破壊神
「ノアレ……?」
ウィンとレティシアには、その名に聞き覚えがあった。
リヨン王国サラ・フェルール大神殿建設予定地である岬の祠。地下深くに降りる階段の先、深海の底に封じられていた古き神殿。そこに祀られていた破壊の神の名が『ノアレ』。
「久しぶりだな、人間達よ。あの時見た顔触れとは別の者もいるようだが、息災なようで何よりだ」
ウィンの姿を象った破壊の神は、うっすらと微笑みを浮かべてみせた。
「皇帝よ、そなたの言う通りここを騒乱の中心と睨んだ我の勘は誤りではなかったようだ。人間よ、御身との再会を夢見ていた我は、今昂ぶりを覚えておるぞ」
「お、おい……知り合いか?」
「いや……知り合いじゃない……よな?」
「うん……あんな邂逅の仕方で、知り合ったと言えるのかな?」
ノアレがウィンを見つめて話すのでロックがそう尋ねたが、ウィンとレティシアの返答は曖昧なものだった。
破壊神ノアレ。
ウィンとレティシアは確かに破壊神と戦った。だが、正確には破壊神ノアレの力を禁忌の魔法で降ろした人間とだ。
降ろした人物の名はレイナード・ヴァン・ホフマイン。そして破壊神の力を宿したレイナードに殺害された後、その肉体をレイナードの魂に奪われたミトとだ。
戦っている最中の破壊神の器となった肉体の意識は、レイナードのものだったはずである。
そこに破壊神の意思のような物は感じられなかったのだが。
「我の力こそ我そのもの。我は深淵なる闇の底に意識をたゆたわせ、あの戦いを夢見るように見ていた。そしてあの時、我は見ていたのだ。深淵なる闇すらも切り裂いて差し込む黄金色の輝きを。御身とその娘の間を結ぶ強き絆が生み出した奇跡の光を。その輝きが我の意識を覚醒させたのだ。その責任は取ってもらわねばなるまい」
ゆっくりと玉座への階段を降りるノアレ。
ノアレが一歩ずつ近づくにつれ、まるで質量を持っているかのような圧力を感じる。
「すまぬな。これでも我は力を抑えているのだが、それでも定命の者には辛いらしい」
「破壊の神ノアレ様。お伺いしてもよろしいでしょうか?」
ウィンはちらりと玉座に座ったアレクセイを窺った。どうやらこの場での発言を許してくれるらしい。破壊の神と人の騎士の邂逅を純粋に楽しんでいるらしく、興味深そうに眺めている。
「責任を取ってもらわねばならないと仰せですが、責任とは一体?」
「もちろん、我の意識を覚醒させたことだ。本来、我が覚醒する時は、この世界が寿命を迎えた時にと定められている。それを無理やり起こしたのだ。ならば、責任を御身に取ってもらわねばなるまい?」
「いったい、私に何を望まれているのでしょう?」
「我の望みはただ一つ。我と戦え! そして我にもう一度、我を敗北へ導いたあの輝きを見せてみよ!」
「あれは……っ!」
ノアレの言葉にウィンはレティシアを見た。
「あの力はレティの、彼女の力です。俺自身の力じゃないんです」
破壊神の力を退けたのが己自身の力ではない事を恥じ入るウィン。
「それは違う。それだけでは我の力には勝てぬ。実際、御身に力を与えたその娘は我の力を破るまでにはいたらなかった。何を恥じ入る必要があるのか。御身は定命の者たる身で、我に勝利を収め、瞠目をさせるという快挙を成し遂げたのだ。その力は御身自身のものだ。そなたもそう思うであろう? アナスタシアと世界樹の祝福を受けし娘よ」
ノアレに問われ、レティシアは迷いなく頷いた。
「取るに足らぬはずの人間が発したあの光。あのような美しき輝きに匹敵するものを、永き時に存在する我ですら他には知らぬ。あの時見せた奇跡の光を、我と戦い再び見せよ」
「ですが自分にはあなたと戦う理由が……」
「戦う理由なら、我が御身に与えてやろう」
ノアレはそう言うと、玉座を見上げた。
「我は御身を待ち続ける時間を、皇帝に頼みこの場所で過ごさせてもらった。騒乱の顛末を見届けることは、我が無聊を十分に慰めてくれた。その礼はせねばなるまい。そして皇帝よ、我にできる礼は破壊をすることだけだ。よって、我は皇帝の前に立ち塞がるものを破壊して見せよう。それでよいか?」
