『sister/A-joy』
・思いつきショートショートですがよろしければ。
・拙作『sister』の続編に当たります。そちらも【シリーズリンク】からご覧頂ければ幸いです。
ふと、眼が覚めた。
カーテンの隙間から、朝日と思われる陽光が差していた。
おかしいな、と思った。今日は休日の筈だ。早起きする用事もない。なのに、ぐーたらで定評のあるこの俺が、昼前に眼を覚ますなどありえない。
寝起きの惚けた頭で考えながら部屋を出る。
……すぐに違和感を感じた。その正体を確かめようと、キッチンのほど近くまで歩を進めて――ようやく、気がついた。
「――あ、眼が覚めたんですね。……おはようございます、兄さん」
そう言って、朝日も真っ青の眩しい笑顔を向けてくる――我が妹。システムキッチンの向こう側からは、微かに鍋がコトコトと煮える音がして、飯の炊ける懐かしい匂いと、玉子の甘い香りが漂っていた。
……つまりはそう言うこと。俺を眠りの淵から目覚めさせたのは、妹が俺のために朝食を拵える音と、何よりこの食欲をそそる香りだったのだ。
「? どうかしたんですか?」
惚けた顔で見やる俺に、不思議そうな顔をする妹。どうかしたと言うか……うん、驚いた。何と言えばいいのか分からないけど――眼が覚めた時に誰かがいるってのが、何か不思議な感覚だった。
「せっかく合い鍵を貰ったので、さっそく来ちゃいました……えと、ごめんなさい」
はにかんだような笑みで言う妹。……咎めるべき理由がどこにあろうか。だらしなくにやけているのが自分でも分かった。
当然、俺が何を考えているかなんて賢明な妹には丸分かりなわけで、口では謝罪の言葉を漏らしつつも、妹はそこはかとなく嬉しそうだった。
「もうすぐ出来ますから。兄さんは、顔を洗ってきちゃって下さいね?」
そんな優しい妹の声に促されて、洗面所へと足を向ける。……鏡に映ったあまりにも気色悪いにやけ面に、死にたくなったのは言うまでもない。
――妹に部屋の合い鍵を渡して、初めての休日だった。
今となっては、妹が部屋に来るのも珍しいことではなくなっていたが、目覚めた瞬間から妹の姿がそこにあるのは初めてのことだ。
いつもは早くても昼前にやってくるから、当然、朝食を作っている姿に遭遇したのも初めてだった。以前、俺のために料理をする、エプロン姿の妹に泣いてしまったことがあったが――……正直に言って、今回も危うかったわけだが。
その感情が何なのか、俺にはよく分からなかったのだが、『朝食を作る姿』と言うのは格別なものがあった。有り体に言って破壊力が高すぎる。世の紳士諸君には分かると思うが、包丁の音で眼が覚めると言うのは、ある意味男のロマンである。つまりは、まあ、そう言うことだったんだろう、うん。
朝食の献立は、非常にシンプルなものだった。焼き鮭、ほうれん草のお浸し、卵焼きに、湯気を上げる白いご飯と味噌汁。味噌汁の具は豆腐とわかめ。シンプルながら、俺的にパーフェクトな取り合わせである。……因みに、お浸しは漬け物嫌いの俺に配慮した妹の気遣いだったりするわけだが。
妹の料理は、献立も味付けも素朴なもので、口に運ぶ度、不思議な安らぎを俺に与えてくれる。落ち着いた、優しい味なのだ。まるで、妹そのものを表しているかのように。
「そんな風に言われたら、照れちゃいますよ。……それに、こう見えて私、けっこう我が侭なんですよ?」
なんて赤い顔で言って、悪戯っぽく笑う妹。てか、大歓迎ですよ? どんどん我が侭言って下さい。兄って生き物は、可愛い妹には全力で甘えられたいものなのです。異議は認めません。
「でも……鬱陶しいって、思うお兄さんもいるかも知れないですよ?」
控えめに、こちらを伺うように言う妹。大丈夫。そんな奴ぁ、俺が簀巻きにしてコンクリ詰めにして東京湾に沈めてやるから安心しろ。
