鉄扉の女王と合鍵の奴隷 ~完璧な生徒会長の「泥」を全肯定したら依存された~
学園の天使は、胸に『産業廃棄物』をぶら下げて笑っている。
これは決して比喩表現や、拗らせた思春期特有のポエムではない。見れば誰もが口を揃えるだろう、物理的な、しかもとびきり悪趣味でグロテスクな光景だ。
「――それでね、今度の休みに駅前に出来たカフェに行こうかなって」
「へえ、いいじゃない。わたしも気になってたんだ。恋華ちゃんも一緒にどう?」
「もちろん。ふふっ、楽しみにしてる!」
放課後の教室の中心で、皇恋華は春風のように朗らかに笑っていた。
腰まで届く艶やかな黒髪に、透き通るような白い肌。容姿端麗、成績優秀、スポーツ万能。おまけに生徒会長まで務める彼女は、誰もが憧れる完璧なマドンナ。
周囲の生徒たちは、彼女の輝くような笑顔に魅了され、男子のみならず同性でさえ頬を染めて聴き入っている。
何とも微笑ましい平和な放課後の、ありふれた青春の一コマ。
だが、窓際の一番後ろの席で、イヤホンを耳に突っ込んで頬杖をついている俺には、彼らが見ている「完璧な美少女」とはまったく別のモノ。
彼女の清潔なブラウスの胸元――心臓が脈打つその場所に、赤黒い錆にまみれ、どす黒い粘液を垂れ流す巨大な『鉄扉』が、深々とぶら下がっている光景が視えていた。
(……はぁ、今日は一段と漏れてやがるな)
俺、剣城灰戸は、思わず顔を顰め、窓の外へ視線を逃がした。
学校の陽キャ共に、また剣城が皇を窃視でもしていた、なんて噂を流されたら堪ったものじゃない。
とは言っても特にやることもない。俺は頭をぼりぼりと搔きながら、五限目の時間まで散歩でもすることに決めた。
俺には特別な身体能力もなければ、世界を救う正義感もない。魔力無制限や完全無敵といったチート能力があるワケでもない。もちろん、恐れられているわけでもない。傍から見ればどこにでもいる、ただの健康な男子高校生だ。
高揚感は無い。義務感も無い。だから達成感も無い。
けれどただ一つ、子供の頃から俺には特異な体質があった。他人の心への入り口――心象風景への『扉』が視えてしまうという、不思議な目があるのだ。
人間誰しも、他人に言えない秘密がある。
他人が必死に隠しているトラウマ、嫉妬、絶望、そして自己嫌悪。俺の目には、そういった負の感情が『扉』や『鎖』といった物理的な形状となって視えてしまう。
そして、そういう泥臭くて見苦しい他人の本性を安全圏から眺めるのが、俺は三度の飯より好きだった。
俺の倫理観は、たぶん少しバグっている。綺麗事だけでコーティングされた薄っぺらい仮面よりも、心の奥底で腐臭を放つ中身のほうが、よっぽど人間らしくて愛おしい。
だが、そんな最悪な趣味を持つ俺から見ても、皇恋華のそれは異常だった。
彼女が周囲の期待に応えようと愛想笑いをするたび、鉄扉を縛る幾重もの分厚い鎖が、ギシリ、と悲鳴を上げて軋む。限界まで高まった内圧に耐えきれず、扉の隙間から悪臭を放つ真っ黒な泥がポタポタとこぼれ落ちているのだ。
