5
見下ろす。
地面を、木々を、人々を、その表面だけ這いなぞるように見下ろす。
草いきれも、鳥の囀りも、人の鼓動も感じることはない。
天にポツリと浮かび、乾くことを知らぬ故に瞼さえ必要ない眼球に、どうしてそれらを感じられよう。
その存在に許される感覚はただ一種。見ること。
眼球には、脳がない。
もしかすると、眼球それ自体には見えぬ視神経から、他の何かに繋がっていたかもしれないが、眼球はそれを知らぬ。
もの考えぬ眼球に、興味などない。
故に、俯瞰は観察に繋がらず、表面を這えども、その深奥どころか、刻まれた小皺の一つにさえ、視線は十分に行き届かぬ。
即ち、眼球は、知っているべきことも、何も知らず、ただ其処にあった。ただ見ていた。
人影に焦点が合う。
その人は眼球に気付かない。
眼球もその人に気付かない。
網膜に白い天井が投影される。
もう見慣れたものだ。
僕はなんとなく、眼球が天井を見たのか、眼球で天井を見たのか、考えてみる。
当然、眼球で見た、が正解だ。ただ、眼球それ自体に何かしらの意思があるとすれば、眼球が見ているのを僕が見させてもらっている、ということになるのだろうか。しかし、そうなってくると、「僕」という存在の根底が揺らぐような気もする。要するに、いろんな感覚器官に「小人」がいて、すると脳にも「小人」がたくさんいる可能性も出てきて、ではその小人達に対して、「僕」は「僕の体」の所有権を主張できるのだろうか、という話になりそうな気もする。
しかし、考えるのはやめよう。答えは既に出ているような気もするし。忘れているだけで、似たような思索はこれまでもあったような気がするのだ。
子どもの脳は具体性を離れるのに向いていないと思う。
思索から得られた純粋な抽象的結論は、なかなか上手に保存できない。言葉それ自体は保存されていても、その意味や価値は、加工食品から重要な栄養素が失われるように、なくなってしまう。
僕は既に、どうしてそのようなことを考えていたのか、ということを考え始めている。
両脇で幼女二人が寝ていることに気付く。
僕は、身支度を整え、自室に向かった。朝のうちにフォートスの宿題を済ませておきたい。
フォートスは僕の知的レベルをよく把握しているので、厄介な課題を出してくる。
大人が子どもの算数ドリルをスラスラ解く、といった具合にはなってくれないのだ。
もっとも、だからこそ僕はフォートスに感謝しているのだけれど。
宿題を済ませているうちに、朝食の時間になり、やがて僕は樹上の人となった。
木のぼりは性に合っている。なぜかはわからない。
地球時代にターザンに憧れていた、ということもない。
味気ないコンクリートジャングルには、登られるような木は払底していた。
母とライラの身長を足したくらいの高さの枝に腰掛け、幹に背を預ける。
なかなか快適な椅子である。
僕は書庫から持ってきた本を広げた。
文字を追っていると、段々と陽気のせいか眠たくなってくる。
カサカサ、と音がして、葉っぱが落ちるのが見えた。
それに少しだけ覚醒した僕は、少し気合を入れて、文章を頭に入れようとする。
しかし、なかなか思うようにはかどらない。
枝の上に立って、背伸びをした。全身のだるさが呼気とともに吐き出され、意識がフレッシュになる。が、それも一瞬のことで、再びどんよりとした感じがもどってくる。
視界の端に、茶色の魁偉な影が映る。
眼球にいる小人が、頭蓋骨の中で危機回避の警報を鳴らす役割を持った小人にそれを伝える。その小人の警報を聞いて、体のなかのたくさんの小人が鈍感な僕にも分かるくらい騒ぎ出す。鼓動。汗腺。全身の皮膚の粟立ち。のどの不快感。
要するに。
……ちょっとやばいんじゃない?
と、僕は思った。
昨日、トロルの話を聞いたせいで、僕は警戒心をなだめることができない。それが本当にトロルなのかどうかはわからない。しかし、トロルでなくとも、あまりペット向きの存在でないことは確かだ。
茶色い影が近づいてくる。
フォートスはこの屋敷に遍在する、という事実?を自分に言い聞かせる。
声を上げることはできない。もし近くに、我が家の女性陣の誰かがいたら大変だ。
甲高い声を上げながら、助けに来る姿が瞼に浮かぶようだ。
僕はとりあえず、逃げることに決めた。
獣に背を向けて僕は跳躍した。慣れたコースを通って、できるだけ屋敷から遠いところに向かう。
……しかし、どうしたって行き止まりしかないのだ。
なぜなら、屋敷から最も遠いところというのは塀で、塀まで続いている木などない。
だから途中で木から降りなければならない。
僕はちょうどそれに相応しい枝を発見する。まるで、階段を三段飛ばしで駆け下りるようにして、高い枝から低い枝へ、三度飛び移り、柔らかな草地に着地する。
草の匂いをかいで、いまだに何もおきていないことに少しだけ驚く。トロルスロースの移動速度は、五歳児のも劣るのだろうか。
鈍重だろうと、もう真後ろにいてもおかしくないころだと思うのだけれど。何しろ相手は獣だ。器用な指先くらいしか誇ることがない人間に、追いつけないわけがない。
僕は覚悟を決めて、後ろを見た。
「ぬはは、見ろ見ろ。見事な獲物だろう」
その瞬間に、非常に脱力させられる声を聞いた。
茶色い巨大トロルを担いだ老人。
これをトロルと見間違えるとは、不覚である。
しかし、それ以上にもっと早く声をかけてこなかった老人に腹が立った。
「ヴォルトさん、それがトロルスロースですか?」
「ああ、そうだが?」
「獣臭いです。向こう行ってください」
