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 数日が経った。

 ということは、アスアの性格が変わる、ということだ。

 蒼月の第一日。

 その日の朝食に、アスアは現れなかった。

 アスアはどんな風に変わってしまったのだろう。

 最近、何も考えない時間が長くなってきた僕には、珍しいことなのだが、現実の作業を忘れ、思考に没頭し始めていた。

 果たして、僕はアスアという人間にあったことがあるのだろうか。あの無口な少女も、ネガティブと無縁の少女も、一つの肉体に宿っていた。彼女達はアスアなのだろうか。答えはでないだろう。たとえ血戒が無化されたアスアと出会ったとしても、この疑問に決着がつくことはない。いや、決着をつけることはできる。あくまで、個人の思想という形でなら。しかし、そうしてしまえば、僕という人間の思考体系は決定的に変えなければならない。そうしなければ、その決着は嘘になる。

 まあ、深く考えなくとも、今のアスアがどうなっているかは気になる。

「シェルト、食べないの?」

「やっぱり、このご飯、苦いわよねー。ライラーひどくない?」

「フォートスの指示です。クレームはあちらにどうぞ」

 僕はそれらの声によって現実の引き戻された。

 朝食を食べ始めると、アスアについて、リアや母が心配するような会話をしていたことがわかった。ライラの方は、フォートスなら何とかしてくれる、というようなことをいって、二人を安心させる役に徹していた。

 僕は、食事を済ませると、ふっと意識が剥離されるような感覚、自分の外側に視点を持つような、そういう感覚にしばらく捉えられ、テーブルから動けなくなったが、母がハーブティーのカップを置く音を契機に通常の感覚に復帰し、ライラにハーブティーの追加を頼み、頭の中でいろんな悲劇的衝撃的パターンについて考え始めた。どんなアスアがでてきても大丈夫なように。

 ハーブティーを飲み終えると、完全に狂人となり、醜悪な表情で異言を吐き散らかすアスアに遭遇してもちびらないように、トイレに行って、残尿感が一切なくなるまで水分を出した。その最中で、追加で飲んだハーブティーは余計だったかな、と少し後悔した。

 仮に、アスアがひどい事態になっている場合、フォートスが確保していないわけない。

 そういうわけで、僕はフォートスを探し始めることにする。最初に行くのは、当然薬草園である。あそこには毒草の類もあるらしいので、子どもが安易に手を出さないように彼が警備しているという面もあるのだろう。薬草園が最も遭遇率が高いのだ。

 僕がトイレから出てくると、リアがいた。

「アスアちゃんを探そうと思うんだけど」

「うん、僕もそうしようとしていたんだ」

 すると、ライラがやってきた。

「二人とも、駄目ですよ。絶対に」

 アスアはどんな風になっているのだろうか。ライラの顔は真面目である。

 ゆったりと、母がやってきた。

「いいじゃない。友達が心配なのだもの」

「じゃあ、こうしましょう。リアは駄目、シェルトはいい」

「え! どうして!」

 リアが抗議の声を上げた。

「子育ての取り決め。私とフィアネの意見が対立した場合、私はリアの、フィアネはシェルトの教育方針の決定権を持つ。当然ね。リアは私の、シェルトはフィアネの子なのですから」

「あんまり普段はそういう話にならないんだけどね。大抵、私よりライラが正しいんだもん」

 母が苦笑気味にいった。

「お姉さま! お願い!」

「駄目よ。だって私もリアちゃんが会うことは反対なの。落ち込んじゃうと思う。シェルトは、妙に冷静だものね、もしかすると、フォートスの手伝いとか、できるかもしれない」

「トラウマにならなければいいのですが、本当にいいの? フィアネ」

 ライラは心配そうに見た。

「子どもを子ども扱いしすぎるのが、ライラの数少ない欠点ね。大丈夫よ、この子なら、何を見てもけろっとしているわよ」

 僕は母にどんな子どもと思われているのだろう。

 まあ、確かに、見に行ったらスプラッタしてたとか、何か別生物に変身してたとかならまだしも、性格変貌ならどんな風に変化していてもトラウマにはならないと思うけど。

「わたしも行く!」

 リアが駄々をこね始めた。その様子はいかにも七歳児といった感じである。

「ライラさん。僕が見て大丈夫だと思ったら、リアを連れて行ってもいいですか?」

 ライラは悩むような顔をした。

「……いいわよ。リアもそれでいいわね」

 しかし、実際的なライラのこと、これはその場しのぎの手段に過ぎず、僕がゴーサインを出しても、リアを力づくで引き止めるかもしれない。大人って汚い。でも、それはそれで、やっぱり子育てなので、問題ないと思う。僕だって、こういったのはあくまでリアをなだめるのが第一目的で、実際あとのことは、あとで考えればいいと思っている。僕も五歳児にしては大分汚い。でも、子どもというのは、大人が思っているよりは、汚いものなのだから、狡知を働かせるのも問題ではないと思う。本当の問題は、僕が本当に子どもなのかどうかという点である。今更感が漂う問題ではあるが。