あの扉の向こうには、どれだけドス黒いヘドロが詰まっていることか。想像するだけで胸焼けがする。
(美しい花には棘があるって言うが、どこの偉人が言ったんだか。マジで笑えないよな)
正直なところ、分からない。
あんなものを見たことがないから、放置して、見過ごして、その先に皇恋華という人間がどんな結末を辿るのか、俺にも全く分からないのだ。
けれど、たしかなことが一つだけ。関われば、間違いなく碌なことにはならない。
そう判断した俺は、帰り支度を整えて席を立った。見なかったことにして帰る。他人が笑って爆弾を見せびらかすのなら、爆発する前にフェードアウトする。それがモブに徹する俺の価値観、延いては世界の全てだ。
――その時だった。
「ガ、アアッ!?」
空気が爆ぜたような異音が、鼓膜を直接叩いた。
クラスメイトたちが「いまの音なに?」とキョロキョロしているが、俺の背筋には冷汗すら凍り付くような悪寒が走った。
今の音は、物理的な音じゃない。心の許容量が限界を迎えて、何かが決定的に決壊した音だ。
反射的に振り返る。
そこには、まだ笑顔のまま硬直している皇恋華がいた。しかし、その胸元の鉄扉は内側からの異常な圧力で完全にひしゃげ、真っ黒な泥が罅割れた隙間から決壊したダムのように噴き出し始めていた。
当の本人、彼女自身さえも自分の心が今まさに、化け物を産み落とそうとしていることに気づいていないのだ。
「……っち、最悪のタイミングじゃないかよ。コイツが『可空離世』ってヤツか?」
次の瞬間、俺の視界の解像度が狂った。
周囲の景色が色あせた灰色に反転し、教室の窓ガラスが赤黒い肉の膜のようなもので覆われ、出口のない牢獄へと変化する。
可空離世なんてオカルトめいた名前だが、その実態は単純だ。
魔鬼という化け物が跋扈する裏世界――他ならぬ皇恋華のストレスが許容量を超え、現実に精神を侵食させて創り出した『心が現実を侵食する世界』。
ドロリとした粘液が床に広がり、精神が腐り落ちたような強烈な腐臭が鼻をつく。一般人がここに長く居続ければ、精神汚染を受けてもれなく廃人コース一直線だ。マジで笑えねえ。
「きゃあああああっ!」
「な、なんだこれ!? おい、ドアが開かねえぞ! 誰か!」
非日常の急襲にパニックに陥り、出口へと殺到する生徒たち。
だが、彼らの背後で、噴き出した泥が教室の中央で巨大な渦を巻き始めた。泥は不気味な駆動音を立てながら組み上がり、複数の苦悶の顔が浮かび上がる醜悪な巨人の姿を形成していく。
「……みんな、伏せて!」
絶望的な空間に、凛とした声が響き渡った。
皇恋華だ。彼女は制服のスカートを翻し、クラスメイトたちを背に庇うようにして前に出た。
その華奢な右手に意識を集中させると、何もない空間から紅蓮の炎が立ち昇る。火の粉が乱れ舞い、それが一本の長く美しい長剣へと姿を変えた。
圧倒的な熱量が教室の空気を焦がす。彼女の異能、『発火能力』だった。
(マジかよ……)
その焼け付くような熱気に呆然とする俺。まさか彼女もこちら側の人間だったなんて。けど、それなら何故あんなものをぶら下げて、あんな風に笑っていられたんだ?
