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「何をやっているんですか」
ライラがいった。
「カーテンフォール!」
アスアがいった。
「ベッドのシーツでですか」
「うん」
「フィアネまで一緒になって」
ライラは母の方を向いた。
「いいじゃない、たまには」
「まったく……」
僕はライラに同情的な態度を見せるべきか悩む。しかし、それより先に、リアが口を開いた。
「お母さん、性病とか不貞ってなにー?」
「……リア! 駄目よ、そんなこと二度と口にしないで! 絶対よ、約束ですからね!」
すごい剣幕である。
「ひぅ! わ、わかった。約束します……」
リアもおとなしく従った。
「今の劇の脚本を書いたのは?」
「本にのってるのを使ったの!」
アスアが元気よく答えた。僕は目を閉じ、深呼吸した。
「シェルトの部屋にあったの!」
ライラが僕の方を向き、微笑みを浮かべた。
「シェルト?」
「いえ、本当、僕のせいではないんです、僕別にその本読んだことないし、適当に書庫から見繕った本に紛れ込んでいたんじゃないですかね、適当においてあるのを採用したアスアの方が問題といいますか、いえ、僕にも責任がないとは思いませんよ、ですけどね」
「言い訳をするということは、この脚本に問題があるとわかっていたということですね。そうですよね、とっても不道徳ですよね、頭がいいもですのね、物知りですものね、わかりますよね?」
「ライラ、シェルトはわるくないのよ。これはただの不幸な偶然……」
「あなたも不幸な偶然を放って置いたら駄目でしょう! 親なのよ、あなた。フィアネ、わかってる?」
僕と母はまとめて叱られた。リアの情操教育上よろしくない演劇を黙認したことが、彼女の逆鱗に触れたらしい。この人、頭はいいのだが、少々頭が固い。現代日本に生まれていたら、PTAとしてなかなかの手腕を発揮したことだろう。
こういうわけで、僕の食事には苦い薬草が増えることとなった。
苦い、苦い、と何度も思ったが、口には出さなかった。
その数日後、夕食の席で、僕はすごいスープを飲んでいた。
食事というか、胃薬とかですよね、これ……と僕は思った。
「んー苦い、苦いわねぇ」
と母。
「同じく苦い。本当に苦い」
僕もそれに同意する。
「おいしいよ?」
リアがいう。
「色が違うよね、それぞれ」
アスアがいった。
それぞれのスープを見てみると、母は深い緑、ライラとリアは薄い黄色、アスアは茶色、僕は黒い。
舌がしびれる。良薬過ぎると思う。
「フォートスの指示です」
いや、嘘だろ、僕に限ってはライラがやったんだろう?
そういいたかったが、いうとどうなるかわかったものではないのでやめにした。
「苦い、です……あ」
「どうしたの、シェルト?」
リアが心配そうに僕の方を見る。いったいどういう顔をしているのだろう、僕は。
「気持ちよく……なってきた……」
「ちょっとシェルト! シェルト大丈夫?」
アスアが騒ぎ出す。
原因であろうライラも含めた全員の目が僕の方に向く。
視線が集中したせいか、僕の顔が火照る。耳に血が集まっていることを感じる。いや、視線を感じるまで、自分の体の感覚の異常に気付いていなかっただけ、という可能性もある。もともと僕の体は、こんなコンディションだったのかもしれない。
「……世界が見える……」
僕の口から謎の言葉が出る。ガシャンと音がする。
テーブルに突っ伏し、スープ皿に顔を突っ込んだ自分の姿が脳裏にはっきりと浮かぶ。
母が驚きの声を上げ、真っ先に動き出す。ライラがフォートスを呼びにいく。リアとアスアがなにやら騒ぎ出す。
母が僕の肩を揺さぶる。僕はうつ伏せになった僕を見た。
それから僕の意識が消えた。
庭が見える。屋敷が見える。気が見える。自分の寝室が見える。ベッドの中の自分の寝姿が見える。
僕が目を覚ます。自分のベッドの感触を確かめ、上体を起こす。
意識はどこかぼやけている。思考が淀んでいる。だるい。
窓から空を見上げると、大きな丸い物が見えた。
今は銀月、故に、空に丸い物が浮かぶとすれば、銀色の満月以外にない。
しかし、それは銀色には見えなかったし、そもそも既に、前の満月は過ぎ、今は新月に近づいていっている。月色のサイクルは朱橙銀蒼金碧。次に丸い月が浮かぶときは、蒼である。
その丸い物には、中央と周辺で色が違い、細かな風合いも月とはぜんぜん違う。
