしても人員補充が為されないにも関わらず、装備品なども充実させている。そのことから騎士団内部にも、地位に見合わない人脈を築き上げていることが覗えた。
そんなロイズをしても、宮廷魔導師団の人間を調べることは、帝国軍内部の不正を調査する専門機関である憲兵隊ならともかく、貴族に被害者が出た程度の理由では調査を行うことが難しいようだった。
「ホフマインのことに関してはひとまず預けてくれと、隊長のお言葉だった。俺としても悔しいけど、従うしか無いと思う」
ロックの言葉に三人は頷いた。
その後、事件に関わりがありそうな被害者が貧民街にいて、その関係者を訪ねてみたい旨を話すと、ロックもその意見に賛同を示した。
場所が場所であるため、きちんと武装を整えてからその人物を訪ねることとなった。
◇◆◇◆◇
帝都城門を出たところに作られた貧民街。
その入口でコーネリアはしばし足を止めるとじっと街並みを眺めた。
石造りを基本とする帝都市内と違い、廃材を利用して建てたと思われる木製の小屋が無秩序に立ち並んでいる。
通路は剥き出しとなった地面。
帝都市街のように石畳で舗装されていない。そして整地もされていないため、地面は凹凸が激しく、幾つもの水溜まりができている。
正午の鐘がなる頃には、どんよりとした雲に覆われていた空が晴れて日差しも差しだしたため、日の当たる地面は多少乾いたところもあり、そこへ板だけを敷いて寝転がっている者もいる。
通りでガラクタを売る者もいれば、やせ細った芋や豆、萎びた野菜が露店に並び、安物の酒を売る店もあった。
食べ物を提供している露店では、表面が凸凹になった大きな鍋に、街で集めてきた残飯などの生ゴミを煮込んだシチューが売られている。
帝都市内の市とはまるで違う様相を呈する闇市。
そして、この光景すらもまだ貧民街では表の一面にすぎない。
通りから一本裏へと入れば犯罪が横行する危険な区域だ。
「コーネリアさんは俺たちの真ん中にいるようにしてください。決して離れないように」
「レティも俺から離れちゃダメだぞ」
「うん、お兄ちゃん」
レティシアがウィンの腕にそっと手を絡める。
思い思いに小屋が建ち、通路が入り組む貧民街では、たとえこの街の住民といえども道に迷いかねない。
はぐれてしまうと、合流するのは至難となるだろう。
ロックに声を掛けられて、貧民街の光景を目に焼き付けようとじっと見入っていたコーネリアが振り返った。
コーネリアはレティシアがウィンの腕を掴んでいる様子を見て、一瞬ウィンの空いている方の手を見たが、すぐに前を向いて歩き出す。しかし、ウィンと肩が触れるか触れ合わないかぐらいの傍で。そしてその顔に一瞬、少しだけ羨ましそうな表情を浮かべていたことは、誰にも気づかれなかった。
貧民街の表通りから裏へと入ると、そこはさらに別世界が広がっていた。表通りに広がる闇市では、残飯に等しいとはいえ飲んだり食べたり出来る露店が建ち並び、空腹を満たそうとする人々で賑わっていたが、裏通りではボロ布のような服を着て、生気のない虚ろな目をした人々が、地べたにしゃがみこんでいたり寝転がっていたりする。
建物の陰では半裸に近い姿をした街娼が、真っ昼間から通りを歩く男たちに流し目を送っていた。
一行の先頭を歩いているのはロック。
しかし、その足取りは決して軽いものではなく、ローラの紹介してくれた人物が住んでいるという場所を記した麻紙に目を落として、しきりに周囲を警戒した目で見回していた。
「ロック……逆に目立つよ?」
前を行くロックにウィンが突っ込んだ。
「俺が前を歩こうか?」
「後ろのほうがより危険だろう? 俺よりもお前が後ろを警戒したほうがいい。いつ後ろから襲われるかわからないんだからな? お前のほうが気配を探るの得意だろ?」
「いや、まあそうなんだけど……」
腕に掴まって歩いているレティシアの頭を見下ろして、
(レティもいるし、そうそう不意討ちは受けないと思うけど)
しかしロックが言うとおりで、ここでは用心するに越したことはない。
