間話①
時系列「エルステッド伯爵邸」の時の、帝都メイヴィス公爵邸での様子。
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書籍3巻のサウンドドラマ特典の入手期限が、2015年6月1日 23:59までとなっていますので、まだの方はお早めにお聴きください。YouTubeで前編だけでも聞けますよ!
「ステイシア! この事態は一体どういうことだ!」
武装した騎士に左右を挟まれながらも、なお威厳を保ち続けた厳しい口調で、メイヴィス公爵家当主レクトールは、長女であるステイシアを問い詰めた。
リヨン王国親善訪問団襲撃。
アルフレッド皇太子殿下の生死不明。
レクトールがその報せを受けたのは、帝都のメイヴィス公爵邸で就寝していた時分であった。
取り乱した使用人の声で寝台から跳ね起きたレクトールは、報告を受けるやすぐに身支度を整えると皇宮に参内しようしたのだが、屋敷の門前で青年貴族を中心とする中央騎士団の騎士を従えたステイシアが現れたのである。
ステイシアは困惑しているレクトールを、騎士たちに命じて拘束させると、屋敷へと連れ戻した。
メイヴィス公爵邸には、公爵家が抱えている騎士たちが警備についていたのだが、まさか味方の騎士が、それも公爵家第一公女のステイシアに引き連れられてやって来た彼らが、公爵に不逞を働くとは想像だにできなかった。
主人であるレクトールを拘束された後、碌な手を打つことも出来ず、わずか半刻もしないうちに制圧。武装を解除されて、今は中央騎士団の監視下に置かれてしまった。
自室に戻されたレクトールは、騎士を背後に控えさせたステイシアを強く睨みつけた。
「ステイシア! お前がしていることは質の悪い冗談ではすまない行いだ! 皇太子殿下の生死も知れぬこの一大事に、お前の悪戯に付き合っている暇はこの父にはない! 貴様らもだ! この公爵である我が身に働いた無礼。恐らくはステイシアに付き合わされたのだろうが、今なら貴様たちの事も罪には問わん。ステイシア、お前もノイマン殿下と婚儀が控えているこの大切な時期に、このような振る舞いは慎め! 殿下のお耳にでも入れば、婚約の件は無いものとなるぞ?」
しかしステイシアは、レクトールの強い糾弾にも表情を変えること無く口を開いた。
「いいえ、お父様。この件、ノイマン殿下もご存知の事。私は殿下のお言葉に従い、こうしてお父様にお会いしているのです」
「……なんだと?」
「アルフレッド皇太子殿下の訃報……私の心も、悲しみに包まれてこの胸が張り裂けそうに痛むばかり。ましてや兄弟であらせられる我が最愛の人、ノイマン殿下のご心中や如何ばかりかのことでしょう。私程度では計り知れませんわ」
ステイシアは大仰な仕草で手に持つ扇で口元を隠す。しかし、口にしている内容とは裏腹に、その目は冷たい光を宿している。
レクトールは実の娘でありながら、背筋に冷たいものを感じていた。
「ノイマン殿下は皇太子殿下の無念を必ず果たす――そう女神アナスタシア様に誓われました。近く、帝都に皇太子生存の報せが届くでしょう。ですが、その報せは偽り……」
「…………」
「皇太子殿下を弑し奉り、偽物を立てた賊はこの帝都へと攻め上がると、帝位を簒奪せんと望むでしょう。その悪辣な策謀を阻止せんがために、ノイマン殿下は立ち上がられたのです」
「……そういう筋書きか」
「ええ、お父様」
ステイシアが艶然と微笑んでみせる。
つまりは第二皇子のノイマンが――ひいてはその後援者であるクライフドルフ侯爵家が、この度の件の首謀者なのであろう。
ノイマン皇子の母方の家、ガウナヘルツ伯爵家はクライフドルフに連なる一族。アルフレッドを葬ればノイマンの皇位継承権は繰り上がって第二位。より皇帝の地位が近づく。
そのために襲撃の罪を、政敵であるエルステッド伯爵に被せる。
元々、エルステッド伯爵家の派閥は小さなものであったが、ここ最近ではアルフレッドと親しい関係を築き皇太子派の中心人物として目されつつあった。
