冒涜
「ちっ、また会ったね」
ローブの男がウィンを見て言う。
「レイナード……」
ウィンはローブの男――レイナード・ヴァン・ホフマインを睨みつける。
「ほっ? 知っておる奴なのか?」
ウィンが漏らした人の名前に、ミトが聞く。
「ええ。以前、シムルグで起きた連続誘拐殺人事件の犯人です。そして、リーズベルトさんが見たという骸骨の魔族。それを召喚したのがこの魔導師です」
言うと同時にウィンは仕掛けた。踏み込みから棒を一閃。
しかし、その攻撃を予測していたのか、レイナードはウィンが足を踏み出すよりも僅かに早く、距離を取ろうと後退した。レイナードの頭があった空間を、ウィンの持つ棒が通り過ぎる。
だが、避けられてしまったものの、ウィンの攻撃はレイナードのフードを掠めていた。
弾けるようにフードが飛ぶ。
星と仮神殿より届く僅かな明かりに照らされて、頬の痩けた生気が感じられない老人の顔が顕になった。
「ちちっ、面倒な」
レイナードが苛立たしげに呟く。
そこにウィンが追撃をしようとした時。
「うわあ!」
アベルの悲鳴が聞こえた。
「アベル!」
追撃を諦めウィンがアベルの方を振り向くと、アベルが持っていた棒が、半ばから切断されて三分の一程度の長さになっていた。
棒を切り落とされてうろたえるアベルに、もう一人が横殴りに斬り掛かる。
その手に持っているのは鍬。
剣のような人を殺す武器では無く、農夫が土を耕すための道具。
だが、土を掘り起こす鉄の刃も、人に向かって勢い良く振るわれたなら、殺傷力は十分にある。
しかし、人を殴るために作られていない鍬は重い。その一撃は非常に鈍重なもので、身を躱すことは容易だ。ましてや、実戦経験を積んだ冒険者であれば、脅威にもならない。
アベルもトルクの村での一件以後、それなりに経験を積んでいる。
しかし、剣を持っていた相手に、唯一の武器だった棒を切り飛ばされ、そちらに意識の大半以上を割かれた所に、横合いから鍬を振るわれたなら――。
それも鍬を持つ男は、味方であるはずの剣を持つ男に当たっても構わないという勢いで振り回している。
アベルが気づいた時には、もう躱せない間合いにまで入っていた。
「救いを我らに……」
「ひっ……」
喉の奥から漏れる悲鳴。
「させんよっ!」
叫び声と共に、アベルと男の横合いから突き出されたのは、ミトが持つハルバードだった。
重量のある鍬ゆえ、叩き落とした所でその勢いは止められないと考えたミトは、ハルバードの石突きでその柄を正確に付く。
その結果、鍬の刃がアベルの身体に食い込む事はなく、アベルが咄嗟に身を守ろうと構えた棒に柄が当たり――。
「うわっ!」
重量のある攻撃に、アベルの身体が後ろに向かって飛ばされた。
決して軽いとは言えないアベルの身体を、易易と吹き飛ばす信じられない膂力。
鍬を持つ男の体格からは想像もできない力だった。
アベルは休憩所に有る机と椅子へ向かって突っ込んでいく。
「ふんっ!」
その間に、ミトは柄を突かれた衝撃で鍬を取り落とした男を横殴りにして地面に叩き伏せると、次に斬り掛かって来た男の剣を持つ手に、棒を叩きつけて剣を地面に落とした。それから、足を払って地面へと昏倒させる。
その直後、同時にアベルが机と椅子を巻き込んで倒れる盛大な音がした。
『剣匠』の一瞬の早業だ。
「力は大したもんじゃが、当たらねばどうということはないわい」
だが、ウィンは知っている。
「ミトさん! 気をつけてください! そいつらは異常な程の打たれ強さを持っています!」
「なんじゃと!?」
ミトが驚きの声を上げた。
「……救いを我らに」
地面に叩き伏せたはずの男二人が、ブツブツと呟きつつ、立ち上がる。
常人であれば、意識を確実に刈り取れたはずの一撃。例え、意識があったとしても痛みで、身体を動かすのは不可能。手応えのある一撃だった。
「ふむ……こいつは厄介じゃなぁ」
しかし、男たちは痛みを感じている素振りも見せず、その場をすぐに立ち上がる。
ミトはほうっと息を吐くと、棒で持つ手を握り締める。
(殴られた箇所が赤く腫れている様子もなし。これはいったいどうしたもんじゃ?)