ウィンとロックは普通のシャツにズボン。
貧民街をうろつくには少し小奇麗になっているが、周囲から浮き上がるようなものではない。
レティシアとコーネリアも、一応セリに見立ててもらって、町娘のような服を着てさらに頭からフードを被って顔を隠してはいる。
しかし、背丈は小柄だし、女性であることを完全に隠しきれていない。
レティシアやコーネリアのような若い娘がこの街で一人になれば、人さらいには絶好のカモだろう。
もちろんレティシアの戦闘力は、人さらい程度がどうこう出来るようなものではない。彼女に迂闊に手を出せば、身を以ってその選択が愚かなものだったことを知ることとなる。
ただ、コーネリアに関しては、准騎士資格を得る程度には剣の腕も立つのだが、先の戦いにおいて、経験不足が露呈してしまい身体が萎縮してしまっていた。
(コーネリアさんの安全を第一に考えよう)
コーネリアの方を見ると、彼女は真剣な眼差しで貧民街の街並みを見ながら歩いていた。彼女の育ちからでは、まず縁がない世界だ。
ふと、コーネリアがウィンに顔を向けた。二人の視線が合う。
コーネリアは一瞬驚いたように目を丸くしたが、なぜか慌てたようにすぐに目を逸らした。
「うーん……地図とたまに路地が違うとこあるな」
コーネリアの仕草が気になったが、ロックの声でそちらに注意が向く。
ウィンは後ろからロックが広げている地図を覗き込んだ。
「こういう場所の道は、昨日は通れたところが、今日は塞がっていることもあるからね」
「建物も簡単に取り壊せそうだしな」
呟きながら麻紙に描かれた地図に、何度も視線を落としているロック。
その時だった。
「おい、ロック」
「ちぇっ!」
急にウィンがロックの腕を引っ張り、舌打ちした男の子が走って行く。
「うわっと……危ねえ、助かった」
「どうしたんです?」
走り去っていく子どもの背中を見送るコーネリア。
歳はまだ十にも満たないだろう。
ボロボロの服を着て、顔も手足も薄汚れており、身体はひどく痩せていた。
「スリですよ」
「スリ?」
コーネリアが不思議そうな顔をした。
「つまりこうやって……」
ウィンがロックにトンっと軽くぶつかって見せる。
その様子を目をパチクリさせて見ていたコーネリア。
「ほら」
ウィンの手にはロックの財布が握られていた。
「おまえ、ほんとになんでも出来るよな……」
ウィンの手にある、懐からスリ取られた己の財布を見ながら、ロックが呆れたように呟く。
「冒険者ギルドへ出入りしてた時に、この手の技術は色々教えてもらったんだよ」
ロックの手に財布を返しつつ、ウィンはコーネリアを見た。
「とまあ、これがスリだよ。人の懐にある財布を狙うんだ」
「あんなに小さな子供たちが……」
「悪いことだけど、ここで生きていくためには必要な技術として覚えるものなんだよ」
そう言うとウィンは子供が走っていった方を見たが、すでにその姿は見えなくなっていた。
「前にも言ったけど、ここでは子供だからといって油断できないところだからね。彼らも生き残るために必死だから」
ウィンも孤児だ。
幸い、ランデルによって『渡り鳥の宿木亭』に引き取られたおかげで、お腹を満たせるだけの食事には――レティシアが持ってくるお菓子も含め――ありつけることが出来た。ボロく小さな小屋程度ではあったが、夜露を凌ぐことができる寝床は与えられていた。
さらに幸運な事に、仕事をする上で必要だったとはいえ、ランデルから文字を学び算数を覚え、レティシアと出会ったおかげで貴重な本を読む機会にも恵まれた。
もしもランデルに引き取られていなければ、ウィンもまた同じような境遇になっていただろう。
「子供たちの中には真っ当な将来を夢見て、冒険者ギルドの門を叩く者もいるけど、成功する者は一握りなんだよ。
多くの場合はああやってスリや置き引きの技術を磨き、または徒党を汲んで強盗を働いたりするんだ」
言葉もなくウィンの言葉に聞き入るコーネリア。
彼女にとってまた新しく知る世界の真実。