「おいおい、驚かせるつもりだったが怒らせるつもりじゃなかったんだぞ」
「狙ってやってたんですか……大人げのない」
「面白がり屋にゃ大人も子どももない。あるのはつまるか、つまらんか」
「つまらないです」
「自分の間抜けを笑う度量は大事だぞ。他人を笑って自分を笑えんのは、ただの性悪だ」
「まったく。走ってる最中に本を落としてしまったじゃないですか」
「おう、それな。ほれ」
ヴォルトは懐から本を取り出し、放り投げてきた。
「うわ、汚い。そして臭い」
「酷いな! 俺の加齢臭は上品な香水も同じだぞ」
「加齢臭というか、何か獣臭い」
「それだって男の勲章よ」
まあ、香水だって元々はひどい臭いなのを、すごい薄めていい匂いにしているわけだし、獣臭も薄めれば……
「いや、そういう問題じゃない」
「何をいっとるんだ?」
「なんでもありませんよ」
はあ、とため息をこれ見よがしについて、本の表紙に目を落とす。確かに、書庫から持ってきた本である。別に汚くも臭くもない。あれこれといったのは、要するにただの仕返しである。
「仕方ないな、どんな本だ?」
ヴォルトは、真相に気付いていないらしい。彼は僕の手から本をむしりとると、タイトルを読み上げた。
「『生き残るための基礎技術 ―体術篇―』。ああ、こんなんなら、これを読むよりフォートスが教えたほうが早いだろ」
「フォートスも暇じゃないので」
「いえば、やってくれるだろうにな……いや、やめといたほうがいいかもしれん」
ヴォルトの顔が曇った。
「どうしてです?」
「いや、基礎体術といわず、フォートス理論の三食薬膳で、骨から『生き残るための体』に作り変えられる」
「そんなまさか……どうして遠いところを見るような目をしているんですか? ねえ、いったいなんなんですか?」
「あいつ、どうなったんだろうな、と思ってな。フォートスも無茶苦茶やりやがってなあ」
「あいつっていったい誰なんです?」
「あいつのことはまあいい」
気になる……いったいどんな事件が過去に存在したんだ……
「よし、本の弁償に俺が教えてやろう」
「何か嫌な予感がする」
かえるの子はかえる。なら、かえるの兄がサンショウウオという可能性は絶無だろう。いや、かえるよりサンショウウオの方がヤバイという可能性もあるし……更に気にかかかるのは、この老人が拒否を遠慮と受け取るタイプではなかろうかということだ。
「よし、この肉を解体することから始めるぞ」
ヴォルトはドサリとトロルをおろす。ヴォルトの体重の三倍はありそうだ。これぐらいのサイズに育つナマケモノは地球にも存在したが、既に絶滅していた。もちろん、僕が知らないだけで、生き残っているかもしれないが。その種類のナマケモノと、こいつを色々と比較検討してみたら、さぞおもしろいことだろう。習性が似ているだけで、外見のディテールや解剖学的な構造はぜんぜん違うかもしれない。
「雑用を人に任せないでください」
「トロルの肉は食えんことはないが不味い。おれはいらん。お前の家族もいらんだろう」
「じゃあ、なぜ」
「いや、肉を斬るというのは、意外と重労働でな? 体を鍛えるにはいいんじゃないかとな」
「僕は肉屋になりたいわけじゃ」
「ええい、とりあえずやってみぃ」
「思いつきの鍛錬を強いないでくださいよ! 絶対嫌です」
汚れそうだし、労が多くて益が少ない予感しかしない。
しかし、やはりヴォルトは「嫌よ嫌よも好きのうち」なタイプだったらしい。
「必要なことは全て野生が教えてくれる!」
「いやだっ! 助けてフォートス!」
懸念は正しかった。見事に僕の話を聞いてくれない。
僕はみっちりとナマケモノの解体を仕込まれた。
その後、二週間にわたりヴォルトによる無茶苦茶な修行が行われた。
僕は、初めて屋敷の外を見た。そこには何もなかった。原っぱがあり、丘があり、山があり、森があり、川があったが、文化的なものは遠くにぽつぽつと見えるだけだった。どうしてこのような場所にこんな大きな屋敷があるのか、不思議になるくらい、ここは長閑な辺境だった。
地球にいたころ、日本から外へ出たことはなかった。北海道にも行ったことがなかった。そんな僕からしてみると、ここは本当にすごいところだった。何もない、というのは、現代日本の文明人にとってそれだけですごいのだ。
僕は、文化的だったそれまでの生活から、半ば狩人のような生活にシフトさせられた。
母やライラはおおむねヴォルトに好意的で、僕とヴォルトが屋敷から程近い草原や森で狩った獲物が食卓に登るようになった。それら以外に滞在費が支払われていたかどうか僕は知らない。
僕に叩き込まれたのは、まさしく生きるための技術だった。
それは、もちろん基礎的なサヴァイヴァル技術を包含していたし、また、様々な事跡から、動物の行動を予測する野生の探偵技術にまで及んでいた。
そして、様々な感覚を複合した独特のセンサー、いわゆる第六感を働かせることも教えられた。
ヴォルトが僕に伝えた狩人の掟、自然界の事物に触れる上でのマナーは、納得の行く説明があるものもあれば、いまいち理解しがたいものもあった。
たった二週間だったが、かなりのことを学べたと思う。ゼロから学んだのだから当たり前だが。
同時に、その分野において、ヴォルトがどれだけ優れているかを心底理解することができた。
訓練が始まってから、ちょうど二週間経った日に、ヴォルトは「こんなもんだろう」と僕にいうと、次の日には、アスアを置いて屋敷を出て行った。僕は、大人たちの間でどんな話があったのか知らない。