(仮)
それはとても長い時間のように感じられたが、実際には数秒の事だったのかもしれない。
レティシアは唇を離すと、恥ずかしげに、でもとても嬉しそうな笑顔をウィンに向ける。
「だからね、ウィン。見せてあげて、あなたの剣技を。『剣聖』『剣匠』二人の最強ですら無視できない、私の最愛のお師匠様」
ウィンの身体がレティシアと同じ黄金色の輝きに包まれていた。
「これは……」
信じられない程の力が、ウィンの裡に湧き上がる。
感覚が研ぎ澄まされ、周囲を掛け巡る大気の動きが、風に舞い上がる土埃の一粒一粒が、全て手に取るようにわかる。
全能感。
一言で言えば、そう呼べるような感覚かもしれない。
「あれは《付与魔法》? でも、《付与魔法》なら…‥…」
黄金の輝きに包まれたウィンとレティシアを見て、リアラは信じられない思いで呟いた。
「あれが《付与魔法》なら、どうして効果が減衰していないの……」
リアラは知らない。
「ねえ、覚えてる? 小さい時の事。イフェリーナちゃんと初めて会った時の
事。私がお兄ちゃんに魔法を掛けた時の事」
かつて、幼い頃のレティシアはウィンに《肉体強化魔法》を使った事がある。
それはイフェリーナという翼人の少女を巡る戦いの中で、ウィンは強大な力を持つ魔族と戦った時の事だ。
ヴェルダロスというその魔族は、帝国の騎士と魔導師を、そしてオールト、ルイス、イリザたち冒険者を圧倒した。
あの時レティシアは、魔族を相手に戦う騎士たちの使う《肉体強化魔法》と、レイナードにとって実の息子となる魔導師レイモンドの《付与魔法》を模倣し、改善し、よりウィンにだけ効果を現すように魔法の構成を無理矢理創り変えて施した。
レティシアの魔法で強化されてヴェルダロスを倒したウィンの、身体はあの時も今と同じように、黄金の輝きに包まれていたのだ。
「ああ、覚えてるよ」
「あの時から私はずっとこう思っていたの。私にとって『最強』は騎士でもない。物語に出てくる『英雄』でもない。ましてや『剣聖』『剣匠』『剣神』でもないわ。私にとって『最強』であるべきは『ウィン・バード』、ただ一人。ずっと、そう思ってたのよ」
レティシアはそう言うと、ウィンから一歩だけ離れた。
そして、訝しげな顔して成り行きを見ていたレイナードへと向き直る。
「レイナード。ここからは私では無く、私のウィンが相手をします。深い闇に囚われた幼い私に光を差した、我が師の剣。受けてみるといいわ。彼こそ、私が世界で唯一、勝てないと思い知らされた存在よ」
そう言うと、レティシアは祭壇の上から飛び降りた。
そしてリアラの傍へと歩み寄る。
「レティ……」
「レティちゃん」
アベルがレティシアの惨状に絶句する。
レティシアの剣を持つ右腕は折れて腫れ上がっていた。
リアラは早速、レティシアに《治癒魔法》を唱えようと目を凝らし、そして気づいた。
「ウィン君と魔力を繋げている? いえ、注ぎ続けているの?」
「わかる?」
痛みが無いはずは無いのに、しかしレティシアは嬉しそうに笑う。
「どさくさに紛れてキスしちゃった。おかげでお兄ちゃんと更に繋がりを強くできたからね。魔力を注ぎ込みやすいの」
「でも、そのせいであなたの自己治癒力はものすごく低下しているわ」
「構わない。お兄ちゃんが勝てなかったら、多分他の誰も勝てないと思うもの。第一、このくらいの怪我ならリアラが治してくれるでしょ?」
「それはそうですけど……」
リアラは小さくため息を吐くと、軽くレティシアの頭を小突いた。
「あなたの魔力は私とは比べ物にならないくらい量があるから、回復魔法の効き目は弱いんです。他の人なら一瞬で治せる怪我ですが、少しの間痛いのは我慢して下さい」