ライバルであったレインハート侯爵家を追い落とし、騎士団内で強力な権勢を築き上げたクライフドルフ侯爵。宮廷内でも勢力を強めつつある中で、彼らに対向し得る派閥になるかと社交界で噂されていた。
思い返してみれば、リヨン王国親善訪問団の行程に、わざわざ遠回りの道のりとなるエルステッド伯爵領などの南方領を含めよと言い出したのは、クライフドルフ侯爵ではなかったか。
ペテルシア王国との国境での緊張状態を鑑みて、国境周辺の領主や軍を鼓舞するための進言と考えられていたのだが、いざこのような事態を迎えては、色々と疑問の残る話であった。
政敵であるエルステッド伯爵家が、次期皇帝が約束された皇太子殿下の行幸を受ける。クライフドルフ侯爵家がそのような事を本来は許すはずもなく、ましてや進言するなどおかしいと気づくべきだったのだ。
クライフドル侯爵家の真の目的は、エルステッド伯爵領内でアルフレッド皇太子に害を為し、その罪をクライフドルフ伯爵になすりつけること。
「ノイマン殿下はすでに中央騎士団団長のウェルト将軍閣下に御命じになられて、帝都各所の警備を強化されていらっしゃいますわ。そしていつでも軍を進発し、賊軍を討伐できるよう準備を整えていらっしゃいます」
帝都各所の警備といえば聞こえは良いが、つまりクライフドルフ閥に属さない上級貴族、官吏、そして宮廷魔導師団などを制圧したのだろう。このメイヴィス公爵邸のように。恐らくは皇宮も。
皇帝アレクセイ、第一皇女コーネリアはもちろんの事。その他の皇族方も軟禁されているのだろうか。
しかし、アルフレッド皇太子が命を落としたとしても、ノイマン第二皇子が皇太子の地位に就けるわけではない。
ノイマン第二皇子よりも皇位継承権が高い人物が、もう一人いるのだ。
それはコーネリア第一皇女。皇位継承権第二位とされている皇女で、アルフレッド皇太子の死が確認されれば、彼女が皇太女として立位される事になる。
コーネリア第一皇女は十七歳。
皇族が公務に就ける十八に満たないため、万が一皇帝アレクセイが崩御した場合、宰相が必要となる。しかし、その宰相が全権を振るえるのはわずかに一年。コーネリア第一皇女が十八となるまでの間だけだ。
レムルシル帝国の全てを牛耳ろうと企図しているクライフドルフ侯にとって、それでは全く意味をなさない。
そこまで考えた時に、レクトールはクライフドルフ侯が描くもう一枚の絵に気づいた。
クライフドルフ侯には、コーネリア第一皇女と釣り合う年齢の息子がいる。
その息子をコーネリア第一皇女に婿入りさせれば、クライフドルフ候は縁戚として権力を振るえるようになる。それこそがクライフドルフ侯の目的なのではないか。
ノイマン第二皇子は、アルフレッド皇太子を排除するために利用されているに過ぎない。
むしろ首尾よくアルフレッド皇太子と、エルステッド伯を殺害することに成功した暁には、クライフドルフ候はノイマン第二皇子がこの謀殺を企図したとして、排除を行う可能性がある。
ノイマン第二皇子は、当然自分が皇帝の地位に就くと考えているだろうし、それがかなわないとなれば不満を覚えるはずだ。
秘密を知る者は少ないほうが良く、後の禍根となりそうなノイマン第二皇子は、すみやかに始末される可能性が高い。そしてそれは、ノイマン第二皇子の伴侶となるステイシアも同様だろう。
クライフドルフ侯がステイシアを抱き込んだ理由はおそらく、帝国屈指の名門であるメイヴィス公爵家を抑えること。そしてレクトールの末娘、レティシアに対して何がしかの事を起こす際に利用するつもりだと考えた。
レティシアは強い。
しかし、父親であるレクトールは、実の娘でありながらレティシアの、その真の力を見た事は無い。
しかし、魔王を倒したという実績もさることながら、以前に騎士学校の校長を務めていたザウナス将軍のクーデターの際、睨み合う騎士団と反乱軍との間に現れたレティシアは、ただそこに立ち語りかけるだけで、両軍を退かせたと聞く。
現場に居合わせたものは、たった一人のレティシアに、万を超える軍勢と相対しているような感じを受けたという。大勢の味方がいるのに、勝てる気がしなかったと。
そんなレティシアという特異な存在を、まともに相手にしては勝ち目がない。
