第四部エピローグ
『リヨン王国親善訪問団が襲撃される! 皇太子殿下の生死不明!』
一国の皇太子が襲撃されるなど、真実が確認されるまで秘匿されるのが普通だというのに、その報せは奇妙なほどに人々の間を駆け巡った。
平民たちにとって普段、皇族や貴族に関してのことなど、納税の季節か節目の祭りの時にでもなければ関心があることではなかったが、さすがに自国の皇太子が生死不明ともなれば関心を寄せ、不安な空気が広がる。そのため、次に民たちの間にもたらされたアルフレッドの無事が確認され、予定通りにエルステッド伯爵領へ入ったという報せに安堵の声が聞かれた。
だがその報せには、不吉な噂がつきまとっていた、
あの悪名高いエルステッド伯爵が、皇太子殿下を弑し奉り、偽物の皇太子を立てて皇位を狙っていると――。
あまりにも荒唐無稽な噂だったが、この噂をあっさりと否定出来ないのは、実際に騎士団の動きが活発化しているからだ。
帝都内の各重要な役所や施設には、大勢の騎士や兵士たちが厳戒態勢を敷いている。帝都の門前の広場では市の休止の触れが出され、大量の軍需物資が山と積まれていた。
行動の目的は正式に発表されていない。皇帝アレクセイからの発言も無い。
だが、この軍事行動が先のリヨン王国親善訪問団の襲撃に関係していることは、タイミング的にも明らかであった。
広場で待機する中央騎士団には、第二皇子ノイマンを示す紋章が刻まれた軍旗が翻っていて、この軍の総指揮官がノイマンであると周囲に知らしめている。そしてその脇には、中央騎士団団長のクライフドルフ侯の紋章旗。
皇族とともに、帝国の騎士団を統括する将軍が動くとなれば、これから始まろうとしている戦は、大規模なものとなるに違いない。ザウナス元将軍のクーデター未遂から一年と少し――再び、帝国内で大規模な内乱が起こるのではないか。そんな予感に、帝都の空気は徐々に張り詰めたものになっていったのである。
帝都シムルグ、城壁にほど近い街角の一角。
城壁周辺は帝都の住民としては、最も貧しい階層が住んでいる地区。帝都の外壁の外に広がる貧民街に比べれば、多少はマシといった程度の町並み。
皇族や貴族といった天上世界の事などとは縁遠いこんな場所でも、大規模な戦が始まるかもしれないという不穏な噂は十分なほどに広がっていた。
(いよいよか……)
もうすぐ日が昇るという朝方――。
まだ毛布に包まって眠る娘の寝顔を見守りながら、男は出来る限り音を立てないようにして武具を身に付けていた。
使い込まれて少々古びてはいるが、丁寧な手入れが施された鎧。その胸元には、何かが剥ぎ取られたような傷痕が残されている。
男はその傷痕をそっと右手の平で押さえた。
(一年……一年か…‥…)
元々、男の住んでいた場所は帝都でもそこそこ裕福な階層が住んでいる地区だった。その家を出て、父娘が飯炊きをし寝ることが出来るだけの小さな家に引っ越してきてから、およそ二年近くの歳月が過ぎていた。
(よく我慢してくれたな)
妻はすでに亡くし、娘との二人暮らし。
引っ越してからも、日中は帝都外に出て森の中で鍛錬に明け暮れ、支給される僅かばかりの金で糊口凌ぐ毎日。
それまでとは全然違った貧しい暮らしに、娘は文句の一つも言うこと無く耐え忍んでくれた。
(そういえば、こんなに一緒にいることは無かったな)
確かに日中は鍛錬のため家を空けていることが多かったが、それ以外の時間は父娘で過ごすことが多い。これは男が騎士団へ勤めていた頃には、できなかったことだ。
(本当に苦労を掛けた。だが、どんな形になるにしても、この生活ももうすぐ終わりになる)
表の扉が微かに叩かれる音がして、男は娘の寝顔から扉へと目線を向けた。
決められた符丁通り、一回、二回、一回と。
男は剣を手にとって立ち上がる。
丁寧に磨きこまれた騎士剣。
この時のために、男は可愛い娘にも貧しい思いをさせながら、じっと耐え忍んできたのだ。
