北方領域
大陸最北部。
厳冬期には海はもちろん湖も、川すらも凍りつき、大地は一面白銀の世界へと変わる。
人々は短い夏の間に作った作物と、保存の利く乾し肉や魚介類の乾物で飢えを凌ぐ。
そんな生活を強いられていた人々は、偉大なる『竜殺し』にして『剣聖』、英雄王メルヴィック四世の治世になって劇的な変化を遂げた。
最貧国だったセイン王国は、限られた予算を全て優れた人材に投資するというお見きった国策を打ち出し、大成功を収めた。
外国に留学して高度な教育を受けた彼らは、祖国のために様々な施策を施して莫大な富を国へと還元。そしてセイン王国の暮らしは、相変わらず厳しい冬は来るものの、以前とは比べ物にならない程豊かなものとなった。
しかし、その幸せな時間は長くは続かなかった。
彼らに希望をもたらした英雄王メルヴィック四世の肉体を器として、魔王が降臨したためだ。
降臨した魔王はその後、眷属である魔族を次々と喚び出すと、セイン王国から外へと支配領域を拡大していった。
支配領域を拡大すると言っても、人間が築く国のようなものではない。
生きとし生ける物を殺し尽くす。
そうして生まれた恐怖、恐れ、悲哀、怒りの感情が瘴気となって、周辺一帯を包み込む。するとその瘴気に当てられた生物、植物、精霊の存在が歪められて妖魔、魔獣が生まれていく。
数を増やした妖魔、魔獣は魔王直属の眷属である魔族に統率され、瞬く間に北部の国々を喰らい尽くしていった。
人類側も黙って魔物の侵攻を待っていたわけではない。
軍隊で押し寄せる魔物の群れに対抗しようとした。
しかし、魔王と魔族が持つ瘴気は、魔物との戦いで命を落とした兵士たちをもアンデッドとして蘇らせると、尖兵と化してしまった。
人類側が軍隊を派遣し、犠牲者を出せば出すほど、魔物の数は増えていったのである。
そして戦場となった場所は瘴気に満ちていった。
濃密な瘴気が漂う場所では生物が生きられない。生きていけるものは、魂を歪められて闇に堕ちた者たちだけ。生物が生きられなくなった領域は、やがて魔物領と呼ばれるようになった。
「じゃあ、妖魔って元は人間だったりするの?」
「うん。これはエメルディア大神殿でも禁忌とされている知識なんだけどね」
「じゃあ、まさか俺もある日突然、オーガなんかに変わってしまう事も?」
気味悪げに顔を顰めたウィンを、レティシアが安心させるように笑う。
「今日、明日で急に妖魔になっちゃうなんてことは無いよ。魂はそんなに簡単に歪むものじゃないもの。そうね……」
レティシアは唇に人差し指を当てると、良い例えを探す。
「例えば、シムルグの貧民街」
「貧民街?」
「住んでいる人がひもじいな、苦しいな、世の中が恨めしいなって思い続けていれば、妖魔が生まれてくる可能性もあると思う。ただし、人が生み出す負の念はとても弱いものだから、瘴気となるまでには、そうした負の念が数百年もその場に留まり続ける必要があるわ。でも普通は、数百年も貧民街のままで放置されるというて事は無いだろうから、まず心配ないけどね」
「じゃあ、今いる妖魔はどうやって生まれてきたんだ?」
「私もエメルディアに行った時に少し教えてもらっただけで、そんなに詳しい事は知らないんだけど。数千年も昔、創世神アナスタシア様がこの世界を創造された時、生きとし生けるものを創られた。でも光と影は対なるもの。生きとし生けるものを創ると同時に、その対なる存在である魔族も生まれる事になったの。その魔族によって生まれた負の念が瘴気を産み、創りだされた生命を歪めて妖魔が生まれたって伝えられているそうよ」
「なら、ある日突然俺が妖魔に変わっちゃうって事は無いんだな」
ホッとしたような顔でウィンが言う。
「うん。でもね、魔王や高位の魔族が関わると話は別。魔族は負の念を増幅して、そこにある生命を歪めてしまうことができるわ。そのせいで魔物との戦いの際、野山の獣は魔獣と化してしまった。知性ある人やエルフ、ドワーフはそう簡単に妖魔へ変貌しないんだけど、魔王かそれに近しい存在の瘴気を浴びれば話は別。余程の精神力が強い人じゃないと耐えられないのよ」