「アベル、無事か!?」
「ああ……痛ぇけど……」
ウィンの呼びかけに、アベルから呻くような返事が帰って来た。
「ち……くしょう。何とか……」
「しっかし、こいつは困ったのぉ。殴りつけても意識を失わないのなら、後は骨でも折るしか無いんじゃが……」
問題は骨を折った所で、こいつらの動きが本当に止まるのかどうか。
その時――。
「その方たちは、どうやら魂を抜き取られてしまっているようですね」
普段は優しげな微笑を浮かべるその顔に、静かな怒りの色を浮かべたリアラ・セインが佇んでいた。
◇◆◇◆◇
「お兄ちゃん!」
リアラと共にやってきたレティシアが、ウィンの傍に駆け寄る。
「これは一体?」
地面に蹲ったままのセリの下へ、リーズベルトが駆け寄った。
「ちっ。これはこれは実に久しぶりだね。勇者メイヴィス」
レティシアに向かって大仰に一礼してみせるレイナード。
「私が召喚した魔族ルフを滅ぼした人物が、ちっ、まさか名高き勇者メイヴィスだったとは思わなかったぞ」
「お兄ちゃん、はいこれ」
しかし、レティシアはレイナードを気にする素振り見もせず、自然体のままでウィンに剣を渡す。
「ちちっ、なるほど。僕を歯牙にも掛けずか……。傲慢だ。実に傲慢な態度だね。勇者よ」
そんなレティシアの態度に気分を害したのか、レイナードの口調に僅かに険が混じった。
しかし、沸き起こる苛立ちを沈めるよう、一度大きく息を吐いた。
「まあいい。僕はずっとあなたに会いたいと思っていたんだ」
目を大きく見開き、歓喜の哄笑しつつ天を仰ぐレイナード。
「私に?」
「レティ、あいつとどこかで会ったことがある?」
まるで前からレティシアの事を知っていたかのように語るレイナードを見て、ウィンはレティシアに尋ねてみたのだが、彼女は小さく首を振って否定した。
「前にお兄ちゃんたちと一緒に、皇宮内の宮廷魔導師の塔に踏み込んだ時に、会っただけだと思うんだけど……」
レティシアは、記憶の中を探そうと、一瞬目を閉じて沈黙した。
勇者として旅をしていた時、様々な敵と戦う事になった。その相手は魔物とばかりでは無かった。その戦ってきた敵の中にレイナードがいたのかもしれない。
「やっぱり思い出せない」
「ちっちっちっ。知らないのも無理は無いよ。僕が君の事を一方的に知っているだけだからね。ちちっ、いや、君の事を一方的に知っているのは、別段、僕だけというわけじゃないか。君はとにかく有名人だからね。ククク……」
興奮を抑えきれないかのような含み笑いをするレイナード。枯れ枝のような細い身体を折り曲げて、小さく身体を震わせている。
「本当に……僕は、君と本当に会いたかったんだよ」
「レティに何の用なんだ? 復讐か? それとも敵討ちか!?」
「ククク……復讐。そう復讐が一番近いかもしれないね」
ウィンの言葉に含み笑いをやめたレイナードは、おどけた様子でレティシアを見る。
「己の分をわきまえず、我が師コンラート・ハイゼンベルクが成し遂げようとした偉業を、横から掠め取った君への復讐だよ。おお! 今宵、ようやく僕の願いが叶う……。僕の手であなたの御業を蘇らせ、勇者を殺し、その屍をあなたの墓前に捧げてみせましょう! そして、世界があなたの遺した御業に瞠目する!」
「あなた、コンラートの弟子だったの?」
訝しげにレティシアが問う。
生前コンラート・ハイゼンベルクには、確かに弟子と呼ばれる者たちがいた。
その中の一人がサラ・フェルールで、その人数は四人。
レティシアは、その全員と面識があった。
その内、サラを除いた三人は、コンラートが投降後に死亡すると、対魔大陸同盟軍に参加。戦いの中で命を落としている。
コンラート・ハイゼンベルクの研究とその周囲の者に関する情報は、一部の人間にしか公開されておらず、その弟子たちの事を知る者は少ない。
この場に今いる者たちで、その情報を知る者はレティシアとリアラの二人だけだ。
「弟子ではない。が、コンラートが遺した研究は僕がそのまま受け継ぎ、そして復活させたのさ。正しく僕は、コンラート・ハイゼンベルクの後継者と言えるだろう」
「そういうのって、弟子って言うのか? 何言ってんだ、あいつ……」