「まさか、学校で漏れるなんて。でも、ここで抑えなきゃ……さっさと消えなさいよッ!」
彼女が床を蹴る。
彼女の描く軌跡に炎が走る。壁面を蹴り角度と勢いをつける。そのまま身体を反転、一回転、二回転と、完璧なフォームから繰り出された横薙ぎの一閃。
爆炎を纏った斬撃が怪物の胴体を真横に両断し、衝撃波が教室の机や椅子を吹き飛ばす。怪物は断末魔を上げる間もなく壁に激突し、ドロドロに溶け落ちて炭化した。
クラスの連中は頭を抱え、まるで状況が分からないのかただ喚くばかり。
それもそのはず、魔鬼は一般人の目には映らない。ただ、教室に閉じ込められ、精神を蝕まれているという事実だけが存在する地獄だ。現に意識を飛ばしている者もいる。
俺は倒れたロッカーの陰からその光景を眺め、冷たく分析していた。
彼女の攻撃、凄まじい威力だ。並みの魔鬼なら一撃で消し炭だろう。
(あの個体はヤバい。昔一度だけ見たヤツと同じ、肉体の強靭さは無いが再生能力を持っている)
案の定、壁に飛び散った炭化状態の泥は、まるで動画の逆再生のように瞬時に物質を集結し、元の泥の質感を取り戻していく。いや、それどころか、先ほどよりも一回り巨大化し、漆黒に染まる棘のような触手を何本も生やして復活したのだ。
怪物の核は、彼女自身の「完璧であらねばならない」というプレッシャーや自己嫌悪そのもの。彼女が焦り、「早く倒さなくては」と自分を追い詰めれば追い詰めるほど、そのストレスを餌にして怪物は無限に肥大化していく。
完全なるマッチポンプの悪夢。
「ウソ、でしょ……? なんで倒れないの……あたしは、完璧でいなきゃいけないのに」
皇が絶望の声を上げ、膝をつく。
炎の剣を握る手が震え、彼女の顔から血の気が引いていく。
泥の怪物が咆哮を上げ、丸太のような巨腕を、無防備な彼女の頭上へと振り上げた。防御は間に合わない。このままでは、彼女は自らが生み出した心の闇に押し潰され、肉体ごと挽肉にされる。
俺は深くため息をついた。
そして、ポケットに手を突っ込んだまま、ロッカーの影からゆっくりと歩き出した。
「おいおい。自作自演で死にかけるとか、まるで喜劇だな。優等生ってのは随分と因果な商売だよな」
嘲笑を含んだ俺の声に、皇が弾かれたように振り返る。
「えっ、剣城くん? あなた、何を言って……っていうか、なんで気絶してないの!? 逃げて、こいつは普通の化け物じゃ――」
「どいてろ。コイツは俺がもらう」
俺は彼女の制止を無視し、振り下ろされる泥の巨腕を紙一重でかわす。
現実での俺の身体能力は、ただの一般人。掠っただけでも致命傷。だが、俺の心に恐怖らしい感情は無かった。
なぜなら、俺の視界には怪物の巨体など映っていないからだ。俺が見据えているのはただ一つ、皇恋華の胸元で狂ったように暴れ狂う『鉄扉』だけ。
(さすがの皇も、自分の本音は視たくないみたいだな)
恐怖も、もちろん、喜びも高揚も無い。
これから起きることは“命懸けの戦闘”ではなく、ただの一方的で暴力的な“蹂躙”でしかないのだから。
「な、何をする気……っ!?」
「黙ってろ。悪いがクラスメイトの命が掛かってる。お前の最深部、貫かせてもらうぞ」
俺は彼女の胸元に手を伸ばし、どす黒い粘液を垂れ流す鉄扉に、素手で掌を叩きつけた。
物理的な接触ではない。俺のイメージを、鍵の形状に変えて流し込む。
難しい作業ではない。人のこころは千差万別。けれど同時に、誰とでも分かり合えるよう、神様が創ってくれたのだから。
俺は手を添え、その心に合わせるだけ。
【 合鍵生成中…… 形式:深層心理 ── 解錠コード:クリア ── アクセス承認 】
