7話 束の間の休息
長い悪夢だった。
1年もの間、ヨゼから与えられる痛みにのたうち回った。
でも、ぎりぎりのところで僕は生きることを諦めなかった。
あふれだした力と、やっと手にした自由。
(ところでここは、どこなんだ?)
夢から現実へと、意識が浮かび上がる。
見慣れない部屋のベッドに、僕は寝かされていた。
僕の様子をうかがう気の強そうな女性。
そして、女性の後ろで椅子にもたれる謎の男。
彼女は男を、王と呼んだ。
寝起きの頭で情報を呑み込むまでに数秒。
僕は、あわててベッドを飛び起きた。
彼らは敵ではないかもしれない。
でも、味方だとも限らない。
「お前ら、誰だ!」
ここはどこで、一体何があったのか。
得体のしれない相手であっても、
確認したいことなんて山ほどあった。
「あー待て待て、危害を加えるつもりはない」
のんびりとした口調で、僕の勢いを
さえぎったのは椅子の男だった。
興奮した飼い犬をなだめるように、
手のひらの動作で「待て」を示す。
「誓って何もしていない。路地裏でブッ倒れてたから運んだだけだ」
言葉の響きに嘘はないような気がした。
深く眠れたからだろう。
消耗していた体は幾分楽になっていたし、
冷静な思考も戻ってくる。
倒れる直前に見た二人分の人影を覚えている。
もしかしたら、路地で見かけたフードの二人組が
彼らだったのかもしれない。
そして、倒れた子供に出くわして親切に
介抱してくれただけなのかもしれない。
(疑いすぎたか?でも、王とか言ってたし…)
小さく息を吐いて、ほんの少しだけ緊張をゆるめる。
まずは情報収集が先だ。
男は、自分を魔王だと名乗った。
今魔界を支配する王ではなく、座を追われた昔の魔王だと。
そして、傍らにいた女は彼に仕える執事らしい。
「ただの執事だ」
そう名乗った彼女は、誇らしげに胸を張っていた。
(絶対に「ただの」執事じゃないよなあ…)
王と執事といえば主従のはずだが、彼と彼女の関係は対等に見えた。
むしろ、男の方が執事の尻に引かれているようにすら見える。
「取って食おうなんて考えてないから、気楽にしていてくれ」
ふにゃりと元魔王は笑った。
(こいつ、ゆるい…)
威厳こそ感じないが、気づかないうちに懐に入ってくる男だ。
意図的なのかもしれないが、警戒心が保てない。
勝手にゆるんでしまう。
「ただ」
男の空気が切り替わる。
「なんでお前、あんなとこで倒れてたの?」
まっすぐな目で、彼は僕に問う。
「それは…」
元魔王とかそういうのは抜きにしても、
倒れていた僕を助けてくれた恩人だ。
答えるべきだとは思った。
事情も話さないのはさすがに恩知らずすぎる。
ただ、どこからどう話せばいいのか。
まともな会話自体が久しぶりで、
どうしても言葉につまってしまう。
うまく話せずにうつむいてしまった僕はどう思われたのか。
しばし気まずい沈黙が流れる。
コホンと咳払いをひとつ、沈黙を破ったのは元魔王だった。
執事に背中を小突かれた気がしたが、きっと気のせいだろう。
「まあ言いたくないならいいさ。体調がよくなるまで
ゆっくりしていくといい」
彼の言葉に執事も小さく頷く。
「そういやお前、名は?」
今すぐに出ていかないというのなら
呼び名がないと確かに不便だろう。
でも、そういえば僕の名前ってなんだっけ…
そうだ、多分。
「ローク!」
母さんはいつも僕をそう呼んでくれた。
自分の名前と言われると、心当たりはそれしかない。
僕の答えを聞いて、元魔王はじとっとした目で僕を見た。
執事の表情はよくわからないが、あきれているような気配だ。
「いやそれ、幼子への愛称…」
頭をかきながら、彼はそうぼやいた。
あげく、
「俺ら、そんなに信用ないものかね」
なんて執事に声をかけている。
戸惑っているのは僕の方だ。
魔界に生まれて3年。
僕は自分の名前すら知らなかったのか。
自分の存在すら不確かになったような気がして、
僕は自分の体をぎゅっと抱きしめた。
どうにか声を絞り出す。
「他にはわからないです…他に呼ばれたこと、ないから」
「ん?そうか…」
僕の言葉に、元魔王は何か思うところがあったらしい。
少しだけ考えるそぶりをして、彼は僕に尋ねる。
「生まれは?」
森の家での暮らしを思い出しながら僕は答える。
「フトホ村っていう貧しい村…」
村はずれの森の奥、僕と母さんは暮らしていた。
貧しくても幸せな日々だった。
その答えに彼は明らかに動揺していた。
顔を見合わせて、執事と小声で二言三言交わす。
執事の彼女も驚いているようだ。
「まさか」
「そんなことが」
なんて声が聞こえてくる。
状況がわからない僕は彼らのやりとりを
ぼんやりと眺めていた。
やがて、意を決したように元魔王は口を開く。
「お前…親の名は分かるか?」
僕の何が引っかかるのか。
言葉には有無を言わさぬ圧があった。
僕に向けられる視線は裁定を下す王の目だ。
僕にとっての親はひとりしかいない。
最期まで僕を守ってくれた彼女。
「ミテスという名の、オークです」
元魔王と執事は揃って目を見開いた。
彼らが探し続けた探し人、失われたかもしれなかった
希望が目の前にあった。
「お前、転生者か!」
元魔王が声を上げた。
その声の勢いに僕はびくりと震えた。
転生者だとまたバレてしまった。
また、売られるのだろうか。
あるいは今度こそ殺されるのか。
「な、なんで…」
よみがえってくる恐怖で体が崩れ落ちそうだ。
「王…」
「わかってる、黙ってろ」
二人はさっと視線を交わす。
せっかく会えた相手に変な誤解をされてはたまらない。
「言っておくが、俺らは転生者だからといって
迫害・差別するつもりはない」
元魔王は言葉を選んで話す。
告げたかった想いを話すにはまだ早い。
「だから安心してくれ。俺は少し外すよ」
まずは心と体を休めてほしい。
そのためにも、ひとりで落ち着く時間が必要だろう。
彼はそう判断した。
「夜には飯を持ってくるから、それまでゆっくりしておきな」
あえて軽く声をかけて、元魔王は部屋を出ていった。
「では私も…何かあれば下の階へ」
彼の意図を察し、執事も後に続く。
部屋には僕一人、誰もいなくなった。
やっと少し落ち着けると思った
矢先に、転生者だと知られてしまった。
本当は逃げるべきなのかもしれない。
でも、ひどく頭が痛む。
疲れていた。
何も考えたくなかった。
血の匂いがしない清潔な部屋の上質なベッド。
布団に潜り込んで、柔らかな闇の中で丸まる。
もう、嫌だ。
痛いのも怖いのも嫌だ。
もう、戻りたくない。
死にたいなんて思いたくない。
僕はちゃんと、この世界で生きていたい。