それはいったいなんだろう。その物体を認識しようと、僕は上体を起こし、窓の先を見た。
僕は、空を見上げ、そして、空を見上げる僕を見た。
僕は更に、僕の中に、地球時代の僕を見た。
その僕も、空を見上げていた。僕は人気のない夜道を歩くとき、月を見上げる癖があったことを思い出す。
朝、目が覚めると、体はすっきりしていた。
「目が覚めましたか? お水は要りますか?」
「ください」
ライラは、水差しからグラスに水を注ぎ、渡してくれた。
「いや、大変だった。いったいどんな毒草をスープに混ぜたんですか?」
「あれは、フォートスの調合した薬草です。まさか、私が先日の恨みから毒を盛ったとでも本気で思ったんですか?」
「……いや、冗談ですよ? 本当に」
「ちなみに、ここ数日の薬草もフォートスの指示です」
「僕の体が弱っていたということですか?」
そうだとすると、僕は自分の体調に甚だ鈍感ということになる。もちろん、本人さえ気付かない兆候を見逃さないフォートスの眼力がすごい、という話でもあるだろうが。
「そのようです。病気の兆候が少しばかり見えたそうで、それにあわせて、薬を調合したところ、思わぬ副作用が、ということらしいです。こんなことは、はじめてですね」
副作用か。
最期に掛かるのがいい医者、という話がある。症状に対して総当りで治療法を試すが、せっかちな患者は一つ試すたびに医者を替えてしまい、結局最期に掛かった医者が消去法で治療に成功、という話だったはずだ。その人に合った治療を発見するのが博打なら、その人に合わない治療をしてしまうのも博打である。
とはいえ、僕はフォートスの医療手腕に関して、診察室に入ってくる姿を見ただけで症状がわかる名医、みたいなイメージを抱いており、こういう不手際は起こさないと信じきっていたので、素朴な驚きがある。
「こんなこともあるんですね」
「フォートスも首をひねっていました。あとで、謝罪に来ると思いますよ」
「謝られても困りますね。これこそ、本当に不幸な偶然なので」
また、意識が急にフェードアウトして、目が覚めるとすっきり、というのも変な話である。この世界には、地球の常識では考えられないことが山ほどあるので、考えても無駄な気はするが。
「ねえ、ライラさん。昨日の夜の月はどうだった?」
「細い細い銀月でしたよ?」
「次の新月は?」
「三日後ですね」
アスアは次、どのような性格になるのだろう。
「食事、こちらに持ってきますね」
ライラはそういうと、部屋に出て行ったが、そのあとすぐに母が部屋に入ってきた。
戻ってきたライラが母を追い払うと、僕はそのすこし消化によさそうで、なおかつ苦い食事を食べた。
目が覚めたときから健康だったが、ライラに部屋から出ることを禁止されてしまっていた。しかし、フォートスに頼むと、フォートスがライラと話をつけたらしく、午後からは自由に動く許可がもらえた。
木に登ろうとすると、リアとアスアに止められた。樹上で気を失うと大変だから、と彼女達はいった。
しかし、だからといって、木に登らないことが、彼女達と遊ぶ理由にはならないと思った。そう真っ正直に口に出すのもあれなので、体調がすぐれないからベッドで本を読むことにする、と彼女達の誘いを断ろうとした。すると、二人は木に登ろうとする気力があれば、地上の遊びは大丈夫、と僕の嘘を論破した。
僕は連行された。
「で、何をするの?」
よく屋内の遊びに利用される空き部屋の一つに連行された僕はまるで姉妹のような二人に尋ねた。アスアの感情が「喜」とか「楽」とかに偏ってからというもの、リアとアスアは本当に息が合っている。僕は元気が良すぎる人の遊び相手に向いていないと思うのだが、二人はそうは思わないらしい。
リアとアスアは何をするかについて議論を始めた。
「かくれんぼは?」
アスアがいう。
「シェルトが疲れない遊びの方が良くない?」
リアが却下する。
「じゃあ、おままごともだめだね」
「んー、おままごとは大丈夫じゃないかなぁ」
「でも、昨日劇をしたし、今日は別の感じで」
「おままごとと劇は違うよ。おままごとはプライベートで劇はパブリックよ」
「リアちゃん、やや意味がわからない」
「おままごとは秘め事、劇は露出プレイよ」
「やっぱりわからない!」
「リア、そういうこと、ライラさんの前じゃいわないでね」
僕が怒られる可能性が高いから。