「はーい」
そう言うと、リアラはレティシアの右腕に《治癒魔法》を掛け始める。
「あ、あのさ。レティちゃん……」
「なあに?」
アベルが迷うように目線を左右に動かすと、それから意を決したようにレティシアの顔を見た。
「今更聞くのもなんだけど、レティちゃんって勇者様なのか?」
「うん……まあ、そう呼ばれてる」
「マジか……もしかして知らなかったのって…‥…」
「まあ、そう公言してるわけじゃないから知らない人もいると思うよ? でも、
冒険者ギルドで古株の人は皆知ってる」
「なんだって!?」
アベルは小さな声で「クソォ、あいつらぁ」と毒づくと、それから小さく咳払いをした。
そして恐る恐るレティシアに問う。
「あのさ……さっき言ってた『私のウィン』って奴、あの、その……レティちゃんはウィンの事を好きなのか?」
「うん」
レティシアがはにかむような笑顔で頷いた。
「そっか…‥そうか。だったら、なおさらウィンの奴、負けられないな」
「?」
「好きな女の子がキスまでして応援してくれたんだ。これで負けたら男が廃るだろ?」
アベルはそう言うと、その場にどっかりと座り込んだ。
「俺もウィンが勝つことを信じるさ。あいつは強い。お前らは忘れてるかもしれないけどな、俺だってウィンが騎士を目指す思いに憧れて、俺は冒険者になったんだぜ?」
ウィンを見つめる二人のウィンの幼馴染に挟まれて、リアラは黙ってレティシアの腕に《治癒魔法》を掛け続ける。
ただその唇には、微かな微笑みが浮かんでいた。
「ちっ、勇者め、ふざけた真似を。まあ、いいや。君をさっさと殺せば、きっと怒り狂った勇者と戦えるだろうし。それはそれで、楽しみだ。というわけで、君にはさっさと死んでもらうよ」
祭壇を降りたレティシアを挑発する言動。
そしてウィンの攻撃を誘うように、わざとハルバードを構えず隙を見せてみたのだが、レイナードの思惑に反して、ウィンは動こうとしなかった。
先程までのレティシアと同様、ぶらりと剣を右手に持っている。
「ちっちっち、そちらが動かないのなら、こちらから行くよ。どうやら、君は魔法を使わないようだね。なら、これはどうかな?」
そう言うとレイナードは、無数の赤光弾を生み出して放った。
赤光が尾を曳いて、ウィンの身体を貫こうと迫り――。
ウィンの後方へ着弾した。
「何?」
赤光弾が着弾し、連続して起こる爆発音。
だがウィンは気にも掛けず、そしてそんなウィンをミト=レイナードは、先程までの笑みを消して見つめていた。
「なら、これならどうだ?」
ミト=レイナードは更に赤光弾の数を増やす。
その数は数十もあるだろうか。
そして赤光の尾を曳き、先程の赤光弾よりも数倍早い速度でウィンに襲いかかる。
だが。
その赤光弾もまた、ウィンの背後に着弾し爆音と共に破壊を撒き散らしただけであった。
「そうか。レティはこんな領域で戦っていたんだな」
その爆音に混じって、レイナードの耳にウィンの独白が聞こえてきた。
「ちちっ、何を言っている?」
「ズルいなぁ、これはズルいよ。レティ」
「おのれ……僕を無視するなぁ!」
連続して赤光弾を生み出し放つレイナード。
しかし、その尽くがウィンの背後へと着弾する。
「なぜだ……なぜ、当たらない!?」
レイナードが外しているわけではない。
全ての赤光弾を、ウィンがほんの微かに動くだけで躱しているのだ。
あの『剣の神姫』ですら、時には剣で弾き、魔法で作った盾で防いでいたレイナードの攻撃を、ただの体捌きだけで躱す。
その事実に気付いた時、レイナードの裡にある『剣匠』ミトの経験が、激しく警鐘を鳴らす。
奴を剣の間合いに近づけるな!
距離を取って戦え!
(何なんだ、こいつは!?)
