『正気』
錆びた鉄、無表情な厚壁の向こうのぽっかりと空いた空間でふたつの呼吸が付かず離れず向かい合っていた。
片方は息を潜め、もう片方は息を荒げている。
静かなるは狂喜に破顔する道化の仮面に覆われた男。
戦慄するはか弱き乙女。
つんと鼻を突くような匂いがそこを満たしていた。
男が先に動き出す。手袋をはめたその手には太い針が握られた。
少女の顔がますます青ざめ、体躯の震えは限りを知らない。
男は自然に、そうするのが当然かのように、鋭く光を反射する針を、すでに治りかけの傷痕がちらほらと見える彼女の腕に食い込ませる。
「あ゛っ」
異物が皮膚を貫き、脂肪を侵し、筋肉に牙を立てる感触に、少女は嗚咽を漏らした。
だがそれはまだ悲鳴にならない。
何故ならば男の手には無数の針が待ちわびるかのように順番に列をなしていたからだ。
その光景が彼女に金切り声を飲み込ませた。
だが。
「イ゛ヤ゛アアアアア!」
2本、3本と貫かれるごとに痛覚が刺激され、それに合わせて少女は全身を仰け反らせ手足を大きくじたばたと振り回す。声も悲痛なものになってくる。
だが男は手を緩めることはない。何も言わず作業をこなすだけだ。
すべての針を彼女の左腕に突き立てると、男は動きを止めた。
ひたすらに、血筋浮かぶ剣山と化した少女の、もとは白く美しかったであろう華奢な腕を、ゆがんだ笑顔のまま見つめている。
少女が悲しげな、乞うような眼差しを男に向けた。
男が再び動き出す。
ゆっくりと、用意されたナイフに手を伸ばした。
掴み、握り、構え、少女に向き直る。
刀身から液体が一滴、したたり落ちた。
男の息は最初とは違い、弾んでいた。と同時に少女の息づかいも間隔を狭めていく。
男がそっと細い右肩を押さえる。
――そして
――――刃を
――――――振り下ろした。
少女の肩が削がれ、床に肉片がぴちゃりという生々しいと音と共に落ちる。
「~~~~~~~~~!?」
筆舌し難い喚き声、泣き声、悲鳴、絶叫を上げ、少女は椅子から転げ落ちた。
男はそれでも何も言わない。何も言わない。変わらぬ微笑みを湛えて。
少女の端麗な顔はひずみ、身体は激痛にのたうち回る。
腕を流れる鮮血は彼女のまっさらなワンピースを赤黒く染め上げた。
男は静かにナイフを置く。これ以上は動きはしない。
しばらくして。涙を薄く浮かべた少女が肩をおさえて弱々しく立ち上がる。
男に近寄り、そして、仮面をずらす。
少女は、ほんのすこししゃがみこみ――男に口づけをした。
彼の唇は、濡れていた。
限られた情報の中から“彼ら”の関係を推測してみてください。もちろん、はっきりとした正解なんてありません。
あなたの心が感じるままに、彼らの“想い”を見出だしてみてください。