倒れた机と椅子を押しのけて、やって来たアベルの呟きこそ、ここにいる者たちの心中を代弁していたかもしれない。
「まあいい。愚者には理解できないことだよ」
その呟きが聞こえたのか、コンラートはやれやれといった調子で肩を竦めてみせた。
「それで復讐と言うことは、私と戦いたいのかしら?」
目を細めたレティシアが、一歩足を踏みだす。
「そうだね。でもせっかくだけど、今はまだ君の相手をしている場合じゃないんだ。残念な事に、僕は遺産の全てを手にしてはいないからね。僕には、まだやらなければならないことがあるんだよ。コンラート・ハイゼンベルクの遺産を手に入れ、その研究を復活。その遺志を継がなければならないからね」
「無駄です」
両手を前に組んで、リアラが前に進み出た。
「サラ・フェルールの祠は『大賢者』ティアラ・スキュルス・ヴェルファによる、強力な結界が施されています。それにサラ・フェルール自らの手による封印も」
「ちっちっちっ、『大賢者』。『大賢者』ね……。ならば試してみるとしようか」
「それをワッシらが黙って見過ごすとでも?」
ミトがハルバードを構えて前へと出る。
ウィンもレティシアから受け取った剣を鞘から抜いた。
それを見たレイナードは、口の端を押し上げて笑みを見せた。
それは周囲を見下すかのような、傲慢さを感じさせる笑み。
「貴様は僕と一緒に来い。残りは足止めをしろ」
それからレイナードは背を向けると、男を一人だけ連れて歩き出した。
「何だ、こいつら。様子がおかしいぞ!」
とりあえずの武器としてウィンから棒を受け取り身構えたアベルだったが、無表情で距離を狭めてくる集団に気圧されて、ジリジリと後ずさりをしていまっていた。
レイナードのけしかけた老若男女入り混じった集団。
大きなハサミを持つ、レティシアくらいの年齢の少女。
包丁を握りしめた主婦。
鎌を持った老人。
銛を持つ青年。
普段着を着たまま、日常生活や仕事に使う道具を武器として握り、ただ小さくぶつぶつと、同じ言葉を繰り返しつつウィンたちへと迫って来る。その彼らの顔には、暗がりの中でも生気が無い事が見て取れた。
――救いを、我らに。
――救いを、我らに。
――救いを、我らに。
目は焦点を結んでおらず、セリが最初に思ったように、まるで死人の群れにしか見えなかった。
「この人たち、操られているのか?」
ハサミで斬り掛かってきた少女の攻撃を、ウィンは躱し様に足払いを掛けて地面に転がす。
彼らがレイナードに操られているだけの犠牲者ならば、剣で斬り捨てるわけにはいかない。
「違います」
ウィンの問いに答えたのはリアラ。戦いの心得が無いセリをその背に庇いつつ、声音に悲しみの色を乗せて言う。
「彼らの身体に宿るのは悪しきもの。恐らく彼らの魂はもう……」
「くそ!」
ウィンに斬り掛かってきた少女。そしてその少女よりも更に幼い男の子もいる。
その他、老人や青年、女性たちも、多くの者が戦いとは無縁で、日々の暮らしを精一杯送ってきた、そんな顔や身体をしている。武器を振るう動作も、きちんと戦闘訓練を受けた者の動きではなく、ただ闇雲に突っ込んでくるだけ。
いま、セリを除くこの場にいる者たちからすれば、その攻撃を防ぐのは、そう難しい事ではない。
しかし、数が多い。
殴り飛ばし、地面に転がしても、彼らは後から後から押し寄せてくる。倒した者も、まるで痛みを感じていないのか、すぐに立ち上がってくる。
例え、本人たちがすでに死んでいるとしても、斬り捨てるのには躊躇を感じ、ウィンたちはレイナードを追えずにいた。
そんな中、疾風のような速さでレイナードに迫る人影二つ。
レティシアとミト。
レティシアは常人離れした速度で、迫る人々の隙間を縫うように疾走し、その身に誰一人触れさせること無く簡単にすり抜けていく。
そしてミトは、軽々と振り回すハルバードの柄を使って、行く手を阻む者の足を払い、時には身体を軽く押すことで地面に転がし、悠々とレイナードの前に躍り出たのである。
「何だと……?」
振り向いたレイナードが大きく目を開く。
「終わりよ」
レイナードとの間合いを詰めたレティシアが、そのがら空きの胸部に向けて、剣を突き出そうとしたまさにその時。
(――――っ!)
