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不意に自分という存在に気がついた。
ふかふかしたベッドでのことだった。
記憶にある愛用のフランスベッドはもう少し硬い感触だった。記憶と現実は一致しない。
それから匂いに気がついた。自室に比べ、なんとも心地よいが、それゆえに他人行儀な香り。
この時点で、若干の疑念が生じる。
天井を見つめる。記憶にあるとおり、それは白かった。しかし、自室の天井にはもう少し愛想があったような気がしてくる。汚れにも似た微妙な紋様が浮かんではいなかったか。
この天井はあまりにも白すぎる。まるで白磁のようだ。
明らかに、自室とは違う場所で目覚めている。
しかし、ほとんど危機感が湧かなかった。
意識は未だに薄ぼんやりとしている。同時に、どこかもわからないこの場所に、妙な愛着と安心感を漠然と感じていた。
となりでもぞもぞと何かが動き、布の擦れ合う音と振動が伝わってきた。
「ん……ぅ……」
ぼんやりとしたまま、上体を起こすのさえも面倒で、顔だけ右にある音源へと向ける。
そこには眠っている少女がいた。
日本人ではない。西洋風の顔立ち。
少女はうすいピンク色のパジャマに身を包んでいた。
ただし、長い睫も、白い肌も、かわいらしい頬も、さして眼を引くものではない。少女の持つ紺色のきれいな長い髪の毛に比べれば。
あいかわらず、精神には張りがなく、思考の焦点はぼんやりとしている。
心のどこかで、別に驚くに値しないという想念が湧く。
同時に、なんとなくまずいという感覚も湧き上がってくる。
少女のまぶたが開く。現れた虹彩はやや赤みがかった鼈甲色。
「ヤティファト、シェルト」
彼女は明らかに日本語ではない発音で何かを言った。
音は自然と耳に入ってきた。脳はまるで日本語のようにその音を完璧に把握していたが、そこから何の意味も取り出せなかった。
やがて気付くこととなったのだが、人間の心は、宿った肉体、あるいは脳に大きく影響を受ける。
目が覚めた頃は大体二歳から三歳のころで、それ以前の記憶はない。これは、新生児は長期記憶を作る能力がないためだろう。
また、目が覚めたばかりのころは、快感と不快感には自分でも驚くほど大きな反応をしてしまったし、同時に思考がままならない不自由を感じた。つまるところ、俺は幼児にはありえない精神を持っていたにも関わらず、幼児同様に振る舞わざるを得なかった。
このことは、適応という観点から見れば最良の結果を生んだ。
ぼんやりとしている間に、現状に対する理解と生きていくために必要な技能が身についてしまったためである。
仮に肉体に引っ張られることなく、十全な理性を発揮してしまっていたら、どうなっていたかわかったものではない。幼子の体で、言葉も分からぬ異郷に放り出されるのである。不安やフラストレーションは計り知れないだろう。
五歳になるころには、俺の意識も以前ほどではないにしろ、精密な働きを示すようになった。
そのころには、言葉に不自由もなくなり、この世界の常識や自分の現在の身分もある程度把握するようになっていた。
この世界で生きていくうえで、最も重要な前提的事実が二つある。
一つ、ここは日本ではない。そもそも地球ではない。
二つ、俺は記憶にある俺ではない。人種も身分も名前も違う。肉体の影響で、多少内面的にも以前とは違う。
如何な奇禍、如何な奇跡か知らないが、俺は別世界で別人として生きねばならなくなったのである。
「シェルト、どこ? シェルト」
リアが僕を呼んでいる。僕はすぐに彼女の紺色の頭を発見する。
僕は少しばかり移動して彼女の真上に立った。そして、そこから彼女に声を落とす。
「なに? リア」
その声から、リアは僕の居場所を知る。確認しようと、リアは顔を上に向ける。
それと同時に、俺は両足のふくらはぎとふとももであまり太くない枝を挟み、蝙蝠のように逆さまになった。
「キャッ!」
僕のちょっとした悪戯に彼女は驚き、しりもちをついた。
リアからしてみれば、上を向いたら僕の顔がすごい勢いで落ちてきたわけで、驚くのも無理はない。
リアと枝の位置関係が、実に見事だったので思わずやってしまったが、少しだけ反省した。
「もう、シェルト! おりなさい!」
リアは七歳の女の子だ。幼馴染だが、僕より年が上なので、昔から姉のように振舞っている。まあ、僕からしてみると彼女はちょっとませた妹分といった感覚なのだが。