「まあ、いいわ。おままごとの美学は勝ち馬に乗ることなの。それだけは覚えておいて」
「うん。多分忘れると思う。で、リアちゃんは何がいいの? 劇以外で」
「おままごと」
「劇以外」
「おままごとは劇じゃないわ」
「むー。やっぱり劇に似てるよぉ」
「いえ、だから」
「おままごとはプライベートで、劇はパブリック?」
「そう。アスアちゃん覚えているじゃない」
「でも、おままごとって劇と似てるよ」
「いえ、ぜんぜん違うわ!」
子どものことだから、普通この辺りでヒートアップして、ケンカになる可能性は十分ある。僕自身、地球時代よりも感情制御が甘くなったという実感があり、感情に振り回されて、リアとケンカしてしまうことも過去に何度かあった。そうはいっても、流石に怒りに我を忘れてしまうことはなかったので、僕が怒ってもねちねち嫌味っぽくなる程度だったが。
しかし、アスアは怒るということができない性格になっていたので、リアのちょっとした苛立ちに共鳴することなく、カラカラと笑って、言葉を返した。
「リアちゃん、なんでそんなにおままごとにこだわるの?」
「それは、予行演習だからよ」
「予行演習?」
「ええ、そう」
「何の?」
「……」
リアはちょっと困ったような顔をした。うっかり口が滑った、という罰の悪さが顔に表れていた。おままごとなんだから、まあ、家庭生活の予行演習なんだろう。リアが実際なんで具合悪そうにしているかはわからないが、確かに「結婚後の生活をシミュレートしたいから、練習相手になれ」と友達にいうのは、あんまり気持ちいことじゃないかもしれない。
「リアちゃんどうしたの?」
「……今日はおままごとはいいわ。劇とおままごと以外でアスアちゃん、何がいい?」
「お絵かきは?」
「お絵かき、うーん」
リアは考えている様子である。
「アスアちゃん、ここに積んであるゲームより、お絵かき?」
「うん、お絵かき」
「いいんじゃない、お絵かき」
僕がアスアに加勢する。すると、リアも納得した。
「じゃあ、お絵かきしよっか」
「道具はどうする? ここにあるのを使う? それとも探してくる?」
僕はリアに聞いた。この屋敷のどこかにはまだ使われていない様々なアイテムがあるのだ。
「アスアちゃん、これでいいー?」
リアは筆と水彩絵の具と大き目の粗い紙をアスアに見せた。
「うん、いいけど、これ以外にもあるの?」
「んーあると思うけど、どこにあるかはよくわからないし、もしかするとないかも」
「じゃ、これでやろっか!」
「うん」
「で、何を描くんだい?」
僕の問いに対して、二人は同時に唸りはじめた。
「お母さんを描こうかな」
リアが先に答えを出した。
「んーお母さん、んーお父さん、死んじゃってるしなあ……おじいちゃんどっかいっちゃたし、んーお姉さまを描く!」
アスアも答えを出した。
リアはアスアの両親が死んでいる、という言葉にショックを受けたらしく、どうすればいいのかわからないという顔をして、助けを求めるように僕の方を見た。これについて、慰めるべきか、流すべきか。あるいは、その二択さえリアにはまだなく、しかし、それが繊細な話題であるという確信だけがあるのかもしれない。
アスアが両親が死んでいるという、本来なら聞かれない限り言葉にしそうもないことを無造作に言い放ったのは、現在の性格ゆえだろう。歓喜ばかりが肥大化しているせいで、人生におけるネガティブな事柄に対してどこまでも鈍感になってる。
だから、僕は流すことにした。真実彼女は、両親の死について何も思っていない。抱くべき感情は、現在封印されているのだ。
「僕は外で、大きいクラムの木を書くことにするよ。二人はどこで描く?」
母の絵を描けば、母は喜ぶだろうが、僕は恥ずかしい。後々までとって置かれたりすると、絶対に居心地の悪い思いを味わう羽目になるのだ。描くなら静物に限る。人間を描く場合、誰にも知られぬうちに処分をする算段をつけてから出ないとだめだ。
「じゃ、私もお外にいこっかなー」
アスアはあいかわらず陽気にいった。
「……私も、一緒に行く」
リアは少しだけしゅんとしている。しかし、すぐに元気を取り戻した。
僕達は精一杯自分の描きたいものを描いた。
人目を気にしない創作は、ただ気持ちよい筆運びを模索しているうちに終わってしまう。描いたものなど、自分にだけわかればいいのだ。それはとても自由な体験だった。