レティシアは横合いから迫る気配に気づき、咄嗟に右へ向けて剣を薙ぎ払った。
爆発。
飛来して来たのは魔力で作られた光弾。
レティシアの振るった剣に切られて、爆発四散する。
ただ、ダメージは無いものの、咄嗟の事だった為に衝撃までは防げなかった。
レティシアの軽い身体は左へとズレる。
「おお!?」
そしてレティシアに続く形でレイナードに迫っていたミトは、爆発の瞬間に後方へと飛び退り、衝撃を弱めたものの、飛んできた砂礫から身を守るために足を止めずにはいられなかった。
「ククク……」
その隙にレイナードは二人から距離を取る。
レティシアが追おうとするが――。
次々と光弾が飛来し、止む無くレティシアは自らとミトを守るべく防御魔法を展開した。
(これほどの威力の魔法。一体誰が!?)
光弾が飛んで来る方向は、断崖の先。
しかし、そこは海しか無いはずの場所だ。
光弾はレティシアとミトを襲っただけでなく、彼女たちの背後の集団にも襲い掛かっていた。
「お兄ちゃん!」
光弾はウィンたちだけでなく、レイナードに従ってきていた者たちにも着弾。情け容赦なく頭部を、胸部を、腹部を吹き飛ばしていく。即死を免れた者も四肢を引き千切られた者もいた。
「お兄ちゃん! みんな!」
レティシアは叫んだ。
爆発の余波で巻き上がった砂塵で、ウィンたちの様子が窺えない。時折、吹き飛ばされる人影が、誰か知り合いの者だったりしないか。そして何より彼女にとって最悪なのは、ウィンだったりしないか。心臓が凍りついたよう想い。
「こっちは大丈夫だ!」
爆発音に混じってウィンの声が聞こえた。
巻き上がる爆炎と土埃の合間に、防御結界魔法の光が見える。
リアラが防御魔法を使っているのだ。
その光を確認して、レティシアは心底ホッとした。
リアラは創造神アナスタシアの力を借りた、高位の防御魔法を使える。こと、治癒と防御の魔法に関しては、リアラは他者の追随を許さない。
「ほっ! このままじゃ埒がアカンわい。勇者殿、この程度の攻撃、不意打ちでも無ければ、ワッシならば気配だけで躱してみせよう。まずはこの攻撃をどうにかするべきじゃないかのぉ?」
レティシアの背後に隠れているミトが言う。
「そう……ですね。では、防御魔法を解きますよ?」
「おお、やってくれ」
ミトの了承を得て、レティシアは結界を解いた。
そして二人は飛来する光弾を、そして爆発によって巻き上がる砂礫すらも、空気の流れと力の気配を読み取ってかわし、手に持った武器で弾く。
それは、『剣の神姫』、そして『剣匠』。その呼称に恥じない、常人離れした動きだった。
そしてレティシアは、光弾が自分の方に飛んで来ないタイミングを見計らって、剣の先に魔力を集中させる。すると剣先に白い光点が生まれた。そして瞬時に膨張。人の頭大の球形に膨れ上がっていく。
(多分、あそこ!)