赤光弾では捉えきれない。
ならばと、レティシアすら捉え傷つけた、石槍を床から大量に生み出し、そして石の矢を天井から雨の様に降らせる。
ウィンは足下から襲いかかる鋭い石の槍も、視覚から降り注ぐ石の矢も、目で追う事すらしなかった。
最初から何処に槍が現れ、どこに矢が降ってくるのか。まるで知ってでもいるかのように、わずか半歩ずつ動くことで躱してしまう。
ウィンの神経は信じられない程に研ぎ澄まされていた。その感覚は、ほんの僅かな床や天井の変化、そして空気の動きすらも気配で感じ取れた。それどころか、レイナードの魔力の動きすらも捉えていたのである。
「ええい! この!」
遂に痺れを切らしたのか、レイナードがハルバードを振り上げる。
実際の所、ウィンにとってはミトの技を使って戦われたほうが脅威に思っていた。
なぜなら、確かにレイナードは魔導師の業を以ってレティシアを圧倒してみせた。だがそれは、レティシアが魔法について、専門の知識を持っていないためだ。術の引き出しの数では本職の魔導師であるレイナードとは勝負にならない。
しかし、所詮レイナードは魔導師としては宮廷魔導師にもなれなかった程度の男だ。
ウィンやレティシアよりも魔法の引き出しは多くあっても、底は浅い。
一方でミトの武芸の技は、至高の域に達している。
百数十年という鍛錬によって昇華されたその技は、侮れない。
実際、レティシアが敗れたのはレイナードがミトを殺害し、その肉体と経験を奪ってからだった。
魔導師レイナードでは、例え神の力を得たところでレティシアには勝てない。
当然、ウィンにも通用するはずもない。
だからこそ、『剣匠』ミトの武芸は脅威となるはずだったのだが、ウィンはその技を一度見ていた。
ウィンはずっと見ていたのだ。
レティシアがレイナードと繰り広げる戦いの一部始終を。
最愛の女性が傷つけられていくその姿を、ウィンは目を逸らさずに見つめていたのだ。
レイナードのハルバードが唸りを上げて、ウィンの頭部に迫ったかと思えば、その身をくるりと半回転。後ろ向きに石突をウィンに突き入れる。
その攻撃を完璧に読み切り、ウィンは身体に触れさせる事も無く躱してみせる。
(その技はさっき見たよ)
冷静に次々と繰り出されるレイナードの攻撃を受け、流し、躱す。
そして逆に剣で以って攻撃に移る。
ウィンの攻撃をハルバードの柄で凌ぎ、距離を取ろうとするレイナード。
だが、それをウィンは許さない。
ミトの眼球の動き、一瞬の筋肉の緊張から、その動きの先を読む。
間合いを開かせない。
徐々に追い詰めていく。
そして――。
トンッとレイナードは、壁際まで追い詰められた。
もうこれ以上は後方へ逃げることはできない。
「な、何なんだ!? 貴様は!」
驚愕と恐らくは恐怖によって目を見開くレイナードに、ウィンは答えてやった。
「さっき、勇者のレティが言っただろう? 俺はその『勇者様のお師匠様』さ」
そしてウィンは全力で剣に魔力を流すと、眩く太陽のように輝く黄金の刃で、レイナードの身体を切り裂いたのだった。
「やったね、お兄ちゃん」
「やったな、ウィン」
「あ、ああ」
レティシアが、アベルが、そしてリアラが歩いてくる。
「ミトさん……」
ウィンは三人に応えつつも、深紅の輝きが薄れつつあるミトの亡骸を見つめ続けていた。
ウィンが手に掛けたわけではない。
レイナードの放った魔法によって、ミトは心臓を貫かれ、殺された。
ウィンが斬った時には、確かにミトは死んでいたのである。
だが、ウィンは一つ不思議に思う事があった。
それはレイナードの武芸の技。
例え魔法によってその肉体を乗っ取ったとしても、その肉体に刻まれた経験と技を、ただの魔導師だった男が使いこなせるのか。