レティシアを排除するには搦め手を用いるしかない。その役目をステイシアは担わされているのではないだろうか。
恐らくは利用されている事に気づいていないだろうステイシアに、レクトールは肩を落とすと大きく息を吐いた。
「なるほど……本気なのだな、ノイマン殿下は……」
だが、レクトールはあえてその事をステイシアに指摘しないでいた。
ステイシアが利用されている事に気付けば、クライフドルフ候はすぐにステイシアを排除してしまうだろう。利用価値を失えば、生かしておく理由は無い。
あくまでもノイマン第二皇子とステイシアが聞かされているであろう筋書きを推察しつつ、レクトールは慎重にクライフドルフ候の思惑に探りを入れて行くことにした。
「賊軍……いや、もう茶番はいいだろう。エルステッド伯軍と、中央騎士団を配下に持つクライフドルフ侯とでは、戦力の開きが大きい。戦えばまず、クライフドルフ侯が勝利を得る事は間違いない。しかし、南方方面騎士団の司令官は、エルステッド伯と懇意の間柄だと聞く。彼らが援軍となってエルステッド伯へと付けば、戦力の差は多少なりとも埋まり戦いは長期化する。その隙を、国境を接しているペテルシアが見逃すはずもあるまい。位置的に考えて、真っ先にクライフドルフ領が狙われるのではないか?」
「ご安心下さい、お父様。我が英邁なるノイマン殿下は、すでにその事についても手をお打ちでございますわ」
「まさか……」
「先程ペテルシア王国の公館より使者が訪れ、ペテルシアの王は皇太子殿下の仇を打ちたいというノイマン殿下の御心に大いに感服し、惜しみない援助をお約束してくだされたのです」
その言葉にレクトールは大きく目を見開いた。
「馬鹿な! それではペテルシアに我が国への介入を許すことになるぞ!」
それはレクトールが想定していた最悪の事態を超えていた。
権力を手中にするためノイマン第二皇子を唆し、アルフレッド皇太子を廃する。その後、皇太女となったコーネリア第一皇女の婿に、自分の息子を充てがう。ここまではあくまでも帝国内の問題ですんでいた。
しかし、帝国の皇位継承争いに外国の意図が加わってくるならば、話は変わってくる。
国の後継者問題に外国が介入した場合、改善した例が無い。
多くの場合、介入された国は遅かれ早かれ乗っ取られる。
それはレムルシル帝国が他国に侵略する際に、過去に幾度と無く行ってきた所業だ。
ましてや魔物による侵攻を直接受けず、国力を保つ事ができたペテルシア王国は、終戦が見えた頃合いに近隣の国へと侵略を行って、領土を拡張した野心溢れる国だ。
援助だけで終わるはずもない。
「ご安心ください、お父様。ペテルシアの浅慮な企み、ノイマン殿下はご承知でございますわ。援助にはもちろん、それなりの見返りは必要となりますでしょう。ですが、ノイマン皇子の尊い志の前ではそれも些細な事。見返りを渡した以上の事は口出しさせないつもりです」
その見返りに渡すものがどれだけの規模と量なのか、それが問題なのだ。そうレクトールは大声で叫びたかったが、必死の思いで我慢をし取り繕った。
「……ステイシア。私の拘束を解きなさい」
「まだお分かりになられないのですね、お父様。ですから……」
「陛下はいかがお過ごしになられている? よもや害し奉るなどしてはおらぬだろうな?」
「……陛下には皇宮の奥にて、ノイマン皇子の信厚き騎士たちが警護にお付きになられていますわ」
「そうか……重ねて言おう、ステイシア。私の拘束を解きなさい」
「お父様、ですから……」
「心配するな。この期に及んで抵抗はせん。お前たちの企みをもう少し盤石なものにしてやろうというのだ。浅はかにもお前がこの件に関わってしまった以上、我が公爵家も責任を追求されることとなるだろう。ならばせめて、お前の好きなようにやってみるがいい。家屋敷、そして私の身柄を抑えた所で、お前には我が領の騎士団を動かすことは出来ん。だが、私からの言葉があれば話は別だ。やってみるがいい」
レクトールの言葉が意外だったのだろう。ステイシアの口元に当てられていた扇が一瞬大きく動いた。