脳内に響く信号が演算を止め、カチリ、と。
指先に、鍵穴が深く噛み合う確かな感触があった。
俺の口角が、自然と歪な弧を描く。それは他人の隠し事を暴き、蹂躙する、至高の瞬間の始まり。
泥の濁流が俺たちを飲み込む寸前――俺の意識は、世界を裏返すようにして彼女の精神世界へと『領域侵犯』した。
世界の裏側へ反転した瞬間、場面転換するように俺の全感覚を支配したのは、鼓膜を突き刺すような静寂と、肺の中までもを凍らせるほどの苛烈な冷気だった。
そこでは現実世界で教室を埋め尽くしていた泥の腐臭も、巻き起こる熱風も、クラスメイトたちの耳障りな悲鳴も、全ては嘘のように霧散している。
俺はゆっくりと目を開けた。
「……なるほど。これが学園一の優等生様が、必死に守り続けてきた城の中身ってわけね」
思わず独り言が漏れる。俺が立っていたのは、全てが青白い氷で構成された、巨大で空虚な伽藍の中だった。
見上げるほど高い天井まで、鋭利な氷の柱が何本もそびえ立ち、ドーム状の天蓋を支えている。床は鏡のように磨き上げられた巨大な氷盤で、俺が一歩踏み出すたびに、カツン、カツンと硬質な足音がどこまでも反響し、無限の彼方へと吸い込まれていく。
ここは、皇恋華の精神の中――『心象世界』。
完璧な生徒会長、非の打ち所がない学園の女王。彼女の心の中は、塵一つ落ちていない美術館のように美しく、そして亡骸のように冷え切っていた。
左右の壁に目を向ければ、氷の中に埋め込まれるようにして、無数の『標本』が展示されていた。
凍りついた黄金のトロフィー、額縁に収まった大量の賞状、全ての解答欄に丸がついた百点のテスト用紙、そして分刻みで書き込まれた完璧なスケジュール帳の数々。
彼女がこれまでの短い時間で積み上げてきた歴史の全てが、一分の狂いもなく、永遠に劣化しないよう氷の中に閉じ込められている。
(息が詰まるな……。まあなんだ、狂気を孕んだ潔癖ってやつか)
他人の介入を一切許さない、絶対的な拒絶。それがこの氷の城の正体だった。
だが、この静謐で完璧な世界は、今まさに内側から崩壊の瀬戸際にあった。
ピキィン、と。
静寂を切り裂くように、どこか遠くで巨大なガラスがひび割れるような音がした。
同時に、足元の氷盤を通して、微かな振動と不快な『熱』が伝わってくる。俺は床に膝をつき、透明な氷のさらに奥、深層心理の深淵を覗き込んだ。
分厚い氷の層の遥か下。そこには、ドス黒い赤色のマグマのような光が脈動していた。
いや、あれはマグマではない。皇恋華がこれまで「完璧」という仮面を維持するために、心の底へと押し込めてきた感情の排泄物――激情、不満、劣等感、そして逃げ場のないプレッシャー。
それらが煮えたぎる泥となって、巨大な圧力とともに氷の城を内側から焼き溶かそうとしているのだ。
現実世界に現れたあの化け物は、この心の泥が溢れ出した結果に過ぎない。
ズズズ……と地鳴りが響き、目の前の巨大な氷柱に蜘蛛の巣のような罅が走る。その隙間から、騒々しい音を立てながら白い蒸気が噴き出した。
(あんまり時間はなさそうだな。心を形作る氷が溶け始めてる。言ってしまえばこれは魂の浸食。アイツの精神が持つわけが無い。放っておけば廃人一直線だ)
俺はやにわに走り出した。考えるのは後だ。
目指すのは、この広大な氷の伽藍の最深部。全ての冷気の発生源であり、同時に、全ての熱源が集中している場所。
氷の回廊を抜けるたび、周囲の『歴史』が熱い泥に汚され、溶け崩れていく。
