二百九十話目「一頻り悩む」
二千二十四年五月一日。
作家として致命的な感覚のずれ。
よくある感動するシーンと言うのを、ダサいと思ってしまうおいどんの感覚のずれがある。
それを書いておけば、みんな「此処は感動すべき場所だ!」ってなると言う感覚が、なんか受け入れられない。
「そんなに都合の良い事が起こるわきゃないやん」と言う、おいどんの中の変なリアリティが、物語を……言ってしまえば、つまらなくしているのだろう。
考えるに。おいどんは虚無主義者なのかもしれない。
読者さんとしては、「そう言う所で現実的にならんでええねん」と思うだろうし、「なんでこの作者はつまらない日常を綴る事に熱心に成っているんだろう」と思うだろう。
文頭で物凄い事が起こったりしないし、「ゆっくり異変が進行して行く」と言う書き方をしてしまう。
書いてる本人もつらくなるくらい、ゆっくりと事態が進展して行く。
それだと、人気と言うものは得られないのだと知った。
ビシバシ異変が起こって、登場人物が、普通の人間が耐えられないくらいの体力を使いまくって、限界に達して気絶したりするほうが「エモい」らしい。
ドラマとしてはありだと思うが、日常的に気絶していたら、お仕事として成り立ちませんよね……と思ってしまうので、「ストリングトーン」では、主人公の休憩シーンや、食事シーンを、細かく入れている。
魔力と言う力に対しても、それが人間に寄っている以上、「無限に湧き出てくる力」ではないと思っている。
「走った時の疲労」とか、「重い物を持ち続けていた時の疲労」なんかを感じるように、持続的に使えば、生命力すら削り取って行くものだと思う。
マラトンの戦いで、勝った事を告げるために四十二点一九五キロを走りきった戦士は、その直後、死んだと言う。
そう言う事象ばかり覚えているからか、人間は本当に全力なんて出したら死ぬのだと言う事が頭の中の何処かにある。
だからこそ、お前の書く物語はつまらんのだ。超人的な人間を登場させろよって言うニーズがあっても、応えかねる。
能力が低い主人公が成長していく話も、「ストリングトーン」に限っては、少し違うと思う。
仕事として現場に行ったのだから、プロとして働けないと意味がないと、思ってしまう。
その他に、主人公が持つ力は、絶賛される「祝福」ではなく、穢れである「業」なのだと言う意識も、全体的にあの話の中に蔓延している。
もっと単純で分かりやすくて明るいファンタジーを書こうぜ。