「リアが登ってきたら? 気持ちいいよ」
「私は淑女よ! 木から木へのサルみたいな生き方はごめんだわ!」
「まったくおんなはというのはどうしてこう、地に足の着いた生き方を望むのだろうね?」
「宙ぶらりんで夢見がちなおとこよりはよっぽどマシよ」
「世の中を見渡すにはこれくらいの高さが必要なんだよ」
そういって、僕は再び木の枝の上に立った。足元にリアが見える。
「木の上でどうやってお料理するの? どうやって眠るの? 世の中見えたって生きるのは楽にならないわよ」
リアが僕を見上げながらいう。僕はそれに言葉を返そうと口を開こうとする。
「ふたりとも、おままごとはおしまいよ」
僕の喉が震える前に、その声が僕とリアが即興の「おままごと」の幕を引いた。
僕の母だった。
「リアちゃん、ティータイムだからシェルトを呼んできてといったのに」
仕方がない子ね、と苦笑しながら母がいった。
「ごめんなさい、お姉様」
リアは素直に謝る。一方僕は、枝を両手で掴んで足と地面の距離を最低にしてから手を放し、結局地に足をつけることとなった。
家庭生活というものが生み出す重力は、この世界の大地以上である。
「やれやれ、しっかりしてくれたまえよ、リアくん」
僕がそういうと、リアはいい返すかわりに、足を踏んできた。
「シェルトちゃんには紅茶のかわりに雨水、マフィンのかわりに桑の実ね。最近ますますお猿さんみたいになっているみたいだから」
母さんはそう冗談をいって、僕の頭についた葉っぱを優しく払った。
今日のように天気がよく、気温がちょうどいい日は、ティータイムのために屋外に出されたテーブルが利用される。
出されるお菓子は、リアの母が作る。
リアの母親のライラ・コーパは同居人で、使用人のような、家族のような僕にはいまいち判じがたい立場の女性である。元々彼女には夫がいたのだが、リアが赤子の頃先立たれてしまい、それ以来この屋敷に住んでいる。このことは、母にライラとリアについて聞いたとき、母がところどころ表現を曖昧にしながら話してくれたことを元に推測したことだが、おおむね間違っていないと思う。しかし、「遠くへ行っちゃったの」という決まり文句が現実に使われることがあるとは思ってもみないことだった。
ライラと母は元々親友だったらしく、二人はとても仲がいい。そのためか、使用人というよりは家族のようである。いや、実際、母はそのつもりで接しているし、ライラのほうもそのように振舞っている。ただし、この家の家事の一切は基本的にライラがする。以前、母が何かしようとしたとき、ライラは母を必死で止めていた。もしかすると、母の家政能力がゼロなためライラがやっているだけで、実際には雇用関係など存在しないのかもしれない。しかし、そのように考えると、ライラの着ているいかにも女中然とした服装の由来が分からなくなってしまう。もしかすると、実用主義で選んだのかもしれないし、趣味という可能性もなくはないのだが。
僕の家、ユレン家はある程度富裕な商家らしく、僕ら家族は大きな庭のある屋敷に住んでいる。使用人はライラと謎の老執事の二人のみだ。執事のフォートス・グレオは見た目セバスチャンといった感じで、何でもこなす万能執事である。
屋敷の外観は、使用人二人では足りないようにも思えるぐらい立派だ。僕が五歳児で、物の大きさを過大評価しがちなことを除いても、かなり大きいと思う。この世界の一般的な住居がどれくらいのものかはわからないが、日本の手狭な家屋とは比べるのもばかばかしい。住んでいるのは僕ら親子三人にコーパ母子、それから執事だけで、衣食に関してはさして手間がかからないようだが、何しろ敷地が広いので、その管理が大変なようである。
屋敷内には使われていない部屋、物置になっている部屋が多くあるが、それらは定期的にライラが掃除しており、基本的にどの部屋もある程度清潔である。
屋敷の何倍も手がかかりそうな巨大庭園に関しては、フォートスが管理している。その仕事振りを見ていると、彼が執事服を着ているだけの庭師なのではないかという疑ってしまう。しかし、同様の手際で様々な仕事をこなすため、庭師というわけではないだろう。彼は他にも薬師や医師も兼ねているのだ。さらに、ライラが仕事をできないときは、コックも務める。しかし、これも彼の膨大な仕事量においては氷山の一角に過ぎないと思われる。僕には未だに彼の職務の全貌を掴むことができないでいる。