だが、確かにこの帝国の為政者の一人として知っておかねばならない真実――。
コーネリアはウィンの横に並んで歩きながら、貧民街を再び観察することにした。
ここに住む人々の生活をその目に焼き付けるように、しっかりと見据えながら。
公務に携わることが出来る十八の歳を迎えた時、何かが出来るように。
ただ、時々真剣な表情でロックと地図を見比べているウィンの真剣な表情を盗み見ながら――。
スリ被害にあいかけて、より一層せわしなく左右に首を動かしていたロックが足を止めた。
何度も麻紙に目を落として確認している。
「あれかな?」
ロックが指さした先、周囲に比較して少し大きめの木造の家屋。
軒下には一枚の板を刃物か何かで引っ掻いて書いたのか、『薬師』と書かれた看板が掛けられていた。
ローラが栽培した薬草の納品先の一つ。
診療報酬が高く、正規の医師に診てもらうことができない貧民街では、薬師の需要が高く、こうした多くの薬師たちが店を構えている。
もっとも、町に店を構えている薬師と違って、誰もが勝手に名乗ることができるため、その薬が本当に薬効があるのか、それともただの雑草を煎じたものなのか、あるいは毒なのかもわからない。
扉代わりの布をめくると、店の中は四人が入っても十分な広さがあった。
土間に作られた歪な棚には、小さな壷に詰められた丸薬や、木の実。何とも形容しがたい色の水薬。そして、トカゲや蛇、カエルの干物。薬草と思われるカラカラに乾いた草などが所狭しと並べられていた。
「誰だい? こんなまだ日が高い時間に……」
店の奥から年老いた老婆が出てきた。
「うちは夕方から早朝にかけて営業しているんだけどねぇ」
「あら、それは申し訳ございません」
ぎょろりとした目で睨みつける老婆に、コーネリアが思わず謝罪の言葉を漏らした。
「……素直な娘だねぇ。この街では、それこそ昼も夜も無いものじゃ。
……あんたら、この街の人間じゃないね? こんなババの店で何が欲しいんだい?
熱さましに腹痛に効く薬、それから傷や火傷に塗る薬はもちろん、あっちが良くなる夜の薬だってある。憎い相手に飲ませれば、数分であの世行きのものまで何でも揃えているよ」
フヒヒ、と歯がない口を開いて笑う老婆に四人は顔を見合わせると、ウィンが代表して口を開いた。
「私たちはローラさんの紹介で、こちらに来ました。行方不明になったという、あなたのお知り合いの魔導師のことで話を聞かせて欲しいのです」
「ローラの知り合い? ……なんだい、客じゃないのかい」
老婆はそう言うと、「ちょっと待っといで」と、奥の部屋へと一度戻り、少ししてから戻って来た。
「待たせたねぇ、奥で薬缶を火にかけていたんでね。それで何の話だい?」
ウィンが手短に事件の概要を説明した。
「……情報料だよ」
ずいっと手を出す老婆に、ロックが顔を引き攣らせたが、横からウィンがさっさと銅貨を数枚取り出すとその手に握らせた。
「フヒヒ、そっちの若いのはよくわかってるね」
銅貨を懐に仕舞いこみながら、老婆は口元をすぼめて笑った。
「ここ最近、行方不明者が多いことはこのババも知っておる。確かに、儂が懇意にしておった魔導師が最近姿を見せなくなった。
いつから姿を見せなくなったかと言われても、はっきりとは覚えちゃいないが、あんたらの言う被害者たちと同様、何者かに攫われたんだろうねぇ」
老婆は顔の皺をよりしわくちゃにして顰め面をした。
「貧民街では人の出入りは激しいですよね。昨日までいた人が、いろいろな事情で夜逃げしてしまったりとか。
おばあさんのお知り合いの魔導師の方が、何かの事情でこの町から離れてしまったとか無いのですか?」
「無いね」
ウィンの疑問に老婆は断言した。
「何がしかの事情があれば、貧民街を仕切っている連中が行方を追わないはずがない。逃げ出さなければならないほどの事情があれば、十中八九はそいつらが関わっているからね」
「こんな場所だと、人さらいとかも多そうだけどな」
「人さらいというのは、金になりそうな人間しか狙わんよ」