レティシアが魔王と戦う際に、対魔大陸同盟軍と供に戦わず、ラウル、ティアラ、リアラという限られた仲間たちとだけで赴いた理由はそこにある。
人類の中でも抜きん出て優れた彼らであればこそ、魔王の側近だった高位魔族の纏う瘴気に耐えることができたのだ。
そして魔王は滅ぼされ魔族たちは姿を消し、大陸に住まう者たちはひとまずの安堵を得た。
しかし、大量に生まれた魔物は残されている。
統率された動きこそ無くなったものの、魔物領となった大陸北部では、まだまだ魔物たちの姿が多く見られる。
「そういえばポウラットさんが言っていたなぁ。冒険者ギルドの依頼に、前よりも魔物討伐依頼が多くなったって」
レムルシル帝国とクイーンゼリア女王国の国境付近は、魔物との大戦末期に最前線となった場所だ。そのため多くの魔物が蔓延っている。
国境付近の町や村は防備を固め、時には冒険者を雇って魔物の退治に乗り出した。
ウィンが騎士候補生だった時に参加した、定期巡回討伐任務もその一環だ。
「最近では帝国の国境を越えて、クイーンゼリアに入る冒険者もいるそうだよ」
クイーンゼリア女王国は魔物によって滅ぼされた。
魔物の侵略から無事に逃げおおせた者もいたが、他国へ逃げることなく残った者たちも大勢いた。むしろ、国に留まった者たちのほうが多かった。彼らは自分たちの国の軍隊と共に魔物と戦い、そして国と運命を共にした。
貴族平民身分を問わず、クイーンゼリア王国に残された彼らは魔物によって虐殺され、町や村は廃墟と化した。
その廃墟と化した町を見れば、魔物の侵攻が国同士の戦争とはわけが違うことがひと目でわかるだろう。
戦争で祖国が負けても、民衆にとっては支配する者たちが変わるだけだ。
もちろん、祖国が負けた以上、それまでの生活が一変することには違いない。過酷な労役、重税、場合によっては奴隷の身分に落とされて、自由を失うかもしれない。
しかし、命は助かる場合が多い。
新たなる支配者たちも、長く締め付けるような政策を行い続けるような事はしない。
多くの場合、いずれはその地に住む民たちに、支配者として自分たちを受け入れさせるために、締め付けを緩和させていく。
そして彼らは新たな国の民へと変わっていく。
しかし、これが魔物の侵攻となれば違う。
魔物に出会えば、等しく襲われて殺される。
国が滅び、町の城壁が壊され、守ってくれるはずの軍隊が壊滅させられると、人は逃げ出す他に生き延びる手立てがない。
そうしてクイーンゼリア女王国の民たちは、他国へと難民となって押し寄せていったのだ。
彼らは逃げ出した時、家財の一切合財を持ち出せたわけではない。
そのため、クイーンゼリア女王国内では現在、無人となった貴族の城館や金持ちの屋敷に、莫大な財貨が残されたままとなっている。
冒険者たちはそれらの財貨を狙って、クイーンゼリア女王国へと赴いているのだ。
「火事場泥棒みたいだけどね」
無人となった家屋を漁り、財貨を得る。
ウィンがそう言って笑うと、話を聞いていたレティシアとミトが揃って肩をすくめる。
しかし、財宝が眠っているかどうか定かではない遺跡を漁るよりも、遥かに財貨が残されている可能性が高い。
しかし、当然大きなリスクはある。
クイーンゼリアは軍隊が壊滅し、滅びた国なのだ。
レムルシル帝国であれば、町や村といった人が住む領域には、魔物もそうそう近づいては来ない。
近づいて来たとしても、軍や冒険者たちによって即討伐されてしまう。
そのため、町や村の近郊は比較的安全だ。
魔物に遭遇しやすい場所は、森や山の奥深く、人が滅多と足を踏み入れないような場所だけだ。
しかし、クイーンゼリアでは町や村の跡であろうと関係なく魔物はいる。
それも大量に。
その魔物たちを駆逐できる実力があって初めて、火事場泥棒に等しい所業とはいえ、廃墟となった領主の館や金持ちの屋敷に潜り込み、残された財貨を手にすることができるのだ。
「シムルグに所属していた冒険者でも、結構な人たちがクイーンゼリアに行ったらしいよ。でも、帰ってこれなかった人たちも多いって」