「ぜんぜん大丈夫じゃないし安心出来ないですよっ。……兄さんてば、ほんとにやりそうだもん……」
妹は少し困ったようにそう言ったが――
「……でも、それなら今日は……いっぱいいっぱい、甘えちゃいますよ?」
いいんですか? なんて、最後にはそう言って、俺の返事を待つように小首を傾げた。勿論、目一杯甘えてやってくれ、と胸を張ると、妹は屈託なく、けれどどこか照れ臭そうに笑う。……幸せだなあ、なんて、年寄り臭いことを思った。
朝の穏やかな空気の中、笑顔で朝食を摂る兄と妹。家族。
それは、ヒトによっては何でもない日常の光景だったのかも知れない。けれど、俺達兄妹にとって、それは長らく願っても叶えられない――いや。願うことすら烏滸がましい、現実感のない彼岸の夢だった。
だから。その何でもない光景の中に自分があることが信じられなくて――……信じられないくらい、幸せだと思ったんだ。
何でもない幸せは、例えば午後からの買い出しの一コマ。
俺が買い物カゴを乗せたカートを押して、妹がそれを先導する。めぼしい食材を手に取っては、僅かに何かを考えるようにする妹。
「何か食べたいものありますか?」
妹の問いに対する俺の答えは決まってる。お前の作ってくれるものなら何でも。答えになってないのは承知してるんだけどな。
妹は少しだけ困ったように苦笑すると、また無数に並ぶ食材に眼をやって、逡巡するように頬に手を当てる。
妹の作る食事を口にするようになって結構経つので、
「……食べられます?」
なんて、妹は時々俺に尋ねてくる。妹は、俺の偏食っぷりを知っているのだ。
手にしているのは、ナス。はい、無理。
苦笑して、妹は手にしていたそれを売り場に戻す。
次に手にしたのは、長葱。うん、ごめん無理。
嘆息して、妹は売り場に戻す。
次に手にしたのは、玉葱。……まあ、食感が無くなるまでよ~く火を通してくれれば。
「……に、い、さん?」
眼が笑っていませんでした。
「いくら何でも偏食が過ぎますよ! もっと野菜食べなきゃだめですっ!」
いや、その……はい、すみません。けど、一つ言い訳をさせて貰えれば。……俺って、長らく苦手な食い物を克服する機会ってなかったんだよね。親父は、『金はやるからテキトーに食え』っつー奴だったし。
……言ってしまってから、少し卑怯だったかな、とは思った。案の定、妹は二の句が継げずに押し黙った。
「……兄さんがいなくて、私も寂しかったけど……母さんがいただけ、私は幸せだったのかも知れないですね……」
悪いことをした子供のように言う妹が居た堪れなくて、俺は少しだけからかうような笑みを浮かべた。これからは、お前が傍にいてくれるから平気だよな? そう言ったら、妹は一瞬、虚を突かれたようにきょとんとしたが、
「……そんなことを言っても、誤魔化されてあげませんよっ」
そんな風に言って、ぷいと顔を背けた。
「ちゃんと、苦手は克服して貰いますからねっ」
そうは言っても、本当に苦手な前者二つは避けてくれる妹。それが少しおかしくて――それ以上に、愛おしかった。
妹と過ごす休日。目覚めからずっと、片時も離れず傍にいた。
妹の一挙手一投足が可愛くて、言葉の一つ一つが愛おしかった。俺が完全に放棄している家事を当たり前のように片付けて、甲斐甲斐しく俺の世話を焼く妹には、感謝の言葉すら浮かばない。
妹の笑顔を見ていると、色んな気持ちが湧いてくる。純粋に可愛いと思う気持ち、感謝、愛おしさ……あと、あまり褒められたものではない感情も、ちょっとだけ。
……けど、どうしても分からない感情が一つ。それがいったい何だったのか――考えている内に、俺は眠ってしまっていた。