そしてレティシアは、光弾が飛来してくる先に向かって、作り上げた光球を発射した。
空気をまるで滑るように飛んで行く光球。断崖を通り過ぎて海上にまで行くと、そこで一瞬だけ停止する。そこはレティシアたちがいる資材置き場から五十メートル、断崖からも三十メートルくらい離れた場所だった。
人の頭大だった光球も、そこまで飛べば点のような光に見える。
だが光球が停止した、次の瞬間。
凄まじい閃光が、その場にいた者の目を灼いた。
まるで太陽が落ちてきたような光の乱舞。
ズズーンという胃に響くような重々しい音。
その輝きはほんの数秒程度のもので、熱も感じず、爆発したような様子もない。
しかし、光が収まりチカチカとする目が再び暗闇に慣れてくると、夜目の利くミト、セリ、リーズベルトはその魔法の威力に戦慄を覚えた。
岬の断崖の端。
固い岩盤が、光の球体に触れた部分が、そこだけごっそりと綺麗に抉られている。
音もなく、周囲に破片を飛び散らせるでも無く。
先程まで飛来していた光弾のように、周囲に破片を撒き散らすでもなく、跡形も無く消失させていたのだ。
(何とも凄まじい……)
レティシアの背後にいたミトは、驚嘆のため息を吐いていた。
(なるほどのぉ。攻撃している者の居場所が特定できないとみるや、少々退いた程度では逃げられないよう、広い範囲に攻撃を加えてみせたのか。あれでは、あそこにいた者が何者だったかは知らぬが、跡形も無く消滅させられてしまったじゃろうな)
現に光弾の飛来は止まっていた。
今となっては誰が光弾を放っていたのかわからなくなってしまったが、時間稼ぎを目論んでいたとするのなら、その目的は果たせたと言えよう。
レティシアが迎撃の魔法を唱えた頃には、レイナードは十分に距離を稼ぐ事が出来たのである。
『我が呼び声に応え来るが良い。現れ出でよ、猛なるモノ、雄大なる翼。頂より落ちし地上の王者よ。我が命に従い疾く、馳せ参じよ!』
それは最初、夜の暗がりに漆黒の墨を一滴落としたかのような小さな闇だった。そしてその闇は、レイナードの呪文詠唱と共に大きくなっていく。それはあたかも、先程のレティシアが生み出した光の真逆。
そしてその闇が三階建ての建物程の大きさにまで広がると、そこからぬっとレイナードが召喚したモノが姿を現した。
それはまるでトカゲのような頭。爛々と光る黄色い瞳に、馬のような大きな動物ですら人のみ出来そうな大きな顎。そこには鋭い乱ぐい歯。喉の奥からはチロチロと、紅蓮の炎がそのモノの呼吸に合わせて揺らめいているのが見える。
頭に続いて闇を潜って出てきたのは、大木の幹のような太い前脚。そして、小山のような胴体。その背には巨大な翼が、そのモノの身体の動きに合わせて揺れている。そして最後には前と後ろの脚に負けない太さを持った強靭な尾。闇を潜り抜けると同時に、勢い良く左右に振られ傍にあった小屋を一つ、軽々と薙ぎ払った。
工具を仕舞う倉庫だったその木製の小屋は、尾の一撃で簡単に破壊され、木材
が中の工具と一緒に宙を舞った。
「竜……」
ウィンはゴクリと唾を飲み込んだ。
竜の事を、所詮は羽根つきのトカゲさと、自身の力を過信する冒険者の中にはそう、嘯く者もいる。神話や物語に出てくる竜は、その作者によって誇張されているだけに過ぎないのだと彼らは言う。なぜなら、多くの者が竜を目で見たことが無く、物語を書く作者も過去に記された書物や言い伝えを基に、想像して書いているからに過ぎないからだ。
竜と呼ばれる存在が強大であればあるほど、物語に登場する竜を倒した英雄の偉業が強調される。
竜の強さは物語を面白くするために誇張された、幻想に過ぎないんだと。
ウィンとは竜に関する言い伝えを信じていたのだが、竜の強さは誇張に過ぎないという彼らの主張にも頷けるところもあると思っていた。
だが、今目の前に現れた竜を見て、考えを改めざるを得なかった。
「これが本物の竜……」
多くの神話に、伝説に、英雄物語に登場する竜。
鋼鉄の如く固い鱗は刃を弾き、鋭い牙と爪は固い岩をも切り裂き噛み砕く。そして口から吐く強烈なブレスは山すら砕くという。しかし、それらが無かったとしても、その巨体とそれを支える筋肉だけで、凄まじい脅威だ。太い手脚と強靭な尾を振り回すだけで、石造りの城塞といえども破壊され、人は簡単に肉塊にされるだろう。