実力をわきまえず、一攫千金を狙ってクイーンゼリアを目指す若手の冒険者たちが増えていると、ウィンはポウラットから聞かされていた。
彼らの多くは貧民街の出身。貧しい生活からの脱却を夢見て冒険者になった者たちだ。
冒険者を目指そうと思う彼らの多くが、喧嘩にも慣れていて、腕っ節には自信を持っている。
最も、ベテランの冒険者からしてみれば、一般人と大差ない程度の腕前だ。
命を賭けた戦いの経験は乏しく、魔物との戦闘経験に至っては皆無に等しい。
武器の扱い方も肉体の動かし方も我流で未熟。
実戦経験が乏しいと言えば、騎士学校に通う学生たちだって変わらないのだが、彼らは経験豊富な教官、先達の騎士たちからしっかりとした訓練を受けている。
だが、冒険者たちは騎士と違い、技術を身に付けるには、経験を積んで独力で学んでいくか、技術を持つ者に報酬を支払い、指導を請うしか無い。
しかし、冒険者を志す若者たちの多くは、自信過剰で、自らの幸運と実力を過信している。
そして無謀としか思えない難事へと挑戦していくのだ。
冒険者ギルドでは、冒険者たちの実力を推し量り、達成可能な範囲での仕事を彼らに紹介しているのだが、それでも失敗するかもしれない可能性も考えている。
ただ、失敗して痛い目を見れば、慎重さを覚え、次の仕事に活かせるだろう。そうやって経験を積み、実力を付けて再挑戦できればいい。失敗は糧となり、成長に繋がる。
万が一失敗しても、冒険者ギルドで尻拭いもできる。
そうして冒険者ギルドは、若き冒険者たちの成長を促していく。
しかし、現在過熱気味のクイーンゼリア女王国への一攫千金を狙った侵入は、冒険者ギルドを通しての仕事ではない。誰もが好き勝手に試みる事ができる状態だ。
待ち受けている魔物の強さは、冒険者ギルドでも把握できていない。
いつ、どこで、どんな場所であろうと、最強の生物である竜に匹敵する魔物と遭遇する可能性だってあるのだ。
腕の立つ冒険者ですら、命がけの無謀な挑戦。
多くの未熟な若手冒険者が挑み、そして一度の失敗を糧とすることができずに、命を落とす。
「でも、本当に実力のある冒険者たちが、クイーンゼリア国境近くの町を、すでに幾つか踏破もしたらしいよ」
「魔王が滅んだ以上、魔物領の拡大はもう無いからね。そうやって冒険者たちが入っていて魔物たちを駆逐していけば、残留した瘴気も段々減っていく。するとその先には――」
「あっ……そういうことか」
ウィンはようやくレティシアの言う、広い範囲に空白の土地が広がっているという意味に気がついた。
「冒険者たちがクイーンゼリアに乗り込み、魔物を倒し、財を漁ったその後には、誰も支配する者がいなくなった土地が広がっているんだ」
「そうだよ、お兄ちゃん。クイーンゼリアから北、その先にあった国々は、全て滅び去ってしまったの。当然そこには、国が滅びてしまって誰も所有権を持たない鉱山や、森、川、湖、港といった資源がたくさん残されている。そしてレムルシル帝国は、所有者のいなくなった宝の山が眠る北の大地に、最も近い国の一つなのよ」
今はまだ魔物が蔓延り、訪れる者も一攫千金を狙った冒険者たちばかりかもしれない。
しかし、やがては魔物領と接している幾つかの国が、大規模な調査団として軍を派遣するだろう。その魔物領と接している幾つかの国の一つが、レムルシル帝国だった。
魔物との戦争が終わって、各国はこの支配する者のいなくなった広大な北の大地へと、目を向け始めた。
先に動き始めたのは大陸中央部から南部にかけて存在している国々。魔物との戦争で、直接領内に大きな被害を受けなかった国々だ。
まず真っ先に動き出したのがペテルシア王国だ。
魔物との戦争後、荒廃した国内の復興に尽力している最前線にあった国々に、侵攻を開始し、すでに二つの国が滅ぼされている。
「じゃあ、ラウル殿下やダリス王陛下も、本当の狙いは帝国の北に広がる土地って事?」