賞状は黒く染まり、トロフィーは醜く歪む。彼女が大切にしてきた「存在意義」が、彼女自身の闇によって侵食されていく光景はどこか滑稽で喜劇的で、けれど傍から見ていれば最高にエロティックで、胸が躍るような背徳感があった。
(そんなことを考える俺は、やっぱり狂ってるのかもしれないな)
やがて、俺は最深部の広間へとたどり着く。
そこは、天井のドームが大きくひび割れ、そこから赤黒い泥の雨がボタボタと降り注ぐ、美しくも無残な有様だった。
床の氷は半分ほど溶けかかり、冷水と泥が混じり合った不快な液状となって俺の足首を浸す。
その中央、祭壇のような氷の台の上に、彼女はいた。
現実世界の皇恋華ではない。そこにいたのは薄いネグリジェのようなドレスを纏った、十歳にも満たない“幼い彼女”の姿だった。
彼女は氷の床に座り込み、膝を抱えてガタガタと震えている。
そして、その周囲を鋭利な氷の荊が幾重にも取り囲んでいた。それは彼女自身を傷つけるように、しかし同時に外界からの接触を激しく拒絶するように、外側へ向けて切っ先を突き出している。
(……見つけた。あれが、生徒会長の“心柱”か)
俺は冷水と泥の中を掻き分けながら進み、氷の荊の前で足を止めた。
荊の向こう側で、幼い皇恋華がゆっくりと顔を上げた。その瞳には光がなく、ただ底知れない虚無と恐怖だけが揺らめいている。
それは彼女が守りたかったモノ。
「……だれ? 入ってこないで。ここは、あたしだけの場所なのに。見ないで。あたしの、こんな……汚いところ……」
その声は、鈴が割れたように掠れていた。俺は構わずにその少女に向かって歩を進める。
「入って来るなって言ってるのッ! 本当に、本当にっ! お願いッ、壊さないでッ!」
「俺はお前を壊す気なんて無い……って言っても信じちゃくれないか。お前にとって、こんな事、初めてだろうからな」
「っ! なんなの、あなたはっ!」
彼女が悲鳴を上げると、呼応するように周囲の氷の荊が、まるで巨大な樹を形作るように枝分かれに伸びる。
その無限に伸び続ける切っ先が意志を持つ蛇のようにうねり、俺の喉元、心臓、眉間へと一斉に向けられる。
この世界に物理的な質量はないはずだが、この心象風景内での『拒絶』は、文字通り痛みとなって現実にフィードバックされる。肌が総毛立つほどの強烈な殺意。異物を駆逐しようとする彼女の本音だ。
「あたしに、期待なんてしないで……。どうせあなたも、あたしに『完璧』を求めるんでしょう? テストで満点を取らなきゃいけない。生徒会長として立派でなきゃいけない。みんなの期待を裏切っちゃいけない……。失敗したら、あたしにはなんの価値もないの!」
解っていたつもりだった。けれど、その悲痛な叫びを聴くとどうにも手元が狂う。
「っち」
彼女の慟哭に合わせて、天井の亀裂がさらに拡大し、大量の泥が彼女の頭上から降り注ぐ。
彼女が貯め込んできた抑圧の奔流が、自身の氷の城を汚していく。
だが、俺はそんな絶望的な光景を眺めながら、思わず口角を吊り上げた。彼女が命を懸けるのならば、笑って応えてやるのが礼儀ってものだ。
「……話はわかった。要するに、お前はただの我儘なガキってことだ」
安っぽい挑発。俺の分かり易い言葉に、彼女の瞳が分かり易く見開かれる。
「な……っ、なんですって!? あなたに、あたしの何がわかるっていうのよ!」
「周りの目ばかり気にして、勝手に期待背負って、勝手に自爆して。挙句の果てに、こんなつまんねえ場所に引きこもって被害者面ってか。お笑い種にもなりやしねえ」
「っぐ! あなたは一体っ!」
「けどな、悲劇のヒロイン気取ったって、見てくれる観客がいなきゃ何の意味も無いだろ?」