東方に住む竜族の王フィアンドという名の竜は、対魔物の大戦の折、棲み家を魔物が侵したことに怒り狂い、周辺を魔物の群れごと灼き尽くした。この事件は、創世神アナスタシアの神話の時代から名前だけ語られていたフィアンドが実在していたことへの驚きと、竜が神と魔王に匹敵する力を持つ存在であることを知らしめた。
このフィアンドという竜は、一つの都市程もある大きさだったという。
ウィンも巨大な魔物の戦いはいくつか経験をしている。
過去には森の木々の上に頭部出てしまうほどの巨大な魔狼を倒し、直近ではマジルの山も地底で出会った巨大蟻たちの女王だ。
その威圧感は、どんな魔物に勝るものだった。
大きいというだけで、人は強烈な圧迫感を覚えるものだ。
しかし、いま目の前に姿を現した竜は、桁が違っていた。
ウィンがいる位置からは少し離れた場所に現れたというのに、まるで目の前に山が迫っているような感覚。
港に停泊していた巨大な帆船、
仮と付きながら祈りを捧げる聖堂と大食堂、そして幾つもの大部屋を持つ仮神殿。
ウィンがリヨンで見た大きな人工物。そのどれよりも大きい。
神話の時代より生き続ける地上最強の生物種。
「あの竜……見覚えがあるわい」
マジル山脈の地底奥深く。世界樹の若木を守るように、住み着いていた竜。
ミトは廃坑となる前に、世界樹の若木が生えていた広場で、何度もこの竜を見ていた。
竜は世界樹の若木か、自身に危害が及ばない限り、鉄を掘るドワーフや人を襲うようなことは無かった。
「なるほどのぉ……どおりで姿が見えぬはずじゃ。まさか魔道の技に囚われておったとは……」
食糧を得る時以外は、ただ静かに寝ていただけの竜。それがまさかこんな所で――。
ミトは目の前に竜という脅威が迫っているにも関わらず、目を閉じて祈っていた。魔法に疎い己であったが、竜の身に起きている事は想像が付いた。恐らくは先程の人々と同じ目にあっているのだろう。そうでなければ、誇り高き天空と地上の王者たる竜が、人の魔導師に利用されるはずもない。
ミトの愍みの祈りに応えるよう、竜は首をもたげると天に向かって吠えた。その咆哮は、利用される己と、魔導師への怒りの声のように聞こえた。
ビリビリと大気が振るえ、断崖の一部が崩落して海へと落ちる。
攻撃ですら無い。
ただの咆哮だけで、周囲にこれだけの影響を与える。
離れた場所にいたウィンたちも、突風に吹き飛ばされないよう、足を踏ん張らなければならなかった。
「あの竜も、この人たち同様、魂が歪められその身を怪我されているようです」
そう告げたリアラの声は、深い悲しみの色が含まれていた。
「レティ」
ミトと共にいたレティシアが剣を下げたまま、前に歩みでる。
「そうね。天空を舞い、地上を支配する王者。だけど、あの竜はほとんどその力を失っている。残りカスみたいなのかもしれない」
レティシアはただ一人、竜の咆哮にも動じず、まるで自然体のままで立っている。
(あの竜ですら……レティにとっては脅威にすらならないのか)
竜の翼の羽ばたきで舞い上がった土埃から、顔を庇いつつ、前に立つレティシアを見る。
レティシアは絹糸のように美しい黄金の髪を激しい風に翻らせ、剣を携えたまま静かに佇んでいる。
その姿は竜を前に立つ英雄の姿。まさに一枚の絵画のように、ウィンたちの目に映った。
レティシアの小さな身体が淡く黄金に輝きを放つ。
その小さな身体から放たれる威圧感は、巨体を持つ竜に比較しても劣らない。
竜にとって普段は人など、道端の蟻にも等しいものだろう。
両者の間には、生物としてそれほどの力の開きがある。
その竜をもってしても、ただ静かに立つレティシアから感じる気配は無視できなかったらしい。
グルル、と喉の奥で威嚇の唸り声を上げつつ、レティシアへと向き直る。その唸り声に合わせて、ゴウゴウと赤い炎が顎の奥で燃え盛っているのが見えた。
レイナードに意識を奪われていても、レティシアを危険な存在として認識しているようだった。
だが――。
「ちっ、何をしている竜よ。お前が最初にするべきことは、そこの邪魔な結界を吹き飛ばす事だよ」