「準備はできているか?」
戸を開けると、いつも多少の金銭とたまに差し入れを持って来てくれる、連絡役の男が立っていた。
ただ、いつもと違うのは、男もまた音を立てないよう革鎧に身を包み、腰に剣を帯びていることだろう。
「準備など、閣下がお亡くなりになられて以来、ずっとしてきたつもりだ」
男の返答に連絡役は頷くと、男の肩越しに家の奥を見た。
「……娘さんは?」
「昨日のうちに別れは済ませてある」
「そうか……」
連絡役はそれ以上何も言わない。
男が戻れなかった場合、娘はかつての同僚の妻に面倒を見てもらうことになっていた。
男はもう一度、胸元に残された傷痕へ手を当てる。
その仕草に、連絡役もまた同様に己の胸元に手を当てた。彼の革鎧にも、男と同様の何かが剥がされた傷痕が残されていた。
「我らに再起の可能性を残してくださったアルフレッド殿下のためにも……そして、志半ばで倒れたザウナス閣下の無念を晴らすためにも」
◇◆◇◆◇
ルーム川を渡ってクレナドの町を離れると、深い森一辺倒だった景色が少しずつ様変わりをしてくる。
背の高い木々は段々と見られなくなっていき、なだらかな丘陵が続いていた。
丘陵は一面に草が生えていて、ときおり白い点々のようなものが固まっているのが見える。近くの村で飼われている羊や山羊たちだ。
人の往来で踏み固められた道にだけ草が生えておらず地肌が剥き出しとなっていて、遠くの丘の道もくっきりと見ることが出来た。
「おお、絶景ってやつだな!」
先頭を歩くアベルが、目の上に手をかざして言った。
アベルもクレナドに住む親戚を訪ねたことはあるが、その先はまだ訪れたことはなかった。
徒歩での長い旅路は過酷だが、新しい世界を見るためとちょっぴりのウィンへの対抗心から冒険者を志したアベルにしてみれば、この旅は心躍らせるものだろう。
ましてや、仕事の内容は護衛。冒険者として花型の仕事の一つである。
張り切っていることもあってか、アベルはまだまだ元気が有り余っていそうだった。
だが、後方を歩いているセリとリーズベルトの二人は、深刻な表情を浮かべていた。原因は、クレナドの冒険者ギルドで、アベルが入手してきた情報。
皇太子アルフレッド殿下のリヨン王国親善訪問団が、逆賊に襲撃されて生死不明。いや、生きていると発表があったものの、シムルグのノイマン皇子はそのアルフレッドを偽物と断定して、逆賊の首謀者と思われるエルステッド伯に対して軍を興している。そのことに関連して、国境の町ペシュリカの先にあるリヨン王国へ渡るための橋が軍によって封鎖されいるらしい。
この二つの情報を入手してきたアベルは、前者の皇太子襲撃に関して興奮したように語っていたが、セリとリーズベルトの二人が顔を曇らせたのは、後者の方の情報だった。二人はポウラットから事のあらましを聞いていたので、皇太子襲撃に関しての裏事情を知っていた。
軍によって国境が封鎖されてしまうと、ウィンとレティシアが向かったとされるリヨン王国へ行くことができなくなる。
リーズベルトの心境としては急ぎたい旅路だ。しかしクレナドとペシュリカを結ぶ街道以外にも迂回路はあるが、どちらも遠い上に、三人ともこの辺りの地理に詳しいわけではないので、結局ペシュリカまで行ってみるしかない状況だった。
『うーむ……無駄に足止めを食ってしまいそうだな』
『すみません。私が抜け道でも知っていれば良かったんですが……』
『いや……抜け道を知っていたとしても、そこで万が一見張りでもしているものがいれば、却って怪しまれて時間が掛かってしまう。ひとまずこの道を進んで、国境を通れるならばそれでよし。通れなければ、その時になって別の手を考えよう』
『はい』
(いざとなれば、魔法を使って川を渡るか)