「それでは、私に力を貸して頂けるのですね? 歓迎しますわ、お父様」
「考え違いをするな。私はノイマン殿下とクライフドルフ侯のやり方は気に食わん。だが、お二方の手の中に皇帝陛下の玉体があらせられるのも事実。ならば陛下の臣であるこの身は、陛下をお守りする事を考えて行動せざるを得ん」
「…………」
「ステイシア。ノイマン殿下――いやクライフドルフ侯に取り次ぎなさい。お前にも後ろ盾となる力は必要だろう。皇帝陛下をクライフドルフ侯が擁し奉るのであれば、我がメイヴィス公爵家が先頭に立って賊を迎え撃つのは当然の事だ」
「……わかりましたわ、お父様。案内いたします」
ステイシアの後に続いてレクトールは歩き出す。
その顔つきは険しく、眉間にシワが寄っている。
有り体に言って、メイヴィス公爵家存亡の危機。
いや、ペテルシアがこの件に介入を試みているのなら、帝国の存亡の危機でもあるかもしれない。
ノイマン第二皇子とクライフドルフ侯の企みが成功したとしても、アルフレッド皇太子が彼らの企みを打ち砕き勝ったとしても、どのみちレクトールは公爵位を退くことになるはずだ。
ノイマン第二皇子が勝利を収めれば、レクトールは引退を余儀なくされ、ステイシアが侯爵位を引き継ぐことになるはずだ。
そしてステイシアが公爵位にある時間も、そう長い期間では無いだろう。
メイヴィス公爵家そのものが無くなる可能性が高い。
拘束を解かれ、自由になった手を揉み解しながら、レクトールは他の子どもたちのことに思いを馳せた。
レクトールが正式に後継者として定めたレイルズは、中央騎士団に配属されている。現在、百騎長の任にあるが、恐らく事情は一切知らされておらず、今も任務を遂行中だろう。
まさか皇位継承権簒奪の企てに中央騎士団が加担し、あまつさえ、その計画の中心に自分も妹が関わっているなど気づいてもいないだろう。
中央騎士団の団長でもあるクライフドルフ候は、自らの傘下にレイルズがいる事を知っているはずだ。
レイルズがクライフドルフ候の企みに気づき、もしも邪魔をするようであれば、密かに始末する事など簡単だろう。いや、いますぐに始末しないとも限らない。レクトールにはレイルズの無事を祈るしか無かった。
救いなのは次女のフェレシア。
フェレシアは、エメルディア大神殿領の修道院に留学していて、とりあえずその身は安全のはずだった。
そしてレクトールにとって唯一の希望は、アルフレッドと共にリヨンへ赴いたはずの三女レティシアの存在だ。
地上の権威に一切ひれ伏さない至高の存在――『神に限りなく近づきし存在』
アルフレッド皇太子の襲撃の現場に居合わせた可能性が高いが、騎士団を一人で制圧できるレティシアが、たかだか闇討ちができる程度の規模の襲撃者たちにどうにかされるとは思えない。
レティシアの存在があれば、メイヴィス公爵家の取り潰しは免れるかもしれない。
レクトールの与り知らぬことだったとはいえ、ステイシアがノイマン第二皇子とクライフドルフ候の企てに加担してしまった以上、アルフレッド皇太子とエルステッド伯が勝利を収めたとしても、メイヴィス公爵家の責任は免れない。
幾ら皇族とも血縁がある公爵家といえども、一族郎党は首をはねられて領地は没収されるだろう。
ただし、レティシアだけは別だ。
皇帝といえども、レティシアにだけは手出しが出来ない。
だから、レティシアが生きている以上、メイヴィス公爵家の血が途絶えることだけはない。
レクトールはレティシアの顔を思い浮かべて、苦笑した。
他の子どもたちと比べて、レクトールにとってレティシアは縁の少ない娘だった。
実の娘だが幼少期は言う事を聞かず、落ち着きの無い問題児で、レクトールを含めた家族は彼女を遠ざけていた。
そのレティシアが実は勇者として運命を与えられた者で、幼少期の様々な問題行為は、天才故に周囲が当てはめようとした枠に嵌まらなかっただけの話だった。
レクトールはそれに気づく事ができず、結果、レティシアはメイヴィス公爵家の人々から距離を置くようになってしまった。それが残念でならない。
(そういえば、レティシアの想い人はコーネリア皇女の親衛隊ではなかったか?)
