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しかし、誰かが僕を抱きとめた。
一瞬だけ、こんなことをするのはフォートスだろうと思う。しかし、思った瞬間にはすでに僕は何か獣的な匂いを感じていた。
獅子、狼、熊、あるいはもっと幻想的な……
僕は目を開ける。
僕の目に映ったのは、老人だった。老人だがフォートスではなかった。もっと野性的でがっしりとした老人だった。まるで岩のようである。同時にやはり獣のようでもある。僕が感じた匂いは、獣臭でなかった。この男が発する雰囲気を、目で見る前に直感が把握し、意識が匂いとしてそれを理解したのだ。
「うむ、あぶなかったな」
僕は放り出される。地面にしりもちをついたまま、突然現れた怪人を見上げる。
「なあ、いったい何を考えとったのだ?」
「……あ、枝に飛び移ろうと」
「いやいや、それはわかる。して、それでなにがしたかったんだ?」
「飛び移って、あそこからああ行ってですね」
僕は簡単に説明した。説明の途中で老人は話をさえぎった。
「すると、塀から外を見ようとしたわけか?」
「そうです」
老人は納得のいかないという顔をした。
「お前、ぱっと見、いいとこのおぼっちゃんって感じなんだがな。そういう奴は、もっと羊のように生きると思うが。なあ、外を見たいなら親に頼めばよかろう」
「いや、別にそれほど外を見たいわけでもなかったので」
そう聞くと、老人が笑った。
「おい、お前いくつだ?」
「五歳です」
「五歳でそれか! まったく先があるのかないのかよくわからんやつよ!」
「どういう意味ですか?」
「お前、あそこから飛び降りたわけだ。いったいお前の何倍の高さだ? とんだクソ度胸よ! しかも、大して見たくもない外を見るために! 冒険者の中でもお前のような奴はそう居らん。 金にもならん、大した目的もない、だが、できるかどうかを命掛けでも試してみよう、そういう馬鹿はな! なりたがる奴は意外と多いが、お前のその飄々とした、誇ることない余裕ヅラはな、できる奴ァそうおらんぞ!」
僕はなぜ老人が笑ったのかは理解できた。見当違いな評価に僕の方も笑いたくなってくる。
「しかし、度胸も何も、ただ考えが足りなかったというか、無駄に楽観的だったといいますか。英雄的行為でなく、要するにただの愚行だったのではないかと。それに、余裕ヅラといいますが、ただびっくりして半分放心状態なだけという可能性もありますよ?」
僕のものいいに老人はますます機嫌が良くなった。
「それが呆けたガキの言い分か? 目をみりゃわかる。それに、俺はお前が飛び降りるずっと前からお前を見とったのだぞ」
なるほど、だからこそ、ここぞというときに助けに入ることができたのだろう。
「しかし先があるのかないのか、とは?」
老人はニヤニヤしながら解説してくれた。
「先がある、とはお前のその生まれ持ったセンスが一種の天賦の才ということだ。そういう天才は俺の経験上大抵死神に嫌われとる。先がない、とはその歳でそんな才能かっぴらいちまったら、体が才能に追いつくまで、大人しくしてられるか、俺には分からんっつうことよ!」
「なるほど、つまり僕の死ににくい才能というのは、身の丈に合わない死地に飛び込んでいく無謀さでもある、と。どう考えても先はありませんね」
「安心せい! 一人でおったらっつうことだ。死地に飛び込んだお前の首根っこをひっ捕まえる奴がおれば心配ない。今日は俺が助けた。俺がおらんけりゃ、フォートスが助けたろうよ」
「フォートスを知っているんですか?」
「うむ、あの枯れ木は俺の弟よ。聞いてないか?」
この怪人がフォートスの兄? 僕は心底驚いた。セバスチャンと北京原人が兄弟といわれたようなものである。背負っている文明の種類が違うというか。どちらも驚嘆すべき存在であることはかわりなかろうが。
「いえ」
「うーむ。ま、俺も勝手に来たしな!」
「いや、それは駄目でしょう。人の庭に許可もなく」
「楽勝よ!」
「……なにが?」
「細けぇ、細けぇ、野郎は夜以外つっこまねえもんだよ!」
「子ども相手に下品なことをいわないでください」
老人は僕の肩をボンボンと手のひらで叩いた。
「一人前って認めてるっつうことよ! お前のこと、ボウズだの小僧だのいわねえぞ、俺はな」
