第7話 卒業式前日
放課後の校舎は、少しだけ落ち着かない空気をまとっていた。
廊下には、いつもより人が少ない。
明日の準備で早く帰る生徒もいれば、
名残惜しそうに残っている生徒もいる。
佐伯は、教室で一人、黒板を消していた。
チョークの跡が、なかなか消えない。
何度も往復させて、ようやく薄くなる。
教室を見渡す。
机の並び。
椅子の傷。
窓際の席。
ここで、何度授業をしただろうか。
数えようとして、やめた。
ドアの向こうから、足音が聞こえた。
「佐伯先生」
振り返ると、宮坂遼が立っていた。
制服の上着を肩にかけ、少し照れたような表情をしている。
「どうした」
「明日のことでさ」
宮坂は、視線を泳がせながら言う。
「式、出るんだよな」
「当然だろ」
即答すると、宮坂は小さく笑った。
「だよな」
それでも、すぐには去らない。
「先生」
「何だ」
「……明日も、ちゃんと来るよな」
一瞬、時間が止まった気がした。
佐伯は、宮坂を見た。
真剣な目だった。
「来るよ」
短く、そう答えた。
嘘ではなかった。
今は、それでよかった。
宮坂は、ほっとしたように息を吐いた。
「よかった」
「じゃあ、俺も寝坊しねえわ」
そう言って、手を振って教室を出ていく。
その背中を見送りながら、佐伯は胸の奥に小さな痛みを覚えた。
次に職員室へ戻る途中、相沢由奈とすれ違った。
「先生」
「どうした」
「これ……」
相沢は、一枚の封筒を差し出した。
「手紙です」
「今、渡していいか分からなくて」
佐伯は、少し考えてから受け取った。
「ありがとう」
「明日、読んでもいい?」
相沢は、少し困ったように笑った。
「……できれば、今日で」
佐伯は頷いた。
「分かった」
「それと」
相沢は、一度言葉を切る。
「先生」
「明日も、忙しいですよね」
「まあな」
「体調、悪くならないでください」
それだけ言って、深く頭を下げた。
佐伯は、何も言えなかった。
職員室に戻ると、すでに人影はまばらだった。
篠原修司の席も、空いている。
佐伯は、自分の机に座り、手紙を開いた。
内容は、特別なことではなかった。
授業のこと。
進路のこと。
感謝の言葉。
それでも、一文字一文字が、重く胸に残る。
読み終えたとき、窓の外は暗くなっていた。
佐伯は、ゆっくりと立ち上がり、教室に戻った。
誰もいない教室。
教壇に立ち、黒板を見る。
明日は、ここで最後の言葉を話す。
何を言うかは、まだ決めていない。
決めなくてもいいと思っていた。
ただ、立っていられれば、それでいい。
佐伯は、静かに電気を消した。
廊下の灯りが、背中を照らしている。
夜の校舎に、足音が一つだけ響いた。