「十分だ。破壊の神よ」
皇帝が頷くとノアレは不敵な笑みを浮かべて、ウィン達を振り向いた。
「さあ、どうする? 先程の様子を見れば、皇帝は軍を率いて世界を相手に戦うつもりだ。そして我が力を貸す事で、皇帝の望みは容易なものとなろうぞ。それを止めるには、我と戦い勝利するしか無いぞ?」
「レティ……」
「お兄ちゃん」
ウィンとレティシアはノアレの言葉を聞き、顔を見合わせ頷き合う。
どうやらこれ以上戦火を広げないようにするためには、この破壊の神と戦って勝利をするしかないようだ。
レティシアの身体が黄金色の輝きを放ち、ウィンもまたレティシアの光に包み込まれた。
「そうだ……それが見たかったのだ」
ノエルの口が歓喜の声を上げた。
謁見の間にノエルの神威とレティシアの魔力によって生じた白光が溢れだす。
「ここでレティと神様が本気で戦ったら、皆は、シムルグは大丈夫なのか?」
「安心するといい。この広間の中でなら、どんなに力を使ったとしても建物も柱も壊れはしない。我は破壊を司る最も古き神の一柱だからな」
「至れり尽くせりね」
「そうでなければ、御身らも本気では戦えまい? この場にいる者達にも、我が庇護の下にあるので安心するがいい」
気がつくと、コーネリア、ロック、ウェッジ、リーノ、ケルヴィンの五人と部屋に残っていた近衛騎士、失神しているノイマン、そしてジェイドの亡骸までもが玉座に続く階段へ移動していた。
ノエルが飛ばしたのだろう。
つまり謁見の間入り口から、玉座へ続く階段までが戦闘領域というわけだ。
「正直助かりましたね」
「ふくちょー、私ここで死ぬかと思いました」
実際涙目になったリーノがそう零すと、その場へうずくまった。小さく丸まったその背中をウェッジが安心させるかのように擦ってやる。ただ、そのウェッジの表情も固く強張っていた。
どうやら階段の一番下の所に何らかの結界が張られているのか、リーノ達のいる場所まで中から漂う超常の力は感じられなくなっていた。
謁見の間ではウィンとレティシア、そしてノエルの間で緊張感が高まっている。
「神と人の最高峰にいる者の戦いか。特等席だな。商売にしたら高く売れそうだ」
緊張感を誤魔化すためかロックが冗談を言う。
「確かにそうですね。滅多に見られない戦いを見ることができそうです。その戦いへの参戦資格が無いことが、不本意ですけどね」
「さすがふくちょー……あんなの見て、よくまだ戦いたいと思いますね」
ケルヴィンの言葉にようやく落ち着いたリーノが呆れたように呟く。
「そういえば喉が渇きませんか? そこの近衛の方、すみませんがお茶か冷たい水をここにいる人数分、頂くことはできませんかねぇ?」
「「えええええええっ!?」」
部下達が驚きの声を上げる中で、ケルヴィンは常と変わらない態度で近衛騎士の一人に言う。
「あ、ああ。確かに私もこの緊張感で喉が乾く。詰め所から飲み物を取ってこよう。陛下、飲み物をお持ち致します。退出の許可を頂けますか?」
アレクセイの許しを得て近衛騎士が二人、玉座の後ろにある皇帝の居室へ続く廊下へと歩いて出ていった。
あの廊下の先にも近衛騎士団の詰め所があるらしい。
二人が出ていくのを見送って、コーネリア、ロック、ウェッジ、リーノの再び呆れたような視線がケルヴィンへと突き刺さった。
「いや、だって、ほら。コーネリア殿下も喉がお渇きになられているでしょう? この場所は破壊の神様が御自ら安全だと保証してくださったのです。なら命の危険は当面ありませんし、緊張しっぱなしでいても、疲れるだけでしょう」
「はあ……ふくちょーのその神経の太さだけは、本当に尊敬するわ~」
「さて、そろそろ始まりそうですよ。この戦いはある意味、魔王との戦いよりも人類の趨勢を決める大事な戦いです。何しろ、相手は破壊神。本当に世界が滅びかねないのですからね」