本当に謎の人物である。
屋外に置かれた丸いテーブルを囲むように座ると、各々のカップにライラが紅茶を注ぐ。僕、母、リアは三人とも、至れり尽くせりのゲスト扱いである。ライラ本人はあれこれと周囲の面倒を見ながらお茶を楽しむ。朝昼晩の三食においても、同様に僕ら三人の面倒を見ながら食事する。時々、ライラが母親で、他はみんな彼女の子どもなのではないかと思うことがある。そういえば、僕の母はリアに自分のことを「お姉様」と呼ばせている。もしかすると、本当に……いや、ライラがリアの行儀にだけはわりとうるさいことを考えると、やっぱり僕と母は彼女の子どもではないということだろう。
ちなみに、フォートスはお茶にも食事にも参加しない。僕は彼が物を口にしている姿を見たことがない。
お皿に一つずつ置かれたお菓子はマフィンである。いや、マフィンとは違う名称なのだが、見た目、味ともにマフィンそっくりである。現在は思考にさえこの世界の言葉であるタスク語を使っているが、やはり地球時代の知識とそっくりな物体や概念には日本語の方がしっくりくるという場合が多々ある。これもその一例である。
一方注がれるお茶は甘めのウーロン茶に蜂蜜の風味を足したような印象のハーブティーだ。後味はハッカ風。最近はこのお茶も結構おいしく感じるようになってきた。食文化は慣れである。
ティータイムが始まると、リアが僕の文句を言い始めた。
「シェルトってば、いつも木にのぼってばかり。もっとおとなしい遊びをしないと、危ないじゃない」
ちなみに、彼女のいうおとなしい遊びとは「おままごと」である。二人しかいないのだから、基本的に僕が夫でリアが妻という二人っきりのおままごとなのだが、僕にはその面白さが理解しづらかった。ドロ団子の食卓ぐらいなら再現するのを手伝ってもいいが、フォートスにリアの父親役を押し付け、二人の結婚を認めてもらえるように説得するというおままごとは流石に苦痛だった。フォートスの哀れむような視線が忘れられない。リアはこんなおままごとをどこで知ったのだろう。それとも、完全に想像で作り上げたのだろうか。恐るべき才能である。
「好きなんだからいいじゃないか。それに、木のぼりばかりってわけじゃない。本を読んだりもするよ」
「本って、あんな本、あそびじゃなくて勉強よ、勉強」
僕の選ぶ本は五歳児には不似合いなものばかりである。この世界では既に活版印刷技術が存在しており、子ども向けの絵本も数多く存在する。僕はそれらを卒業し、もう少し上の年代のための本を読んでいる。しかし、それらの本が面白いかといわれると、そうでもない。確かにこの読書は娯楽というよりは勉強である。僕は読書を、純粋にこの世界の言語と知識を学ぶためにしているのだ。大人向けの本や、あるいはもっと難解に見える本を読もうとすることもあるが、思考力はともかく語学力的にそれらは僕には難しすぎる。数行で挫折することも多い。とりあえずの目標はそれらを読みこなすことである。それゆえ、地道に自分の語彙力に見合ったレベルの本を、なるべく多く、なるべく早く読むようにしている。
「シェルトは本当に賢い子よね。まだまだ体は小さいけれど、頭のよさなら学校に行けるぐらいじゃないかしら。わが子ながら天才ねぇ」
この世界では就学年齢は十歳であり、試験を受けて受かったものだけが通える。ただ、学校とは別に教会の学習日というものが存在し、子どもはそこで勉強をすることができる。年齢はまちまちだし、習う内容も教師である牧師の裁量による。子どもは基本的に読み書きをそこで学ぶ。しかし、僕とリアはフォートスから勉強を教わっていた。というのも、この近くには教会がないらしいからだ。
「シェルトの知性はともかくとして、木のぼりは確かに危険かもしれませんね」
「大丈夫よ。いざとなったらフォートスがなんとかしてくれるわ」
「……それもそうですね」
一瞬、何かを思い出し吟味するような素振りを見せ、ライラは同意した。
流石フォートス。すごい信頼感である。
お茶が終わると、不幸なことに僕はリアにつかまってしまった。彼女の千篇一律に見えて気を抜くと稀にすごいイベントが起きるという、おそろしいおままごとにつき合わされているうちに日が暮れた。
僕は夕食を食べた後、読書をし、母と同じ寝床で寝た。慣れてはいるのだが、早く自分専用のベッドが欲しいと思う。