俺は売り言葉を重ねる。それはコップに張った水の如く、限界ギリギリの彼女にとって、到底許容できるものではなかった。
「消えなさいよぉぉぉぉぉッ!!」
一層鋭さを増した氷の荊が俺の肩を貫く。
俺の肩は裂け、鮮血が飛び散った。
さらに勢いを止めない荊の浸食が俺の太腿を抉り、脇腹を掠めていく。荊は成長を止めることはない。傷ついてはいけない場所を抉り、嫌な音だけが辺りに響き渡る。どこからどう見ても致命傷。普通ならばもう助からない。そう――普通ならば。
「痛いか? そりゃ痛いよな。けど本当に痛いのは俺じゃないだろ?」
俺は一歩、前へ踏み出した。
身体中に荊が深く刺さったまま、それを無理やり引き摺りながら進む。鮮血が氷のキャンバスを赤く染めるが、俺の足は止まらない。
「な……なんで……? なんで止まらないのよ! 死ぬわよ、本当に壊れちゃうのよ!」
「無駄だよ、優等生。確かにお前はすごい。文武両道、容姿端麗。非の打ちどころなんてない程に優等生だ。けどな……ことこの領域において、俺の権限は絶対だ。お前の領域ごと塗り替える」
俺が格好をつけて指をパチンと鳴らす。
すると、俺の頭蓋を貫こうと迫っていた氷の荊は、俺に触れる直前でパリンと乾いた音を立てて砕け散った。
俺には攻撃を回避する必要なんてない。この世界での俺は、システムの管理者そのものなのだから。
「優等生、俺に『期待するな』と言ったよな? 安心しろ、俺はお前に一ミリも期待なんかしてない」
俺は血塗れの手で、彼女を囲む氷の荊を素手で掴んだ。
掌が裂けるが痛みは無い。激痛が走るのであれば痛覚を遮断すればいいだけ。何も問題は無い。
「お前がテストで零点を取ろうが、道端で転んで泣き喚こうが、俺にはどうでもいい。……俺が興味あるのはな、皇恋華。お前のその、綺麗に塗り固められた表面じゃない」
最後の一歩。
俺は、呆然と座り込む幼い彼女の目の前に立ち、その泥だらけの顔を強引に掴み上げた。
「お前のその奥にある、この汚い泥だけだ。こいつは最高に人間臭くて、ゾクゾクするほど俺好みの色をしてる」
俺の指先が、彼女の頬を汚す泥を撫でる。
「完璧じゃなくていい。綺麗なままじゃなくていい。……今の泥塗れのお前のほうが、あの澄ました彫像なんかより、よっぽど俺を興奮させてくれる」
それは、救済の言葉などではない。ただの、救いようのない変態による“肯定”だ。
だが、ずっと完璧という檻の中で窒息しかけていた彼女にとって、それは生まれて初めて浴びる、地獄のような暖かさ。
「あ……う、あぁあぁ……」
彼女の虚ろだった瞳に、初めて生気が宿る。
それは深い絶望と、それ以上の依存が混ざり合った、粘り気のある光。醜くも神々しい輝きだった。
【解錠――承認】
俺は彼女の額に指を触れた。
その瞬間、世界が劇的に色を変え始める――
「あ……う、あぁぁぁぁぁぁぁッ!」
彼女の瞳から、大粒の涙が溢れ出した。
それは今まで彼女を縛り付けていた完璧主義という呪いが、音を立てて崩れ去った瞬間だった。
彼女は両手で顔を覆い、子供のように声を上げて泣きじゃくった。止めどなく落ちる涙は、宝石のように透明で、そして火傷しそうなほど熱く綺麗だった。
その涙が冷水と泥の混ざる氷盤に落ちると、波紋が広がるようにして、周囲の鋭利な氷が一斉に溶け始めた。
俺たちを取り囲んでいた拒絶の荊は暖かな水へと還り、天井を覆っていた暗い泥の雲は、眩い光に浄化されていく。
地下から噴き上げていた不快な熱気と重圧は嘘のように消え去り、代わりに春の日差しのような暖かな光が、罅割れた天蓋から降り注いできた。