「ウィン君……」
胸元で手を組むと、コーネリアが祈りを捧げる。
その横でケルヴィンは乾いた唇を舌でチロリと湿らせて、対峙している破壊神とウィンとレティシアの方を見る。
(さて、相手は魔王すらも存在が霞む化物です。となると……いよいよという時には、私は私なりにあの二人を援護するという隊長に与えられた役目を果たす時が訪れるかもしれませんね……)
「さあ、存分に戦おうぞ!」
破壊の神のその一言が引き金となった。
ノアレの周囲に光が生まれる。ひとつ、ふたつ、みっつ――生まれた光はノアレの周囲を回り始めると、やがて帯状の形状を取っていく。光の蛇だ。
世界に終わりが訪れた時に世界のあらゆるものを呑み込むとされる終末の蛇。破壊の神が操るに相応しい形の力。
光の蛇は瞬く間に十二匹にまで増えると、丁度蛇が鎌首をもたげるようにノアレの頭上へと集まり、稲妻の矢の如くウィンとレティシアへと殺到した。
『我に力を!』
レティシアから流れ込む魔力を存分に騎士剣へと流し込み、ウィンは光の蛇を迎え撃つ。
本物の蛇のごとく光の尾をうねらせて迫る蛇。その頭部を次々と斬り落とした。
生物を斬るような手応えは感じない。だが、バチンッと一瞬だけ強く輝きを放つと、光の蛇は空中で霧散して溶け消える。
「あれだけの数の光蛇をよく斬り落とす。それでこそ御身と再び相見えるのを夢に見た甲斐がある」
全ての光蛇を叩き斬られてもノアレに痛痒は与えられていない。今のはほんの小手調べのつもりだったのだろう。
歯を剥き出しにして獰猛な笑みを浮かべる。
「お兄ちゃんにそっくりな顔で、あんな顔はしてほしくないな……」
「……同感です」
ウィンと同じく光蛇を叩き斬ったレティシアの呟きに、結界の外にいるコーネリアが同意した。
謁見の間に力の嵐が吹き荒れる。雷鳴が轟き、空気が唸りをあげる。時折、謁見の間を覆う結界付近で、激しく閃光が走っていた。
「我は概念的存在故に肉体を持たぬ。ゆえに御身の身体を模して戦っているのだが、どうやら娘達には不評のようだ。だが、我がその力を人の器の形に保たねば、まともな勝負とはならんからな。許せ」
「つまり、あんたはこれでも一応手加減してくれているのか?」
激しさを増す雷光と部屋の大気が暴風の如く渦巻く様を見ると、ウィンにはとても手加減されているとは信じられない。
再びノアレの周囲で光の蛇が現れる。しかもその数は二十四にまで増していた。そして今度は一直線に飛来するのではなく、地面と跳ねるように不規則な動きでウィンとレティシアへと襲い掛かった。
「聖霊剣よ」
ノアレとの間合いを詰めるレティシアの手に握られた剣が、眩く輝きを放った。
『勇者』メイヴィスが魔王を討ち倒した時に振るった聖なる剣――『聖霊剣』。創世の女神アナスタシアより賜ったという神剣を縦横無尽に振るい、華麗なる体捌きで光蛇の攻撃を躱す。
ノアレから無尽蔵に湧き出す光蛇をレティシアは次々と斬り裂いた。その戦う姿は舞を踊るよう。彼女の剣が閃く度に、光蛇は輪切りにされて光が弾け、宙へと霧散していった。
しかし、幾らレティシアが華麗な剣技で光蛇を切り裂いても、光蛇は後から後から湧いて出る。ノアレの神威は増すばかりで、これでは際限が無い。
いや、いずれは物量差でレティシアが押し切られかねない。
ならば、光蛇を無視してノアレ本体を叩く。
ウィンは光蛇の迎撃を全てレティシアに任せると、反撃に移る。大地を跳ねる光蛇のほんの僅かな隙間を縫って、ノアレへと迫る。
だが、刹那の一瞬に背筋にゾクッとしたものを感じたウィンは、咄嗟に剣を引いた。
横合いからの斬撃。
騎士剣で受け止めたが、その威力を流しきれない。
ウィンの身体は軽々と弾き飛ばされてしまった。
ノアレの手には、いつの間にか光の剣が生まれていた。細身の剣なのだが、その一撃は重量のある槌で横殴りにされたようだった。
一方、増え続ける光蛇を迎撃していたレティシアは、ウィンが弾き飛ばされたのを見て、自身も大きく後方へと飛び退いて間合いを取った。
