表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/10

6


 ヴォルトが屋敷を発ってから、二日がたった。

 アスアは特に寂しげな顔もせず、いつもどおり無表情だった。

 彼女は、僕やリア同様に、フォートスに勉強を教えてもらうようになっていた。

 フォートスは僕に、薬草についてあれこれと教えるようになった。また、かなり理屈っぽい体術も教えてくれるようになった。おそらくはヴォルトの訓練を彼なりに引き継いだものと思われる。また、法術の課題がやや難しく、量も多くなった。これも訓練の一環なのかもしれなかった。

 僕は、天気のいい日は、朝食後なり昼食後なりに木に登る生活に戻っていた。保護者がいないのに屋敷の外に出ることはできないし、木のぼりは、狩りとはまた違う種類の充実感を僕に与えてくれる。やはり、これが僕には妙にピッタリくるのだ。なぜかは知らないが。

 以前よりも、僕は木登りがうまくなっていた。体の動かし方がより効率的になっていたし、感覚的に鋭敏になってもいたからだ。

 僕は、ふと樹上に人影を見つけた。

 それはアスアだった。

「やあ、アスアも木のぼり? リアはこういうの嫌いらしくってやりたがらないけど、君は違うんだね」

「…………」

「ここはいいんだけれど、あっちの木は、かなり毛虫が多いから行かないほうがいいよ。まあ、毛虫が気にならないんだったらいいけど」

「…………」

「ああ、でも、毛虫が多い分、鳥も多いんだ。見てる分にはいいけど、糞には困るね、まったく」

「…………」

 だめだ。取り付く島もない。

 こういうとき、母やリアは懲りずにアスアにまとわりつくのだが、僕はそういうタイプではない。

「それじゃ」

 僕はそういうと、アスアに背を向け、次の枝に跳躍した。

 緘黙の子供というのは、三十から四十人くらいを一つのクラスに押し込める学校という場所ではクラスに一人くらいは珍しくもなかった。彼女はそういうタイプなのだろうか?

 やがて僕は地上のリアに発見されて、彼女の遊びに付き合うこととなった。

 もしかすると、アスアはこれから逃れるために木に登ったのかもしれない。


 母の献立が時々微妙に違うことに僕は気付いていた。

 ふと、今日食事風景を眺めていると、アスアの食べているパスタの色が自分の食べているパスタよりも少し緑色が濃いことを発見した。だからなんだというわけではないが。

 僕は夕食を終えた後、書庫に向かう途中、窓から空を見上げた。月はなく、かわりに星がたくさん見えた。

 この世界の月は、新月から三十日で満月になり、さらに三十日で新月に戻る。この六十日が一月となる。そして、その六十日のサイクルごとに月の色が変わる。朱橙銀蒼金碧。この色もまた不変のサイクルをなし、朱のあとには常に橙、碧のあとには常に朱がくる。月の名前は、色の名前である。碧月に年が終わり、朱月に年が新しくなる。故に、一年はおよそ三百六十日となる。

 今は橙月。だが、既に新月なので、明日からは銀月である。

 僕は、ふと空に丸いものを見た気がした。

 月でもあるまいに、とそれを改めてみようとしたが、見つからなかった。

 諦めて、窓から目をそらし、書庫のほうを見ると、そこにアスアがいた。

 なぜだかだるそうである。しきりにこめかみに指を当てたりしている。彼女は僕に気付いていない。あるいは、気付いていても、気にしていないのかもしれない。

 フォートスのことだから、アスアの体調を気にして、彼女の料理にのみ、特別な薬草をいれるようにライラに指示したのかもしれない。それはありそうなことだ。

 アスアはふらふらと歩いて、そしてカクンとひざを突いた。

 僕が走ってそちらへ向かうと、アスアは既に立ち上がっており、僕のほうに顔を向け、「必要ない」とでもいうように、頭を横に振った。僕は、手を貸さないことに決める。ただし、彼女がゆったりと自分の寝室へ向かうのを少しはなれたところから見守り続けることにした。彼女はやがて、寝室に消えた。僕はそれを確認すると、再び書庫へ向かおうとした。

「あら、シェルト」

 すると、母に呼び止められた。

「やっぱり、お母さんと一緒に寝たいの?」

 最近、僕は一人で寝るようになっていた。

 母はどうにもアスアと仲良くなりたいらしく、彼女と一緒のベッドを使う。しかし、僕は母一人でさえ寝るのに正直煩わしいので、頼み込んで一人用のベッドを用意してもらった。ヴォルトは僕が一人で寝ると聞いて、夜襲に備えたベッドメイキングと眠り方を僕に教えた。当たり前だが、全く役にはたっていない。