そう言ったのは、竜の頭頂部にふわりと降り立ったレイナード。それに応えるようにして、グルルと竜が唸ったのだが、ウィンたちの耳にはまるで苦痛に呻く悲鳴のように聞こえた。
「あーはっはっは! クックック……。どうだい、驚いたかい勇者。これもコンラート様の素晴らしい叡智が遺した御業さ。あの竜でさえも従える事ができる大いなる力。まだ未完成の術ですら、これほどの事ができるんだ」
『忌々しい魔導師め……』
その時、頭の中で声が響いた。
『死後も我が肉体を操り、己の欲望のために利用しようとは、なんという屈辱か』
「ちちっ、これは驚いた。まさか死んでも尚、その身に意識を宿しているとはね。さすがは腐っても竜と言ったところかな。文字通り死んで腐っているけどね」
含み笑いをしながら言うレイナード。
「だけど、敗北者である君に何かを言う権利なんて、これっぽっちも無いよね。敗者は何もかも奪われて、文句を言う権利すら失われる。至極当たり前の事じゃないか」
『愚かな……。借り物の力で事を為したとて、己の分を弁えぬ力を手にすれば、破滅を招く事になるであろうに』
「ちっ、黙れ。敗者に何かを言う資格は無い。貴様は黙って僕の命令に従っていろ」
『ぐぅ……尋常ならざる力を持つ、人の娘よ。我が願いを聞き届けてはもらえぬか? そこの忌々しい魔導師によって、我が肉体は我が意思の下を離れている。口惜しい事に、その者が企む碌でもない事への命令に、我は逆らう事ができぬ。ならば汝の力でそこの身を滅ぼし、我が魂を救ってはもらえぬか……?』
「誇り高き偉大なる竜よ。あなたの願い、聞き届けましょう。私の名前はレティシア。レティシア・ヴァン・メイヴィス。人の世では『勇者』と呼ばれている」
『感謝しよう、『勇者』レティシアよ。我が生きていた頃の名はヴェルニ。この身が汝の手に掛かって滅びる事を、我は心より光栄に思う』
「ちっ、僕を無視して何を勝手なことを!」
ヴェルニと名乗った竜とレティシアのやり取りを遮って、レイナードが叫ぶ。
「ちちっ、貴様は僕の道具に過ぎないんだ! さあ竜よ! 我が意思に従い、この邪魔なハイエルフの結界を打ち砕けっ!」
レティシアが走る。
ヴェルニの意思に反して振るわれた、大木の幹より太く鋼鉄よりも固い鱗に覆われた腕は、レティシアの手の中に現れた聖霊剣によって易易と切断。そして軽くステップを踏んだレティシアは、返す刃で竜の腹を深く切り裂いた。
そしてその勢いのまま、竜の腹の下を掻い潜ると、仰け反る竜の後ろ足を蹴って跳躍。そのまま脚を伝って背中にまで登ると、さらに高く跳躍して太い竜の首へと刃を振り下ろす。
『ダメか……。間に合わぬ』
ヴェルニの呻くような声が頭の中に響く。
レイナードによって強制されたヴェルニは、レティシアの剣が首を切り落とすよりも早く、ブレスを吐かされてしまった。
ヴェルニの口から吐きだれた超高温と破壊力を伴うブレス。それはサラ・フェルールの祠へと伸びていく。
そして、レティシアによって切断された竜の頭が大地へ落ちるのとほぼ同時に、ブレスは祠を守る結界に着弾。
「ちっちっち、サラ・フェルールよ! あなたが奪った偉大なる魔導師の遺産! いま、僕の前に差し出すがいい!」
刹那の力の均衡の後、硝子を金属で引っ掻いた時のような不愉快で大きな音が数秒間続き、そして何か固いものが割れるような音が周囲に響き渡った。
「はーっはっはっは! さあ、残すはサラ・フェルールが、破壊神から力を借りて張った結界のみ。ちちっ、今度は君の出番だ。僕の前に遺産へと続く道を開いてくれ」
その人物は、レイナードがウィンたちの足止めを命じた人々の中から唯一、足止めへ加わること無く連れ出した人物だった。
祖国を失い、破壊から再生へと繋がる神として破壊神ノアレに信仰を捧げ、司祭位まで授かった人物。麓の町では真面目に働く工人だったロルフは、虚ろな目でレイナードが命ずるままに祠の扉に呪文を唱える。
「我が神よ。汝の下僕の願いを聞き届けたまえ。偉大なる御身の力をもって、封を開く鍵をこの身に与えよ」
ロルフの祈りが込められた魔法に、祠が淡く光りに包まれ、そしてゆっくりと左右へと開いていく。
そして――。
「あーはっはっは! これで……これで遺産は僕のものだ!」
いまだ竜のブレスと結界が破壊された余韻が残る岬の先端で、レイナードの哄笑が響き渡った。