魔法で風の膜を張って川底を行けば、川を渡ることができないこともない。ただ、この方法での渡河は割りと知られているため、軍が動いているのであれば、軍付きの魔導師が感知系の魔法を張り巡らしているかも知れない。
見つかってしまって面倒なことにはしたくないため、あくまでも最後の手段としたかった。
視界ぎりぎりの彼方に、宿場町の影が見えてきた。地図によるとミトスという名の町である。
「何だろう? 関所みたいなものがあるぞ?」
アベルが足を止めて、後方の二人に注意を促した。
ミトスの入り口に、木材で作られた柵と小屋のような建物が築かれていて、槍を持った兵士がウロウロしている。そしてその周囲には、荷物を満載した馬車を幾つも引き連れた隊商や、己の足だけで町や村を歩く行商人、冒険者風の格好をしたものたちがたむろしていた。
どうやら荷物検査などで足止めを食らっているらしい。
近づいていくと、三人に気づいた騎士が二人の兵士を従えてやってきた。
「荷物検めだ! 貴様らは何者か? どのような用件でこの道を行く?」
騎士が口を開く。
「先日両親を亡くしまして、リヨン王国に住む親戚を訪ねようと旅している者です」
兵士の前に進み出たセリが、前もって考えていたセリフを言う。
「リヨンに親戚を訪ねる? 女一人でか?」
「はい。道中が物騒なので、こうして護衛も雇っております」
「護衛ね……」
そこで、騎士はセリの後方にいたリーズベルトとアベルの二人へと目を向け、ギョッとしたような表情を浮かべた。リーズベルトとアベルは、騎士に無言で頭を下げる。
「エルフか」
リーズベルトの特徴的な耳で、彼が森の住人エルフだとわかったらしい。
エルフは一般的に、人よりも強力な魔力を持っているとされ、戦士たちは勇猛果敢であると知られている。
身体検査を騎士に命じられた兵士たちは、病み上がりとはいえ、リーズベルトの鍛えあげられた肉体を見て、慎重に調べていた。
別に三人共、怪しまれるような荷物も持っていないため、荷物検めを受けている商人たちと違い、すぐに町へと入ることが許された。
ミトスの町は中心に大きな広場があって、多くの店が軒を連ねている。旅の商人たちも広場で商売をすることが許されているらしく、めいめいが筵を敷いて、野菜や茸、山鳥や獣の肉、珍しい物では海産物の乾物といった品物が並べられている。少し規模は小さいが、シムルグの朝市のような光景だった。
旅の商人をあてこんでか、広場の周囲には宿屋が何軒かあって、セリたちはそのうちの一つに腰を落ち着けた。
セリが個室で、リーズベルトとアベルが同室である。
『賑やかではあるが、シムルグで見た市ほどではないな。帝国の権力争いのせいか』
三階の部屋に通されたリーズベルトは荷物を降ろすと、窓から見える広場の様子を眺めてつぶやいた。
『まあ無理もないか。武器を持った人間がウロウロしていては……』
広場の中心。そこには大量の麻袋や大きな木箱が積み上げられていて、槍を持って武装した兵士たちが見張りに立っている。
買い物に行き交う人々は、不安そうな表情を浮かべて彼らを見、そそくさと必要な物を買っては、足早に立ち去っていく
あまりジロジロと窓から眺めていては、兵士たちに見咎められるかもしれない。そう思い、リーズベルトは肩をすくめると、室内を振り返る。すると、彼と同室となった若き人間の青年と目が合った。
エルフ語しか話せないリーズベルトと、人の言葉しか話せないアベル。
どちらの言葉も操れるセリがいない今、二人は会話を交わすことも出来ず、部屋の中にはなんとも言えない気まずい空気が漂っている。
(ふむ…‥…どうしたものかな)
こうした場合、年長者である自分が主導権を握ってやるべきだろう。
そう考えたリーズベルトは、ひとまず腹ごしらえをしようとアベルに提案することにした。
人もエルフも、親睦を深めるには酒を酌み交わし、美味い料理を食べるのが一番。
リヨンまではまだまだ距離がある。それまで、この青年とも旅を共にするのだから。