 ぐずるリアが納得するのを確認して、僕は母に連れられて、フォートスとアスアがいる場所へと向かった。


 フォートスは薬草園に薬草を取りに行くといって、その間の見張りを僕と母に任せて部屋から出て行った。

 僕はアスアを見た。

「シェルト……なんで、あなたには母親がいるの?」

 アスアがいった。精神的に追い詰められていることがわかる声音だった。

「なんで、私にはいないのよ。死んじゃったのよ。生きてるのはずるいじゃない! ずるい、ずるい。ひどい!」

 きっと、悲哀とか、憎悪とか、憤怒とか、そういう感情しか今の彼女にはないのだろう。

 椅子に彼女は縛り付けられている。

「死んでよ、シェルトもシェルトのお母さんも。ずるい!」

 アスアの顔は真っ赤になっていて、口の端からは涎がたれ落ちている。その目もまた充血している。眉はつりあがり、眉間にしわがより、何かいおうとするたびに口は限界まで開かれ、唇の間には唾液が糸を引き、犬歯を初めとした歯列がその奥に見えた。彼女は常に限界まで前のめりになり、なんども体を縛めから解き放とうと、肩をぐいぐいと動かした。縛られていなければ、すぐに僕に襲い掛かっただろう。全身で瞋恚を示し続けたため、疲れたのだろう、彼女は何度か咽て咳き込んだ。しかし、その瞳だけは、僕や母の方、幸せな人間の方から逸らされることなく、爛々と輝き続けた。

 醜悪だった。

 感情の腐ったにおいがする。

 しかし、それらはどちらかというと客観的な評価、批評とでもいうべきもので、僕自身は彼女に対して、嫌悪の情をあまり感じなかった。憎悪を向けられた事実、それは人をもっと動揺させるものだと思っていた。たとえそれが理不尽でも。しかし、僕は冷静だった。あるいは、その憎悪を遠くにしか感じられない、と表現した方が正しいかもしれなかった。

「死んでよ! 死んでよ!」

 アスアはつばを飛ばして繰り返した。狂想は彼女の眼前で炎となった。

 パイロキネシス。

 僕が何かそれに対応するアクションを起こす前に、母が僕の肩に手を置いて、僕を安心させようとした。しかし、実際には、それは必要ないことだった。僕には、それを避けなければならないという理性的判断はあっても、彼女が思うような狼狽はなかったからだ。

「大丈夫よ。何もしなくても、届かないから、安全なの」

 果たして、僕の予想に違わず、アスアの眼前の炎は大きな蛇のような形をとり、僕と母に向かって放たれた。しかし、それは母の言葉どおり、僕と母には届かず三十センチほど先で、見えない壁に阻まれ、熱さえ通しはしなかった。

「怖がらないのね?」

 母は驚いていた。

「怖いよお母様、って抱きついた方が良かったですか?」

 僕は感情を込めずにいった。

「そうね。それはシェルトらしくないかもね」

 母は苦笑した。母は僕がこういう人間だから、ここに来ることを許したのだ。それでも、巨大な炎を怖がる幼児、というのは異常なのだろう。母は続けた。

「でもやっぱり、そうして欲しかったかも」

「ごめんなさい」

 僕は心のこもらない謝罪をした。

 再び炎が襲い掛かった。しかし、それも不可視の壁に阻まれた。

「これはフォートスが仕掛けた法術ですか?」

「そうよ。性格が変わる日はわかっていたから、その日だけは、フォートスに預ける約束をしていたの。いろんな悪化パターンを考えてフォートスはこの部屋を用意した。この部屋では、肉体的に大きな損傷が予想されるような力を察知すると、バリアが自動展開されるようになっているの。それ以外にも、肉体的な攻撃とかも防いでくれて、舌をかんだりもできなかったりするけど」

 この部屋は特別製らしい。しかし、似たようなセキュリティはおそらくこの屋敷のいろいろなところにあるだろう。僕はなんとなくそう思った。確信に似た思いだった。

「これは、性格変化のパターンの一つなんですか?」

 三度、炎が襲い掛かる。今度は前二回よりも大きい。しかし、効果はなかった。

「んー、フォートスがいうには、悪化して別の症状まででてきたって。この炎も血戒のせい」

 僕には血戒という概念も、それによって引き起こされる現象も十分に把握できてはいない。その治療についても。

 このパイロキネシスは薬草で抑えられる範疇のものなのだろうか。

 また炎が現れる。しかし、僕らには勿論、部屋の壁や調度にもすこしも届かない。

「フォートスは感情を抑える薬草で、炎も抑えられるって。感情が一番の原因だから。でも、完治はできないって。軽かった頃でさえ、対症療法だったんだから、当たり前だけど。自然に収まるか、ヴォルトさんが、そういうことできそうな人や物を探してくるか、だそうよ。この症状は難治性で、大抵こういう風になって更にすすむと死んでしまう。非常に珍しくて、治療に成功した人はほとんどいないって」

「なるほど、絶望的なんですね」

 僕は、アスアとその炎を見た。その炎が襲い掛かる様、僕が壁に守られる様を見た。現実感はいよいよ希薄になってきた。

 僕は、部屋の中のアスアの中の炎を見た。燃え盛るアスアの頭蓋の内側を俯瞰した。

「シェルト?」

 僕は母の呼びかけに気付いた。

「なんです?」

「部屋から出るわよ。なんだかこの部屋に入ってから妙に落ち着き払って、さっきからボーッとしてることが多かったけど、大丈夫?」

「大丈夫です」

 僕はアスアに背を向けた。僕の背中に炎が襲い掛かり、それが壁に防がれる光景を僕は見た。

 そのあと、みんなでぐずるリアをなだめた。あんなアスアを見せるわけにはいかないだろう。


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