「魔導師なんだから、いくらでも利用価値があるんじゃねーの?」
「やれやれ……そっちの赤髪の坊やは、なんにもわかっちゃいないねえ」
老婆はロックに指を突きつけると、首を横に動かした。
「この街の住人で、魔導師の家を襲おうなんて思う輩は、どこにもおらんわい。奴と懇意にしておったのも、このババも含めて十にも満たぬ」
立っているのが辛くなってきたのか、老婆は古ぼけた椅子に腰掛けた。
その時、レティシアがウィンの袖をちょいちょいと引っ張った。
「お兄ちゃん。ちょっと私、外の空気吸ってくるね」
「大丈夫? 俺も一緒にいようか?」
「大丈夫だよ、一人で。ありがとう」
貧民街に漂う饐えた臭いも酷かったが、店の中は薬や干物から漂う臭いが入り混じって更に酷いことになっている。
気分でも悪くなったのだろうと思った。
治安の悪い貧民街。
いくらレティシアが強いとはいえ心配に思い、老婆との話はロックに任せて、ウィンも付いていこうとしたのだが、レティシアはウィンに向けて笑いかけてみせた。そのまま外へと出て行く。
そうしている間にも、老婆はロックとコーネリアを相手に話を続けていた。
「変わったことといえば……あんたら以外にも、いろいろと話を聞いて回ってるのがいるよ」
「本当か!?」
ロックから銅貨を何枚もせしめてホクホク顔の老婆が、ニヤリと笑みを浮かべた。
「儂が直接見たわけじゃないがの。何でも、フードで顔を隠して貧民街をうろつき、魔法を使えるものを訪ね歩いておったそうじゃ。
そういえば一度、そやつが一人でいるから金でも奪おうと思ったのじゃろう。襲った奴らがいたはずじゃ」
「その方たちはどうしたのです?」
「返り討ちにあったらしいのぉ。そやつは魔法を使えたらしい」
「その返り討ちにあった方々はどちらにお住いか、ご存知でしょうか?」
「さてのぉ……そうじゃ、思い出したわい。口で言うてもわかるまい? 待て待て、そ奴らがよく溜まり場にしている場所までの地図を描いてやろう」
銀貨をちらつかせたウィンを見て、老婆はいそいそと椅子から立ち上がると、奥から麻紙を持って来ると、炭を使って道らしきものを描く。
「ありがとう、お婆さん!」
銀貨を一枚渡して地図を受け取ったウィンは、老婆に頭を下げた。
「次は薬を買う用事で来てほしいねえ」
ウィンに続いてロックとコーネリアも老婆に礼をすると、三人は揃って店の外へと出た。
「あ、お兄ちゃん。お話は終わったの?」
入り口の外で待っていたレティシアが振り向くと、ウィンに駆け寄ってくる。
「ああ、終わったよ。収穫もあった。ローラさんに感謝だな」
「そっか、良かった」
「レティは大丈夫? 気分でも悪かったのか?」
「大丈夫だよ。ちょっと新鮮な空気が吸いたかっただけだから」
「コーネリアさんは、よくあの臭いを我慢出来たね」
「私もきつかったですけど、いつの間にか気にならなくなっていました。お鼻がおかしくなってなければいいですけど」
鼻に手を当てて、コーネリアが笑う。
「あの店にいると、この場所でも外の空気が美味しく感じてくるのを、何て言えばいいのか……」
店の中の澱んだ空気はロックにもきつかったのだろう。何度も深呼吸を繰り返すロックにならい、ウィンも胸いっぱいに空気を吸い込む。
貧民街に入ったばかりの時は、この場所も酷い臭いが立ち込めていたのだが、慣れてしまったのか既に気にならなくなっていた。
あの薬師の店の中に比べれば、たとえこんな場所でも外の空気のほうが何倍もマシだった。
「まずはそのホフマイン子爵公子殿の似顔絵を作るか、肖像画を手に入れてこよう。そしてその返り討ちにあったという連中を探しだして、魔法を使った人物がホフマイン子爵公子殿かどうか確認だ」
「ああ、そうだな」
ロックの言葉にウィンは頷いた。
◇◆◇◆◇
ウィンたちが薬師の店の前を去って半刻後。
「おい、婆さん!」
老婆の店の中へ男が一人、転がり込んできた。
「おや、あんたかい? どうだったい、首尾の方は? 若い娘が二人もいたが、どちらも上物じゃったろう?