公爵家の娘の伴侶としては、絶対に許されるはずもない平民の青年。
そんな平民の青年に対して入れ込んでいるレティシアを、レクトールは叱りつけた事もある。そして、メイヴィス公爵家と家格が釣り合う男性を見繕い、レティシアに充てがおうとした事もある。
当然レティシアは強く反発を見せ、その時はその話は有耶無耶となったのだが、その後、レクトールが機会を窺っている内に、その平民出身の青年を取り巻く環境が一変した。
たかだか騎士候補生だった彼は、通常の騎士のコースではなく、帝国第一皇女の従士となったのである。運も味方したのだろうが、平民としては破格の出世。いや、前代未聞の快挙と言ってもいい。
皇族の覚えもめでたいとなれば、いずれ彼は貴族に列せられるかもしれない。
(運といえば、あの青年がレティシアと出会い師匠となったことも運か……。勇者となる前のレティシアと出会えたがために『勇者様のお師匠様』などという、身分不相応な肩書きを得ただけの青年。そう思っていたが、もしかしたら彼に出会えたからこそ、レティシアは『勇者』となれたのかもしれん)
騎士に囲まれて屋敷の外へと出たレクトールは、ステイシアが用意させた馬車へと乗り込むと、皇宮に向かって走らせた。
(そういえば、あの青年の名前はなんといったかな)
コーネリア第一皇女の従士となった彼もまた、皇宮でクライフドルフ侯の手の者に捕らわれの身となっているかもしれない。
クライフドルフ候にとって皇帝アレクセイと、アルフレッド皇太子に次ぐ皇位継承権を持つコーネリア第一皇女は、何を置いても再優先で確保する目標だったはずだ。
生きて捕らえられていれば、ステイシアと同様に彼は確実にレティシアに対する切り札として利用されるだろう。
レティシアの入れ込みようからして、ステイシア以上の切り札となり得る。
彼の命を盾にすれば、レティシアを言いなりにする事も可能。
(いや、そうなったら黙って言いなりになる娘ではないか……)
レティシアは万難を排して、青年を助け出そうとするだろう。そして青年に万が一危害が及べば、帝国そのものが滅ぼされかねない。
青年の命を掛け札にするよりも、彼の安全を保証することでレティシアがこの一件に手を出さぬように利用するのが精々といったところか。
(このくだらぬ戦いが終わって、もし我が身が無事であったなら、一度レティシアに言ってあの青年を当家に連れてこさせるか。もちろん、客としてだ)
そんな取り留めもない思考ができるほど余裕が出てきたことに、レクトールは笑みを浮かべた。
(我ながら下らぬ冗談になるが、こんな所でレティシアの存在は私に勇気を与えるか。だからこその勇者といったところなのかな)
声を押し殺して笑っていると、馬車に同乗していたステイシアが困惑したような顔で、レクトールの様子を窺っていた。
険しい表情をしていた父の顔が笑みを浮かべた事を、薄気味悪く感じているのかもしれない。
レクトールは馬車の窓から、通りの様子を覗き見た。
貴族街の中心を貫く大通りには、深夜だというのに武装した騎士たちの姿が見られて、物々しい雰囲気に満ちている。その様子に帝都シムルグは速やかに制圧され、現在ノイマン第二皇子とクライフドルフ候の支配下に落ちた事を悟らずにはいられなかった。
唯一の救いは、あまりにも迅速な行動だったため、帝都に無用な混乱が見られないという所だろう。
今の所という注釈は付くが。
現在の帝都の様子が地方に伝わった時、中央から距離を取っていた貴族、そしてクライフドルフ候の息の掛かっていない騎士団の将軍たちがどう動くのか。
そして何よりも、ステイシアの話からペテルシア王国が今回の一件に関与している事が確認できた。
ペテルシア王国の意図がどのようなものなのか、今はまだ判断ができないが、予断は許されない。気は進まないがクライフドルフ候に協力をしつつ、出来る限り外夷から帝国を守る必要があった。
レクトールは腕を組むと、馬車の揺れに身を任せて目を閉じた。
これから先の困難を考えて、少しでも頭と身体を休ませるために。
ウィンが捕らえられて、レティシアが利用されるかもしれないというレクトールの危惧は、幸いな事に当たることはなかった。
ノイマンとクライフドルフ侯の配下の者が、皇宮内奥の後宮へと踏み込んだ時には、コーネリアの姿はどこにもなかった。
当然のことながら、皇女付きの従士ウィンの姿もない。
皇帝アレクセイの身柄を押さえることに成功したものの、コーネリアを押さえることに失敗し焦ったクライフドルフ候は、皇宮内を隈なく捜索。更には帝都シムルグを封鎖して、その足取りを追ったが、皇女を見つける事はできかった。
その姿を消したコーネリア皇女の行方がわかったのは、帝都シムルグがノイマン第二皇子とクライフドルフ候の手に落ちて二週間後のことである。
友好国であるリヨン王国。その王都リヨンの王宮に、コーネリア皇女は姿を現した。
皇女は次兄であるノイマンから偽物と断じられた、エルステッド伯爵領に現れたアルフレッドこそ、敬愛する本物の兄であると断言。
そしてノイマン第二皇子こそ、先の皇太子襲撃の件の首謀者にして反逆者であると糾弾したのである。
皇族として決して見逃せない事態に対し、コーネリア皇女はアルフレッド皇太子を擁するエルステッド伯の支持する立場を宣言すると、アルフレッド皇太子、コーネリア第一皇女連名の許、リヨン王国と同盟を結ぶ事を宣誓した。
そしてリヨン王国はアルフレッド皇太子との同盟に基づき、援軍を送ることを布告したのである。