レイナードの身体には、もしかしたら、ミトの意識も宿っていたのでは無いかと思うのだ。
数十年という長き歲月を通して『剣匠』の座に在り続けたミト。
ミトが若く絶頂期だった頃、『剣聖』は行方が知れず、『剣神』は長き戦争の真っ最中で、彼は好敵手に恵まれなかった。
そして無情にも時は流れ、老いはミトの身の上にも平等に訪れる。
『剣匠』と対等の立場たる新たな『剣聖』が世に現れた時には、ミトの肉体はすでに絶頂期を過ぎていた。
鍛え抜かれた技を、強敵相手に思う存分奮って戦いたい。
それは戦士の本能。
ウィンにだって、同じような思いはある。
強敵に恵まれず。老いてどんどんと技が鈍る事に、ミトはどう感じていたのだろうか。
そんな時にミトはマジルの山で、レティシアと出会った。
『神に限りなく近づきし存在』、『剣の神姫』、紛れも無い最強の存在。
戦いたいと思わずにはいられなかったのではないか。
そしてミトは、不意を突かれてレイナードに不覚を取った。
そしてその後、破壊神の力をレイナードによって流し込まれ、その肉体は若さを取り戻し、意識はレイナードによって乗っ取られた。
だが、ウィンは考えるのだ。
数十年に渡って『剣匠』の地位に在り続けたミト。その強靭な意思と精神力で、もしかしたらミトは意識を失うこと無く、レイナードと共に在り続けたのではないかと。
そして、絶頂期の頃の肉体を取り戻したミトは、逆にレイナードの意識を操って、念願だった強者であるレティシアと、そしてウィンと刃を交えたのでは無いか。
ミトは死んでしまった。
だからこれは、あくまでもウィンの想像である。
だが、何となくウィンはその想像があたっているように思い、ウィンは右手のひらに目線を落とした。
ミトの胴を薙いだその感触は、いまだ手に残っている。
この感触を生涯忘れないように思う。
ミトの振るう技は、ウィンがこれまでに見てきた技の中でも、最高のものだったから。
「さあ、帰ろうか」
ウィンはそう言うと、血で汚れるのも構わずミトの亡骸を抱え上げる。
こんな所に放置するのは忍びない。岬に土地を少し分けてもらい、ミトの亡骸はそこへ埋葬しようと考えた。
その時、キンッという高く澄んだ綺麗な音が鳴り響いた。
「お兄ちゃん、これ」
足下に転がったのは、ミトの腰帯に結わえられていた『剣匠』の証である金印。
金印は紐で帯に結わえ付けられていたようだが、ウィンはミトの腰辺りを剣で切った覚えはない。
だが、その紐は不思議な事に、まるで刃物で切られたかのような切り口で、綺麗に切断されていた。
「きっとミトさんが、『剣匠』の証をお兄ちゃんに託したい。そう言っているんだよ」
レティシアから受け取った金印は、純金製で重い。
だが、ウィンにはその金印が、見た目以上に重いように感じた。
それはきっと、ミトが守り続けた『剣匠』という称号の重さ。
(俺がこの『剣匠』の金印に相応しい人物とはとても思えませんが、これは僕がひとまず預かっておきます。いつか、この金印を渡すに相応しい人物が現れるか。それとも、俺自身がこの金印を身に着ける実力を身に付けるまで)
そしてウィンは立ち上がった。
「ところで、レティ」
「なに、お兄ちゃん?」
「何だ、ウィンて呼ぶんじゃなかったのか?」
レティシアは耳まで顔を赤く染めると、ウィンの足を蹴った。
◇◆◇◆◇
ウィンたちが立ち去り、再び静寂と深き闇だけとなった海底に広がる広間。
唐突に小さな光が生まれた。
最初、ロウソクの炎程度であったその小さ光は、瞬く間に大きくなると人の姿を形取る。
身の丈に合わない大きめの黒い外套に身を包むその人物の顔は、ウィンと見紛うばかりに瓜二つ。
青白い光を纏うウィンとそっくりのその人物は、しばし思案げに周囲を見渡すと、ゆっくりと外へと通じる通路に向かって歩き始めた。