「いえ、通りかかっただけです」

 母は非常に残念そうな顔をした。

「……そう」

「じゃあ、僕は書庫に行きますので」


 翌日は朝から驚きの連続だった。

「おっはよー、シェルト! いい朝だね」

「誰お前」

「ひっどいなー。アスアだよぅ、毎日あってるじゃない」

 アスアはニコニコと、やたら明るく、ひたすら明るく挨拶してきた。

 躁鬱の人だったのか? しかし、子どもの躁鬱は非常に珍しい。発病率はきわめて低いだろう。僕は、親戚に統合失調症患者と躁うつ病患者を持っていたが、発病したのは二人とも青年期以降だったので、子どもの躁鬱病には遭遇経験がない。

「あ、お母様、おはようございます」

「朝からアスアちゃん、元気で驚いたでしょう? 月ごとに性格がかわるんですって」

「なるほど」

 精神病なのか、血戒なのか、詳しいことは母よりフォートスに聞くほうが良かろう。とりあえず僕は納得しておくことにした。

「わーシェルト髪さらさらー。ふふ。おんなのこみたい」

「……なれなれしい……」

 僕はアスアから距離をとった。無口だった頃はすこしばかり近づいてみるべきか考えてみることもあったが、こうも急激に近づかれると、困る。より具体的にはうざったくなってくる。元々僕は人付き合いが得意なほうではないのだ。

「おはよう。シェルト、アスア、お姉様」

 リアが現れた。彼女はいまだ眠そうで、どうにも現在の異常に気付いている様子ではない。

「おはよー、リアちゃん。眠そうだね」

「えっ……え?……誰?」

「だよね」

 僕は深々とうなづいた。

「アスアちゃんよ」

 母はとがめるようにいった。

「アスアをアスアってわかってくれた人、お姉さまだけでした。アスア悲しいー」

 アスアは泣きまねをした。というか、母はアスアにも「お姉さま」と呼ばせようとしていたのか。これまでは、そもそも会話が成立していなかったので、きっと今日になってようやく呼んでもらえたのだろう。そう考えて母の顔を見ると、やたらうれしそうにも見える。

 今のアスアとリアと母はとても相性がよさそうだ。パーソナリティが陽性に偏っているからだ。ライラや僕やフォートスは陰性である。なので、リアと母にライラを加えても、それほど喧しい事態には発展しなかった。しかし、リアと母にこのアスアを加えると、いよいよ姦しい。陰性三人でブレーキを掛けることができるだろうか。わからない。

 僕はアスアに関して考えることが面倒くさくなり、朝食の席に着いた。

 用意された朝食を食べていると、アスアが騒ぎ出した。

「にーがーいー!」

 昨日まで顔色一つ変えずにもそもそ食べていたじゃないか……と僕はつっこみたくなった。

 しかし、リアと母は、楽しそうに共鳴を始めた。にーがーいーにーがーい。

 僕はため息をつくと、いつもより急いで食べた。


 フォートスから、アスアの症例が載った本を貸してもらい、木に登った。部屋で読んでいると、リアやアスアに妨害されると思ったからだ。

 落ち着ける場所で本を開くと、硬質な文章に一瞬気後れを感じてしまった。

 斜め読みで何とか読み進めていくと、アスアの症例らしきものを発見した。

 月色性情動変質障害。原因は血戒。

 この世界においては、一部の病気を除いて、精神の異常は八割がた血戒に由来する、とされる。

 血戒、というのは、この世界にあって地球になかった概念である。

 これをある程度理解せねば、この世界における学問の大半は理解できなくなってしまう。

 本来は複雑な概念だが、血戒というのは、掻い摘んでいってしまえば、血に潜むペナルティである。あるいは、脳にインプラントされたマイクロチップ、前世より続くカルマ。人を内側から縛る鎖。そういったイメージで大して問題はない、と僕は理解している。