「うわぁぁぁん、ひぐっ、あぁぁ……っ!」
「……やれやれ。やっと年相応な顔になったか。随分と手のかかる優等生だったな」
俺はため息をつきながら、泣きじゃくる彼女の小さな体を、少しだけ乱暴に、しかし確実に引き寄せる。
泥だらけの彼女は、俺の制服にすがりつき顔を押し付けてさらに泣いた。華奢で、小刻みに震えていて、とても温かい。
これが皇恋華という、ちょっとだけ優等生な、どこにでもいる少女の隠し続けてきた本当の姿なのだろう。
(悪くない。この泥の温度は、極上だ)
俺は彼女の頭にポンと手を置く。
その瞬間、視界が真っ白にフェードアウトしていく。
心象風景の完全なる浄化と、再構築。それは、現実世界への帰還を告げる合図だった。
◆
水底から一気に水面へと引き上げられたような、急激な気圧の変化。
「――っ、はぁ、はぁ……!」
俺は荒い呼吸と共に目を開ける。そこは、見慣れた放課後の教室だった。
窓ガラスを覆っていた肉の膜は消え失せ、可空離世の結界は完全に解除されている。教室の中央で暴れ狂っていた泥の巨人も、跡形もなく消滅していた。
代わりに、空間には光の結晶が舞い、窓から差し込む夕日がそれらを黄金色に染め上げている。
俺は床に大の字になって倒れる。
他人の深層心理を強引にこじ開けた反動で、全身が鉛のように重い。精神エネルギーを使い果たし、指一本動かすのも億劫だった。
周囲を見渡せば、いつの間にか気絶させられていたクラスメイトたちはまだスヤスヤと眠っている。死にかけていたというのに、暢気なものだ。
「……終わった、か」
俺は安堵の息を吐く。
助かった。俺も、彼女も。これで俺の気まぐれな人助けは終了だ。
随分と柄にもない事をしてしまった。俺はどこまで行っても傍観者だ。助ける気が無かった、というのは嘘になるが、命を張ってまで助けてやる義務はなかった。
(俺が頑張れた理由。それはもしかして――)
何はともあれこの場にいるのは良くない。俺は全身を苛む痛みを堪え何とか立ち上がる。彼女が目覚める前にコソコソと立ち去り、明日からはまた“赤の他人”として、どこにでもいるモブキャラに戻らなくてはいけないのだから――
「――それで? どこへ行くつもりなのかしら」
頭上から降ってきた、零度に近い絶対零度の声。
俺の心臓がヒュッと縮み上がる。
恐る恐る視線を上げると、そこには腕を組み、仁王立ちで俺を見下ろしている皇恋華の姿があった。
逆光で表情はよく見えない。だが、その周囲に漂うオーラは、先ほどの精神世界で泣きじゃくっていた幼女のものではない。
学園の支配者、完璧な生徒会長としての絶対的な重圧だ。言うならばこの学校は彼女にとっての領域そのものだ。当然、俺に逆らえるわけもなく。
「あ、いや……皇さん? 俺はただ、帰ろうかと……」
「帰る? あたしのこと勝手に覗き見しておいて、放置して帰るつもり?」
彼女はコツコツとローファーを鳴らして俺の顔の横にしゃがみ込む。
至近距離。夕日に照らされたその顔は、怒り――いや、耳の先まで茹でダコのように真っ赤に染まっていた。
「剣城、灰戸。あなた、見たわよね?」
「……何をでしょうか」
「とぼけないで! あたしの中! あんな、メソメソ泣いてる恥ずかしいところも、ドロっドロに汚れたところも……ぜんっぶ、見たんでしょう!?」
「ひぃい!?」
彼女が俺の胸ぐらを掴んでガクガクと揺さぶる。
物理的な力なら振りほどけるはずだが、今の俺にそんな体力は残っていない。
「ふ、不可抗力だ! お前だってクラスのヤツらを殺したくなんか無かったろ!?」