あれはきっと、どこかの貴族か大店の娘さんに違いないね」
ウィンたちが訪れた時に老婆が一度奥へと引っ込んだのは、火にかけている薬缶を外すためではなく、男たちに合図を送ったためであった。
客の四人のうち、二人が若い娘。
顔を隠していたので、合図を送った時には娘たちの容姿は分からなかったのだが、どんな娘であろうと若ければそれなりの値段がつく。
そして、話し始めてフードを脱いだ際、どちらも高値で――特に金髪の娘はとびっきりの高額で――売れそうだったため、老婆は年甲斐もなく内心で小躍りしそうなのを我慢するのに苦労したのだ。
しかし――。
「婆さん、何ていう奴らを紹介してくれたんだ。ありゃあ化け物だ」
そう言った男の顔は、血の気が引いて真っ青だった。
男とその仲間たちは、老婆の合図に従って店の周囲を包囲して身を隠していた。
客の四人が店を出たら、気付かれないように後を追い、人気のないところで襲撃するつもりだった。
ところが身を隠していると、店の中から小柄な人影が出てきた。
体形から女だとわかる。
一人で外に出てきたのならば好機である。
男たちは、すぐにその出てきた娘を攫おうと考えた。
後から出てきた仲間が、先に外へと出て行った娘の姿が無いことに慌てて探し始め、更に人気のないところや、分かれて行動などしてくれればなおさら良い。
そして潜んでいる物陰から足を一歩踏みだそうとして――。
全身から冷たい汗が噴き出した。
中にはその場でへたり込んでいる者もいる。
男たちは知る由もないが、それは少し前に同じような場所で、ケルヴィンという男からとある組織の構成員たちが味わったものと同様のものだった。
しかし、今回はその時のケルヴィンのように娘は技を見せていたわけではない。
ただ静かに立っているだけ。
だが、娘から放たれる気配に男たちは怯えていた。
貧民街では、男であろうとも一歩踏み間違えると、命を落としかねない場所である。
男たちは徒党を組み、それなりに腕っ節には自信があったものの、街で幅を利かせる程の組織でもなく、弱小の立場だった。
強い者、危険なものには敏感だった。
それが功を奏したのだろう。
まるで狼の大群に出会ってしまったか弱い野うさぎのように、気配に圧されてしまった男たちは、その場から動かず息を潜めて身を隠し続けることになった。
やがて他の三人が店を出てきて娘と合流し去っていったのを見て、ようやく一息ついた。
四人の姿が見えなくなると、男たちは一斉に詰めていた息を吐き出した。中には空を見上げてへたり込み、涙を流しながら神に祈っている者もいた。
そして頭的な存在だった男が一人、事の顛末を伝えるべく、老婆の店の中へと入って行ったのである。
「あ、あいつに比べたら、先日の魔導師なんて赤子みたいなもんだったと思うぜ」
まだ若干震えている手を見つめながら男が言う。
老婆は男の報告を黙って聞いていたが、男が口を閉じると残念そうに首を横に振った。
「そうかい……そいつはしまったねぇ。儂、あやつらにお前さんたちのねぐらを教えちまったよ」
「なんだって!」
再び真っ青になる男を見て、老婆は溜息を吐いた。
「しょうが無いじゃないか。まさかそんな化け物とは誰が思うもんかい」
「いや、しかし……」
ねぐらを変えるかと慌てている男に対して、老婆は椅子から立ち上がると、奥に向かって歩き出しながらゆっくりと言った。
「ねぐらを変えたところですぐに探しだされるのがオチさね。
もしもその娘がお前さんの言うとおり本当に化け物なんだとしたら、大人しく知ってることを全部喋っちまえばいい。
もちろん、貰うものは貰ってな」
「あ、ああ、そうだな。命あっての物種だしな」
急いで店から出て行く男に振り向きもせず、店の奥へと入った老婆は、小さな物入れを横に押しのけた。そこには小さな戸があり、老婆のささやかな蓄えが隠されている。
隠し戸を開けて中にあった小さな壺の蓋を開けると、ウィンとロックから巻き上げた銀貨と銅貨を放り込み、フヒヒと笑うのだった。
後日、再び貧民街を訪れたウィンたちは、手に入れたレイモンド・ヴァン・ホフマインの似顔絵を持って、老婆の地図を頼りに男たちのねぐらを訪れた。
無法者の貧民街の男たちを相手にするということで、話を聞くだけでも相当の労力が掛かるだろうと覚悟して行ったのだが、男たちはウィンたちの質問に驚くほどスラスラと答えてくれた。
言葉遣いすら大変丁寧なものだった。
「いや、貧民街だからって先入観は駄目だな」
「そうだな。まともな人もいるんだよ」
「考えてみれば、商売に失敗して逃げ込んだ人とかもいるわけだし、うちの商会にも貧民街に住んでいて、納品している人もいるわけだしな」
「先ほどの人たちも、こちらに住みながらも、帝都で何がしかの仕事をされているのかもしれませんね」
話を聞いた帰り道、ウィンたちはそんな事を話していた。
男たちに宮廷魔導師団から持ちだしたレイモンド・ヴァン・ホフマインの似顔絵を見せると、確かに男たちが襲った人物によく似ているとの証言を得た。成果を得たことで、気持ちも前向きになっていた。
その一方で、ウィンたちが去ったねぐらでは、ぐったりと疲れ果てた男たちが倒れこんでいたのは余談である。