そこで、老人は少し真面目な顔になる。これまで笑顔で隠れていた、獣を思わせる雰囲気が総身からにじみ出る。
「俺はヴォルト・グレオ、見ての通りの腕が自慢の無骨者よ。なぁ、名前を教えちゃくれねえか?」
「僕は、シェルト・ユレン。見ての通りの五歳児ですよ」
老人は再び笑った。
「お前、牙を隠しやがって。だがよ見えるぜ、ガキだなんだといってても、日和見の嘘じゃ隠せねえぐらいデケェ乱杭歯あるってな。あんまり小さくおさまってっと、牙の磨き方どころか、剥き方もわかんなくなっちまう。ナリにあわせすぎるな、無視するのもいけねえがよ。枝から枝へ移るときの感覚、生き方にもきっちり生かせや」
ヴォルトの思う僕はいったいどんな人間なんだろう。確かに、ただの五歳児でないことは間違いないが、それ以外はひどい虚像な気がする。
そこで僕は、僕とグレオからちょっと離れたところに、憂鬱な立ち姿を発見した。
「ヴォルトさん。あちらは?」
「おう? おう、かわいかろう、わが孫娘よ」
少女はこちらに顔を向ける。
「名前はアスアだ。歳は大体お前と同じくらいだ」
一応、挨拶すべきだろう。
「シェルト・ユレンです。初めまして」
アスアはペコリと僕にお辞儀した。顔を上げた彼女と目が合う。
僕はあまり愛想を振りまくタイプではない。そして彼女も同様らしい。
どちらからともなく顔はそらされる。少なくとも僕は拒絶をしているわけではない。ただ、アスアには僕の注意を喚起する要素がないだけである。彼女にとって、僕もそういう存在だろう。
ヴォルトは特に何もいわない。ただ納得している風ではあった。
「ヴォルトさん、アスアさん、屋敷までご案内しますよ。フォートスがいるかどうかはわからないけれど」
「いや、フォートスは俺がここにいることぐらいわかっているだろう。あいつは俺に会うと面倒を押し付けられると思っているようだからな。絶対姿を現さんだろう。俺とあいつが二人そろうときは、本当に偶然顔を合わせちまったときか、正真正銘ヤバイときだけだ」
ヴォルトのいうことはたぶん本当だろう。しかし、どうしてここがわかったのだろう。ヴォルトの話を聞く限り、フォートスは彼に自分の職場など告げてないであろうことは明らかである。それに、偶然会ったところで、全力で逃走するだろう。あの用意周到なフォートスをこの屋敷まで追跡することなど、万事大雑把そうなヴォルトには無理な気がする。
「奴とは向こうのほうの村であってな、話しかけられる前に逃げちまったもんだから、この辺りいったい、あいつの好きそうなところをとにかく虱潰しに回ってな。で」
「なるほど、わかりました。僕はカマをかけられたんですね」
「わかってるじゃねえか。助けてやったし貸し借りなしといこうや」
僕は自分の見立ての甘さに少々あきれた。この老人は僕の想像以上に厄介そうだ。確かに大味なやり方を好むようだが、フォートスを相手取るのに必要なだけの根気を十分に持っている。僕は、ヴォルトのことを、もっと短気でフォートスの手玉に取られるような人だと憶断していた。
「引っかかったのは僕の未熟さでしょう。だから、助けてもらった分で借りが一つです。ただし、ヴォルトさんがフォートスの敵であるなら、貸し借りはなしです。敵同士にそんなものは必要ありませんから」
「面倒くさい奴だな。俺はフォートスの味方……ではなかろうが、少なくとも今は敵じゃねえからな。貸し一だ。あとな、敵同士でも貸し借りの勘定くらいはきっちりしとけよ。恩を受けたのに、敵だからつって仇で返すのはかっこわりいぞ。きっちりこっちも一回見逃してやってから、次のときぶっ殺せ」
「どっちにしろ殺すんだから、早いか遅いかの違いじゃないですか。敵を助けるか、情けを掛けるかどうかは個人の趣味の範疇でしょう。恩に恩で報いるのが美学なら、恩に仇で報いるのも美学ですよ。ぶれなきゃどっちもそこそこかっこよくて、どっちもそこそこ間抜けだと思いますね」
ヴォルトはぼんぼんと僕の肩を叩く。
「鎌かけられたんで、ちょっと気ぃ悪くしたんか? ま、どんなに斜に構えても、そんときがくりゃ、己を知ることになるさ。かっこいいかわるいかは、その後で考えりゃいいことだ」
「そんなことにならないよう生きるつもりですよ、僕は」
僕とヴォルトは並んで屋敷へ向かう。そのあとを、すこし距離をあけてアスアがついてくる。
ヴォルトは子どものペースに合わせることに慣れているようだった。