「ああもう、最悪っ! 一生の不覚よ! よりによって、あなたみたいな性格がクソひん曲がってる不誠実男に見られるなんて!」
なるほど、これが彼女の本性ってワケか。これまた随分と分かり易い。
彼女は頭を抱えてじたばたしたが、すぐにハッと顔を上げ、俺の胸元をギュッと強く握りしめた。
いつもの完璧な優等生の瞳ではない。上目遣いで俺を見つめるその瞳には、熱を帯びた、異様なほどの執着が渦巻いていた。
「……それに、あなた言ったわよね? あたしのその、汚い泥の部分が……『好きだ』って」
「ん、ああ、言ったよ。とびきりだった。最高のコレクションだったと評価してやる」
「っ〜〜〜!」
俺が意趣返しを込めてわざと悪びれずに言うと、彼女はさらに顔を赤くし、俺の制服を握る手にギリギリと力を込めた。
「責任、取りなさいよ」
「は?」
「あんな一番見られたくない汚いあたしを見て、受け入れたんだから……。もう、あなたの前でしか、息ができないじゃない……っ」
それは命令というより、懇願に近い呪いだった。
「これからはずっとあたしの傍にいて。あたしの心を、一生あなたが管理しなさい」
「ちょっと待て、話が重すぎる。俺はモブとして平穏に――」
「拒否権はないわ。明日からあなたを生徒会役員に任命する。役職は……そうね、生徒会会計もとい、あたしのメンタルケア担当の座をあげるわ!」
「なんだそのわけわからん役職は! 絶対にお断りだ!」
「あら、そう? もし断ったら……あなたが今日、女子の鍵穴を熱心に覗き込んでいたって噂、校内放送で流してもいいのよ?」
皇は悪魔のような笑みを浮かべた。
語弊がある。表現自体に間違いは無いが確実に誤解を生む。そんな噂を言いふらされた日には俺の学園人生、いや人生そのものにピリオドを打たれてしまう。
「おいおいおい! 捏造にも程があるだろ! お前、完璧な優等生って設定はどうした!」
「あなたの前では、もう外面を取り繕う必要なんてないもの。……それに、生徒会長の言葉と冴えないあなたの言葉、みんながどっちを信じるかしらね?」
完全に終わった。
俺は天井を仰ぎ、深く、深く絶望のため息をついた。こいつは俺が思っていた以上に、厄介で、面倒くさくて、タチの悪い女だ。
俺の抗議など聞こえないふりをして、皇はフンと鼻を鳴らして立ち上がった。
その顔は、先ほどまでの完璧な優等生サマに戻っている。だが、俺に背を向けたその耳だけは、まだ茹で上がったように赤かった。
「……勘違いしないでよね。別に、あなたのこと認めたわけじゃないんだから」
彼女はボソリと、だが確実に俺に聴こえる声で呟いた。
「ただ……その、あなたの手、泥まみれだったけど……少しだけ温かかったから。傍に置いてあげるだけよ。……だから、他の女の心なんか、絶対に覗かせないから」
そう言い残すと、彼女は振り返りもせずに教室の出口へと歩いて行った。
残されたのは、疲労困憊の俺と、理不尽で重すぎる未来の約束だけ。
(……前言撤回だ。神様って奴は、バグの放置魔どころか、三流のラブコメ脚本家らしい)
俺は再び天井を仰ぐ。
平穏なモブ生活は、今日、彼女の心をこじ開けた瞬間に完全に終わってしまった。
投げやりに窓の外に視線を移す。校庭を歩く別の女子生徒の胸元に、また違った形の『扉』が微かに見えた気がした。
だが、そんなものを開けようものなら、俺の新しい「飼い主」が黙ってはいないだろう。
悪趣味な観察者の受難な日々と、完璧な生徒会長に重く愛され、尻に敷かれる毎日は、まだ始まったばかりだ。
短編中二病異能ラブコメです。
読みやすさを重視してみたので是非読んでやってください。