目覚めた時、俺の腕の中には妹の小さな体があった。丁度、俺の胸を背凭れにするようにして、俺の体に包まれている。それは、今日唯一、妹が望んだ我が侭だ。何をするでもなく、午後の一時を、ただそうして過ごしたい……と。
妹の温もりは心地良かった。仄かに薫る髪の香りも、俺の心を穏やかにさせてくれる。まるで、春の陽光の中で微睡むような、何物にも代え難い安らぎを感じた。……意識を手放してしまったのも、無理からぬことだったのかも知れない。
身動き一つ取らないところを見ると、少し前の俺と同じように、妹も眠っているのだろう。ふいに愛おしくなって、俺はその小さな温もりをぎゅっと抱き寄せた。
「……眼が覚めたんですね、兄さん」
ふいな声に、少しだけ驚いた。声の調子を聞く限り、今起きた感じでもない。起きていたなら、起こしてくれても良かったのに。
「兄さんが起きる少し前までは……寝てましたよ。それに……もうしばらく、こうしていたかったから……」
軽くかぶりを振って、呟くように妹は言った。そんな妹が愛おしいやら照れ臭いやらで、そっか、なんて素っ気ない言葉しか返せない俺。……うん。これなんだ。正体不明の奇妙な感情。戸惑いを感じるけれど……けして嫌な気分ではない。……そんな。
捕らえ所のない自分の感情に翻弄されて、何も出来ない。そんな間抜けな俺を、妹はふいに振り返る。しばらく言葉もなく見つめ合って――ふと、妹が破顔した。
「……兄さん、よだれ♪」
どこか楽しそうにそう言って、俺の口元を指差した。一瞬何のことか分からなかったが、すぐにハッとした。そうだ。俺はついさっきまで眠っていたんだ。それも、こんな幸せすぎる状況でだ。だらしなくよだれが零れていても不思議はない。
慌てて拭おうと思ったが、その時には既に、妹に拭われていた。舌で。……舌? ――そう、舌だ。……つまり俺は、妹に口の端をぺろりと舐められたのだ。
事態に気づいて声にならない悲鳴を上げた俺に、妹は不思議そうな顔をした。
「どうかしました?」
どうかしました? じゃねえ。何だってお前はそんなに落ち着いてやがりますか。自分のしたことが分かってるんだかないんだか。舐めるとか、ある意味キスされるよりもエロ――ゲフンゲフン。
……言いたいことは幾らでもあったが――しかし、そんなことをわざわざ問い詰めるのも、一人で顔を赤くしているのも馬鹿らしかったから、そんなもの舐めて汚いだろ、なんて、それだけを吐き捨てた。
妹は一瞬きょとんとした後、にこりと笑った。
「汚くなんてないですよ? 兄さんのだもん」
屈託なくそんなことを言う妹に、それ以上何が言えようか。そーですか、と無様に顔を赤くすることしかできなかった。
「……ねえ、兄さん?」
ようやく平静を取り戻した頃、俺の顔を見上げながら妹は言った。
「眼が覚めた時、誰かが傍にいてくれるのって――嬉しい、ですよね」
そう言って、屈託なく笑った。
――ああ、そう言うことなのか、と思った。探していた答えはこんなにも簡単で、こんなにも近くにあったのだ。
眼が覚めた時に誰かが傍にいる。それはこんなにも暖かで、幸せで――嬉しい、ことなんだ。……そう。『嬉しい』ことなんだ。俺は、それに気づけなかった。それは、俺にとっては縁のない――いいや。忘れていた、感情だったから。……妹の笑顔に、起こされるまで。
「? ……嬉しく、ないですか?」
小首を傾げて問う妹に、俺はそっとかぶりを振った。お前が傍にいてくれて、嬉しいよ。そう言って、無意識に妹の頭を撫でていた。
嬉しそうに、眼を細める妹。そんな妹を見て、俺もまた嬉しくなった。
……俺がいて、妹がいる。妹がいて、俺がいる。
――そんな当たり前のことが、幸せだと思った。
※『A-joy』=『Awakening joy』