「ペテルシアは、それに加えて海に面した土地が欲しいといった理由もあるんだろうけど、多分ね。ただ、リヨンはペテルシアと違って力による侵攻ではなくて、アルフレッド殿下に恩を売る事で、北へと打って出る際には共同作戦を提案しているんじゃないかな。北を平定した後に行われる利権の分配で、口出しできるように。多分アルフレッド殿下とラウルとの間で、そうした条件について約束が交わされているんじゃないかなって思う」
「なるほどのぉ」
黙ってウィンとレティシアの話を聞いていたミトが口を挟んだ。
「お主らに同行して話を聞いているうちに、わっしがどうしても疑問に思うてお
ったことが、解消できたわい」
「疑問ですか?」
問うウィンに、ミトは手に持ったハルバードの柄を地面に突き立てると、天を向いたその刃先を見上げた。
「帝国で内乱が始まったというんじゃろ? なぜリヨンはその機会に便乗してペテルシアに同調し、帝国の領土を切り取らないのか、とな」
「リヨンが帝国に?」
「別段、不思議な話じゃないだろう? 隣国が内戦を始めて他国からも干渉を受けておる。ならばその隙に乗じてという話は、歴史を振り返れば良くある話じゃ」
まさかという顔をしたウィンにミトはそう言う。
リヨン王国はダリス王の御代になって、レムルシル帝国と国交を結んだ。そのため、両国の民たちは国境を自由に往来できる。
だが両国の歴史を紐解いてみると、レムルシル帝国とリヨン王国は過去に何度となく大きな戦火を交えているのだ。
元々リヨン王国は大陸最古の歴史を持つカシナート王国と、覇権主義を貫くレムルシル帝国という二つの大国に挟まれた自由都市群が、自由を守るために自分たちの国を作ろうとして建国された。
魔物の激しい侵攻と、今上皇帝アレクセイが外征に熱心では無かったことから、近年レムルシル帝国がリヨン王国に侵攻を企てることも無かったが、国交を結びつつも互いに隙あらばと様子を伺っていたことには間違いない。
しかし――。
「今のリヨンがペテルシアに倣って帝国に軍を興さない理由は、勇者殿の事を知っておるからじゃろうなぁ」
「レティを?」
「うむ。ペテルシアとリヨンの帝国に対する態度の違いは、勇者殿を直接知っておるかいないかという事じゃろうて。リヨンには剣聖殿がおられる。ゆえに勇者殿の力を知ることができた。勇者殿を知るならば、敵に回したいとは思わんじゃろう。少なくともわっしならば、勇者殿が生きておるうちには何もせんな。しかし、ペテルシアは勇者殿の事を、新聞や噂などの伝聞でしか知らん。その違いがこの帝国内で起きた内戦に対する、両国の温度差なんじゃろうなぁ」
「なるほど」
ウィンは感心の声を上げてミトを見た。
マジルの山に篭りきりで世情に疎いかと思えば、ウィンとレティシアたちの会話内容から、鋭く情勢を読み取ってみせる。
『剣匠』を何十年にも渡って他者に譲ること無く戴き続ける強さは、こんな所にも現れているのだろう。
(最も、わっしが帝国に戦争を吹っかける立場に立たされたら、まずは勇者殿のアキレス腱を狙う)
そう考えながらウィンを見たミトは、ふと横からの視線を感じてぎょっとした表情を浮かべてしまった。
レティシアがミトに意味ありげな視線をよこしたのだ。
ミトの考えを見透かしていたのだろう。
(当然勇者殿も気づいているわけか……。まあ、そうじゃろうなぁ。十五か。十五という若さで、わっしですら想像もつかん程の戦場を渡り歩いてきたわけじゃしな。なるほど、帝国の皇太子がウィン殿を皇女に付けて帝国外に出したのも、二人を帝国内のゴタゴタに巻き込むのを恐れたゆえか。外国でならば、勇者殿が守らねばならぬ者も少なくなるからのぉ。それにしても――)
ミトはブルリと身を震わせた。
(なんちゅう圧迫感じゃ。視線一つ寄越しおっただけで、このわっしが一瞬でも怯まされるとは……。勇者殿を排除するには、まずこの若者をと考えたが、それも少し浅はかというべきじゃったのぉ。逆に安全弁を外すようなもんじゃわい。剣聖殿はよくもまあ、こんな化物と戦いたいと思ったもんじゃ。わっしならば御免じゃな)
「あっ、お兄ちゃん。あの建物じゃない?」
ミトが畏怖の視線を向けている事に気づいているのかいないのか、レティシアはいつもの調子に戻ると、ウィンの手を引っ張った。