百七十話目「トメィトを喰らう」
二千二十五年二月二十五日。
赤い。甘酸っぱい。美味い。果汁。沁みわたるリコピン。
疲れに効く。嚙み潰したトメィトが通過した場所から、随時癒されて行く。口、喉、食道、胃…後は分からない。
おいどんは、あんまり小腸を認識できない人なんですけど、小腸の様子が自分で分かる人も居るんですよね。
認識できないけど、その小腸がちゃんと動いてくれているから、毎日ご飯を食べても平気なわけですよ。
腸閉塞とかになると、お腹の中身が運ばれなくなって、色々と大変な症状が出るらしいです。
それはさておいて。
暇だからと言って文字ばかり打ってるわけに行かないのです。
特に明日なんて、出かける用事は何もできないと分かっているので、無駄に暇だし。
日中活動に行くのも大変だ。濡れ鼠にならんように出かけますが。
暇を持て余すのであれば、勉強の時間を設定しましょうか。
そう考えてみると、「面倒くさい」と思っている自分が居る。何故面倒くさいのか。楽しさを忘れているからですね。
飯の事が楽しい時期だから、その他の事が面倒臭くなるのは分かります。
飯は、レシピがあって、なるべくその通りに作ると、比較的美味しい物が食べられる、と言う、すごく分かりやすいご褒美があるのです。
だけど、創作的なことに関するご褒美は…あるかないか分からないんですよね。
音楽に関することだと、コード進行を忠実になぞるとか、感動的なメロディーラインを作り出すとか? を、しっかりやると、比較的「うまうましい曲」は作れるんですが。
それだと、納得できるような…納得できないような…。
だけど、言語における文法と同じものだと思えば良いんですかね。こう言う文法を使うと、こういう風に伝わる…と言うものだと、納得してしまえば、コード進行が予め決まっていても納得できる…かも。
だけどそうすると、面白みに欠けると言う現象が同時に起きます。
面白くないと思ってしまうと、不協和音で作りたくなったりするんですよ。心に不穏な影を残す音を使いたくなるんですよ。
まぁ、今まで、意図的に、協和音使ったことないけどね! って、言うのが、おいどんの弱みだと思う。一回、ちゃんと協和音のコードを学んでみよう。
食べたことないから嫌いって言うのは、あかんと思う。
この飯美味いから作ってみたら? と言って、飯を上手く作れる人がレシピを公開してくれているのに、その飯を「作ったことないから嫌い」って言うのは、実に理にかなっていない。
よし。手元に幾つか教本があるので、コピーしようとは言わないが、せめて眺めてみるくらいしてみよう。なんだったら、そのコードを鳴らしたらどんな印象を受けるのかを実践してみよう。
こんな基礎知識のない奴が、どうやって音楽を作っていたのか…それは、元々持っていた音感を、頑張って開発したからです。
その元々の音感と言うのが、不協和音が大好きだったと言う事さ。
本当、一時期作ってた曲の曲調なんて、全部ホラーですもの。主題からしてホラーだもの。
だけどあの主題は今でも好きです。
だから明るい曲を作った時に、借りる絵に困るんだと思う。