認識
はスマートフォンの音声入力を仕事でよく使う。マイクのアイコンをタップして話すだけで、文章になる。便利な機能だった。
その日、会議の議事録を音声で打ち込んでいた。タップし、話す。タップし、話す。それを何度か繰り返したあと、マイクのアイコンが赤く点灯したまま、画面に文字が流れ始めた。
橋本は何も話していなかった。
〈きこえていますか〉
そう表示された。橋本は指を止めた。誤変換だろうと思い、削除して打ち直そうとした。だが文字は消えなかった。次の一文がその下に続いた。
〈きこえていますね〉
橋本はマイクをオフにした。アイコンは灰色に戻った。画面をスクロールして見返すと、自分が話していない文章は、その二行だけだった。それ以外は普段どおりの議事録だ。
気味が悪かったが、仕事は仕事だ。橋本は続きを打ち込み、その日は終業した。
数日後、通勤中にイヤホンをつけて音楽を聴いていた。ふと、曲と曲の間の無音の瞬間に、ポケットの中のスマートフォンが短く振動した。取り出して画面を見ると、メモアプリが勝手に開いて、マイクのアイコンが点灯していた。
橋本はイヤホンを外した。電車の走行音も乗客の話し声も、次々と文字になっていく。認識精度の高さに、橋本はいつも感心していた。
その文字列の中に、一つだけ、周囲の誰の声とも一致しない一文が混じっていた。
〈うしろ〉
橋本の視線は画面に固定されている。画面には続けて、こう表示された。
〈ふりむかなくていいです もう〉
電車が次の駅に着き、扉が開いた。橋本はスマートフォンをポケットにしまい、人混みに紛れて降りた。振り返らなかった。
家に帰り、音声入力の履歴を開いた。「うしろ」も「ふりむかなくていいです」も、記録には残っていなかった。あの二行だけが、最初から存在しなかったかのように。
そ れ以来、橋本は音声入力を使っていない。マイクのアイコンには、指で触れる前から、常にわずかな赤みが差しているように見える。
オフにしているはずなのに。
その夜、寝る前にスマートフォンをロックしようとして、画面が消えなかった。橋本はそのまま画面を見つめた。
そのとき、システムメッセージが表示された。
〈顔認証を起動してください〉
橋本の指が画面に触れる前に、インカメラのランプがひとりでに点いた。橋本は動かなかった。
数秒後、通知音が鳴った。
〈認識しました〉
息をのむ。もう一度、通知音が鳴った。
〈認識しました〉
画面はゆっくり暗くなり、黒いガラスには、橋本の顔だけを囲む四角い枠が残っていた。