「っくぅ!」
そして剣先に魔力の光球を生み出す。
数を増すばかりの光蛇を纏めて消滅させようと、レティシアは光球に自身の膨大な魔力を注ぎ込む。
みるみる内に膨れ上がった光球は、かつて魔物の大軍を薙ぎ払い、山一つを消し飛ばした。
その魔力がレティシアの気合いの声と同時にノアレへと放出される。
「む?」
これにはさすがにノアレも表情を引き締めた。
光の蛇を一つに纏め上げる。
そして生まれた光の大蛇は大口を開けると――。
「おいおい……」
見ている者全てが絶句する。
光の大蛇はレティシアの放った膨大な魔力を誇る光球を呑み込んでしまうと、消滅してしまったのである。
「あれを打ち消すなんて……」
レティシアですら唖然とした顔で、ノアレを見ていた。
「レティ!」
呆然としていたレティシアはウィンの声ではっと我に返る。
ウィンがレティシアに目配せをする。それからウィンはノアレ目指して駆け出した。
それを見てレティシアもウィンの見出した好機に気づく。
レティシアの光球によってノアレの周囲を取り巻いていた光蛇は全て消滅している。攻撃を加える好機。
「接近戦か! 望むところよ!」
ノアレが両手に光の剣を生み出して迎え撃つ。
『勇者』、『剣の神姫』、『神に限りなく近づきし存在』のレティシアと、『勇者の師』、『剣匠』候補のウィン。それはレティシアが魔王を討伐して以後、初めての師弟による同時攻撃だった。
至近距離でレティシアは魔力の塊をノアレに撃ち込んだ。その一発一発が巨岩を砕き、大地をえぐり取る威力を持つ。
並の生物であれば確実に致命傷となるその魔法を、ノアレは右の手に持つ光の剣で叩き落とし、その威力を相殺せしめた。
横合いから、背中から、時には頭上から襲い掛かってくるウィンの斬撃を、左の手に持つ光の剣でその全てを捌ききる。
防がれても防がれても、ウィンとレティシアは互いの位置を激しく入れ替えてノアレを幻惑し、攻撃を仕掛けていった。ノアレに反撃の暇は与えない。お互いの身体を死角として利用しつつ、ノアレに向けて攻撃を放つ。
そして均衡がついに破れる時が来た。
レティシアが放った魔力の塊をノアレがまたしても、右手の剣で打ち払った時。
「――むっ!?」
光球を相殺した際に覚える衝撃がまるで感じられない。そして光球は霧散するのでは無く、一際強く、謁見の間にある影を全て塗りつぶさんが如く、眩い輝きを放つ。
その輝きはノアレの視界をも奪ってみせた。
ウィンと戦うために人に模したノアレ。視界も人と同じく目に頼っている。
それでも神の超感覚で空間の把握もできていたのだが、想定外に視界を奪われたことで、咄嗟に感覚を切り替えることができず刹那の隙きを生む。
その隙を見逃すウィンではない。
レティシアの作った僅かな好機。ウィンは瞬時に踏み込むと、ノアレの腹部へ剣を突き出した。
そして――。
甲高い音が辺りへ響きウィンの剣は、硝子細工が割れるように儚く砕け散っていた。
「――惜しかったな。御身の剣がもう少し頑丈なものであれば、我が身を貫けたであろうに……。御身の持つその剣では、強度が不足していたようだ」
剣を砕かれて慌てて間合いを取るウィン。
「これまでの攻撃は、今の攻撃を繰り出すための布石だったか。実に見事であった。堪能させて貰ったぞ。次はどんな手で来る?」
楽しげなノアレに、ウィンとレティシアの背中に冷たい汗が流れ落ちる。
武器を失ったウィンは、レティシアから貰った短剣を握りしめた。
レティシアが皇位継承権の保持者であることを示すこの短剣。魔法を斬り裂き、固い物を切り裂いても刃毀れしない強力な魔法剣だ。量産品である騎士剣よりも遥かに高品質の宝剣だが、その短剣であっても果たしてノアレ通用するのか。
愛用の騎士剣がいともあっさりと砕け散ったのを目の当たりにしたウィンは、迂闊に間合いを詰めることもできない。
その時、謁見の間に異変が起きた。