 それは、第二の神、血戒神フィスカテオにより人間に埋め込まれたという。

 血戒は、人の生命力を利用し、その人自身の行動を支配する。

 たとえば、頼まれたことにイエスとしか答えられない血戒。たとえば、大量殺戮に淫する性向に人を変える血戒。

 血戒は本人に気付かせることなく、その行動を制約する。フィスカテオはそれらを以て人世を支配せんとした。いや、正しくは血を持つ全ての生き物を、支配しようとした。

 完全な支配である。人は皆自由意志に従い、フィスカテオの望むままに動いたといわれている。

 後に、第三の神、浄血神アシュタムが血戒を超克し、人類の血戒からの救済を行った。

 僕は宗教方面にはまだ詳しくはないが、アシュタムというのは、概ねイエス・キリストのような人物と思えばよい。とりあえず僕はそう理解している。また、最大宗教もアシュタムを神として崇めている。ただし、その思想自体は神秘主義的であり、神とは人の上位互換であり、人が辿り着くべき境地とされている。浄血教とは自己超越の宗教なのである。この宗教においては、宗教が定めた戒律に従うのでなく、自らの内側に存在する戒律を見つけ出し超越することを尊ぶ。己の内の戒律とは、血戒であり、偏見であり、情であり、運命である。アシュタムは、誰も気付かなかった血に潜む戒律を見出し、それを超越した。その姿勢こそ聖なるものであり、それに対する尊敬心の維持こそ、この宗教に存在する最大にして唯一の戒律である。アシュタムとは崇める存在でもあるが、それ以上に目指すべき人間像でもあるのだ。そして、アシュタムに追いつく瞬間は、人が神になる瞬間なのだ。

 さて、アシュタムは人の中の血戒を無化する自由律というものを人に与えた。

 自由律もまた、人の生命力を使い、血戒に作用する。

 アシュタムの教えでは、人の生命力は無尽蔵、人の可能性は無限大であるため、自由律だろうと血戒であろうと、大した消費ではないとされる。ただし、自由律と血戒にも均衡があり、ちょうど同じくらいの力で均衡が得られていないと、たちまち血戒が復活する。血戒はなくなったわけではないのである。このあたりのアシュタムの処置に対しては、神学者・哲学者の間で、盛んに議論されたそうだ。

 とはいえ、血戒が明らかな異常行動に通じるほど作動するのは珍しいそうだ。もちろん、軽いものについては、誰にも気付かれることなく、その人の個性として処理されているであろう。

 また、血戒はただ精神に影響を及ぼすわけではない。

 地球においてポルターガイストが、年若い少年少女の精神が引き起こすある種のサイコキネシスであるのは有名な話だが、このような超心理学的現象もまた、この世界においては血戒によるものとされる。様々な奇跡を可能とする生命力を、血戒は人の望まぬ形で発露させるのである。なお、生命力を使う技術は、命術として体系化されている。

 あれこれと書庫で読んだが、実際問題、最低限の概略はこんなものである。無論、詳しく見ていけば膨大な量になるし、僕の理解が間違っている部分もあるだろうが。

 血戒と自由律の均衡が何故崩れるか、については様々な議論があるようだが、僕はよく知らない。

 アスアの症例について読むにつれ、どうしてヴォルトがここにアスアを置いていったかわかるようになった。この症例は非常に稀だが、深刻なものである。月ごとに、感情エネルギーがある特定の情動に一極集中するのだ。少し前は、感情エネルギーがどうなったのか知らないが無感情であった。今は、喜びとか快とかに集中している。しかし、たとえば怒り、憎悪とかに集中すれば、それは大変なことになろう。あまり考えたくはないが、場合によっては自殺志願者のような状態になるかもしれない。

 ただし、これは脳などの器官の障害ではなく、血によるものである、少なくともこの世界の常識的に考えれば。中国医学で考えれば、例えば瀉血のような技法があるが、ヴォルトがフォートスに求めたのもそういう類だろう。即ち、薬草などを利用した、血に対する治療行為である。どれほど効果があるかはわからない。僕は医学には全くの無知であるし、本にはそこまで載っていない。読んでわかったことといえば、躁鬱のようなものはこの世界にも多いが、月色性情動変質障害はそれらとは一線を画するということぐらいなものである。

 ちなみに、月の色と情動は一対一というわけではないようである。色が変わると、情動も変わるが、どのようになるかはランダムである。いや、もしかすると何かしらの法則性はあるかもしれないが、本には載っていない。

 どうしたものか。

 いうまでもなく、僕にできることはない。

 ヴォルトはフォートスを頼ったわけだし、フォートスには何とかできるのかもしれない。しかし、この世界には医療施設だってあるのだ。そういう場所に行かず、あるいは行ったとしても、ここに来たということは、快癒の見込みが薄いということではないか。

 僕は埒の明かぬことを色々と考えた。

 ふと気がつくと、自分が考えている自分を見下ろしているような感覚の最中にあることに気付いた。

 離人症かなにかだろうか。

 僕は樹上に座っている。僕は漂っている。

 僕は段々と消えていく。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